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AIの発達による第二次ルネサンスの可能性

最近、研修に行って何かと聞くのがAIが発達しすぎて今ある仕事がとって代わられちゃうよという話。
10回くらいは聞いたので、そろそろ聞き飽きました。
社会科の教員なんて、速攻で無くなりそうとか思ってるのですが、全く実感がわかないのも現状です。

ところが、もう将棋はAIが強いし、ホテルの従業員のほとんどがロボットという店舗もある。
AIが人を支配する世の中がそう遠くないだろうな、とも思える。
まあ、そういう世の中にしていくのが人間であるという矛盾がそこにあるわけなのですが。

さて、そうは言ってもAIは便利です。この技術によって人類が救われることの方が多いわけですよね。
もう、人間なんでもできんじゃないかという予感を感じさせるほどの勢いです。
そしてこれからは、AIを主軸に置く世界がだんだんと整っていくと。

わからなかったら、AI。
困ったら、AI。
迷ったら、AI。

だって、AIは感情に左右されない。すべてにおいて最適解を見つけだしてくれる。
頼りまくるよね。絶対なんだもん。
それは言い換えれば、AIは全知全能に近づいているということ。
この世界に神様がいるとすれば、次にその存在に近いのは間違いなく、AIだと言えるのではないか。

さて、突然歴史の話をします。
中世ヨーロッパは、キリスト教の精神が蔓延していた時代でした。教会にいる聖職者はめちゃめちゃ強いし、すごいえらいわけです。なぜか。
例えばこんな話があります。

『地面にある石ころを天に向かって投げると、その石ころは地面に落ちてきた。』

なぜですか、と聞かれたらどう答えるでしょう?
当然、私たちは重力が働いてるからと答える。

しかし、当時は違う。

『(石ころが地面に落ちてくるのは)神が万物を地にあるものと天にあるものとに振り分けておられるからであり、石ころは地に属するものだからだ。』

と考える。
はあ?と思った人がいると思います。理屈になっていないと。
しかし、中世のキリスト教世界では、理屈は不要です。
なぜなら、神が絶対だという共通認識さえ持っていれば成り立つ世界だからです。
言い換えれば、「世界の全ての現象は、神によるものであると信じる社会」が中世ヨーロッパであるということです。

この共通認識というからくりは、約7万年前に起こった認知革命によるものであると、ユヴァル・ノア・ハラリ氏は著書である「サピエンス全史」の中で述べています。
人類は「現実には存在しないものについて語り、信じられる」ようになり、「大勢で柔軟に協力するという空前の能力」を手に入れた。
これは、より新しい思考と他者と意思疎通を図る手段として発達してきたことによるものだと。
つまり、宗教は虚構であると述べています。

ここでは、神の存在について言及を避けますが、キリスト教の考え方では、神はいるかどうかわからないけど、あきらめずに祈り続けることこそが信仰であると解釈する場合もあるようです。

だいたい、中世ヨーロッパのキリスト教精神はこんな感じです。
そして、この中世ヨーロッパが大きく変革するきっかけになったのが「ルネサンス」です。(ルネサンスについてはもう一本書く予定です。)

(ボッティチェリ作 「春」)
特に顕著な例として出されるのは、レオ10世による贖宥状の販売であると思います。レオ10世はサンピエトロ大聖堂の建築費用を賄うために、買えば誰もが救われる(とされた)魔法の札を販売してしまいます。これが、キリスト教世界を世俗化してしまった(ワンランクダウンさせてしまった)わかりやすい事例です。絶対的だった神が、また限界状況に追い込まれたとき助けてくれる神が、人の手によって人の世界と同じ目線に立ってしまったのです。

この瞬間、人間は神に対する”疑い”を持ち始めます。ヒエラルキーの頂点にいるローマ教皇が、神を安売りするようなマネをしたのですから当然です。

「神は本当にいるのだろうか?」

「この世界は本当に神によって創られたのだろうか?」

この”疑い”は、良い意味でも悪い意味でも、人間を一歩前進させる大きな要素となります。

つまり、『この世界の主人公は神ではなく、私たち”人間”ではないか?』

という思考にたどり着くのです。この考え方が生まれなければ、科学の発展は遅れ、産業革命は起こりえなかった可能性が高い。これについては、話すと長くなるのでまた別の機会に。

さて、このように今まで絶対的であった神ではなく、人間を世界の中心に据えたことが近代化の始まりであり、人類史のターニングポイントとなります。

そしてなぜ、ルネサンスはギリシア・ローマの文化の復興であったのかは明白です。中世の宗教絵画が多かった文化を見直し、より生々しい肉体的な人間美に注目せざるを得ない状況がヨーロッパに訪れたからなのです。

では、ルネサンスの意義とは何だったのか。

それは、ヨーロッパ世界の中心に据えられた神による絶対的権威からの脱却であり、同時に”人間の尊さや美しさ”に気付いた瞬間だったのではないかと思います。神がいなければ救いようがない、と感じていた私たち人間にも、こんな気高さや勇気や希望があったんだと。

ルネサンスまで絶対に思い描くことのなかった「神は、存在するのか?」という問いは、”人類の可能性”に”人間自身が気付くことができた”契機になったのです。

ここまで長々と語ってきましたが、本筋に戻ります。AIの発達です。冒頭でも述べた通り、AIは私たちの想像を超える進化を遂げています。それは、ルネサンスを機に、世界を科学的・合理的に捉えようとしてきた人類の末路とも言えるのではないか。ウェーバーが唱えた脱魔術化は、確かに私たちの啓蒙主義的な視点を俯瞰していましたが、絶対的なAIの登場は私たちの世界の再魔術化に他ならないのです。つまり、AIが物神化し、神秘的なものに変化していく可能性があることを人間は考慮しなければならないということです。それが、良いのか悪いのかは別として。

これはすなわち、第二次ルネサンスの予兆であると私は考えます。作業的な仕事はAIに取って代わられてしまう。なら、果たして「人間には何ができるのか」。今、教育や社会に求められているのはその視点です。AIにはなく、人間にあるものは何か。これを考えるためには、原点に立ち返らなければならない。人間とは一体何なのか、考え続けなければならない。

ルネサンスから600年の時を経て、私たちは再度”人類の可能性”を見出す転換期を迎えているのかもしれません。












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