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お年玉のポチ袋から未来の感情について考える

 今日は風が強くて、さらに寒く感じる。寒い日のお散歩は、最初はちょっとつらいけど、体があったまればぜんぜん平気だ。

 もう1月も後半なんだけど、なぜだかお年玉について考えながら歩いていた。そういえば、去年もおんなじこと考えていた気がする。その前もかも。よっぽどお年玉に思い入れがあるのかなあ。


お年玉の醍醐味

 お年玉をもらうときの醍醐味といえば、やっぱり手渡された瞬間の、ポチ袋の感触だと思うんです。本当にまだ小さい頃であれば、硬貨が入っていることも多くて、紙のお金が入っているのか、それとも丸いお金が入っているのか、ポチ袋を手に取ってすぐに分かった。

 もう少し大きくなると、事情は少し複雑になる。
 基本的には、紙のお金、紙幣が入っているから、硬貨かどうかという単純な問題はほとんど存在しない。それよりも、紙幣の枚数と額面の組み合わせが関心事となる。

 例えば、渡された瞬間、かなり分厚かったとする。ここで「ん、なかなかこれは分厚いぞ。むふふ。大金ゲット」と考えるのは、まだまだお年玉初心者だ。分厚い場合、千円札の可能性が高い。千円札が5枚入っているよりも、一万円札が1枚のほうが、実際に手に入る金額は大きい。それならポチ袋が薄い方がいいのかというと、もちろんそんなことはなく、枚数も額面もどっちも少ないなんてこともある。額面が小さいのなら、せめて枚数は多くあってほしい。

 つまり、ポチ袋の中身というのは、厚さだけで判断できるほど単純な話ではないということ。相手との人間関係、両親なのか、おじいちゃんおばあちゃんなのか、親戚なのか、ご近所さんなのか、お年賀のお客さんなのか。それから、毎年会っているのか、久しぶりに会うのか。どれくらい可愛がられているのか。色んな要素が複雑に絡み合う。

 すべてを鑑みて考慮した結果、ポチ袋を手にとった瞬間に「この人からのお年玉が、これだけ厚みがあるということは、千円札か」とか、「お札は複数枚入っていそうだけれど、去年は一万円入っていた人だ。とすると、今年は一万円札が2枚、いやいや、縁起にこだわる人だから、まさかの3枚か!」とか、「お、去年より厚みがない。ということは、ついに千円札から1万円札になったか」なんて期待して開けてみたら五千円札だったりと、こんなワクワク感を堪能する。

 もちろん、本気でこんなにガツガツしていたわけじゃないけれど、そんなことを手で感じながら予想するのも、子供にとってはお正月の楽しみだった。

これからのお年玉

 ところで、これからのお年玉ってどうなるんだろう。

 伝統的なスタイル、つまり、ポチ袋に現金が入ったものを、新年の挨拶の後に手渡されるんだろうか。それとも、スマホを使ってなんちゃらPayで貰うようになる、または、なってきているんだろうか。

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 元旦。年末から半年ぶりに、父の実家でもある洋介の家で過ごすカズヤ。東京生まれ東京育ちのカズヤにとって、たまに来る静岡の祖父母の家は、茶畑に囲まれた異世界だ。洋介にとっても、初孫のカズヤはまるで異世界の住人のようで、洋介自身も理解しがたい可愛さを感じていた。

「おじいちゃん、あけましておめでとうございます!」
「やあやあ、おめでとう。カズヤも大きくなったなあ」
「・・・」
「あ、ああ。分かっとるよ。ほら、スマホを出してごらん」
「はーい」
 嬉しそうに笑顔でスマホを取り出すカズヤ。さらに輪をかけた満面の笑みで、同じくスマホを取り出す洋介。
「ほら、送るぞ」
 画面に見入るカズヤ。少しの間。カズヤの笑顔が、少し曇る。通信がうまくいかないのか。
「ピポロン♫」
 独特の耳に残る通知音とともに、カズヤに笑顔が戻る。
「おじいちゃん、ありがとう」
「うんうん。大切に使うんだよ」
 そんな洋介の声は、カズヤに届いているのかどうか。カズヤは画面に見入って、桁を確認することに集中している。
「いち、じゅう、ひゃく、せん、まん」心のなかで桁を数え上げ、3万円送信されたことを確認し終わると、カズヤはさっきの笑顔よりも、さらに目を光らせながら言った。
「おじいちゃん、ありがとう!」
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 なるほど。お年玉もスマホ決済でというのもあり得るか。

 でも、ただ金額を送るだけじゃ面白味がない。例えば、ポチ袋の代わりに、イラストや写真も一緒に送れたりするのだろうか。あ、そうか。各決済業者が、かわいいポチ袋、お正月らしいポチ袋のイラストなり写真なりを販売するのかもしれない。または、一年間決済してきて、それで付与されたポイントと交換できるとか。

 スマホ決済ということは、遠くてお正月に会えない親戚なんかでも、手軽に送ってもらえそうだ。送る方は嬉しいのかどうか、本音のところは別にして。

 とはいえ、これじゃ「ポチ袋をも手にとった瞬間の、厚みから感じるワクワクか感」が演出できていない。あの正月だけの特別なワクワクを体験できないなんて、少し気の毒な気もする。

感情の再現

 ちょっと待って。もしかしたら、Hapticsなんかの触覚を再現するような技術で、厚みを感じさせることができないだろうか。それなら、遠くの親戚からネット経由でお年玉が決済されても、カズヤのスマホがブルッとうまいこと振動して、あのワクワク感も再現できるかもしれない。

 もう少し話を進めて。それならメタバース的な空間で、親の実家、おじいちゃんやおばあちゃんに会いに行ってもいいんじゃないかなあ。そこに茶畑に囲まれた、カズヤにとっての、ドキドキするようなリアルな異空間はない。それから、そこでもらうポチ袋にも、リアルな厚みで感じるワクワク感は伴わない。
 でも、それを再現することはできるかもしれない。まるで田舎のお茶畑のようなドキドキする異空間。それは必ずしもお茶畑である必要はなくて、ドキドキする空間を演出できればいい。それから、本当に手渡されたかのようにワクワクするポチ袋の厚み。これも、ポチ袋の厚みを感じる演出をするのか、または、それに匹敵するようなワクワク感を演出する。そうすれば、そこに楽しいお正月を再現できるかもしれない。

 人間って「ナニにワクワク」するんだろう。ワクワクするというのは、どういう心の動き、つまり、どういう脳の働きなんだろう。それが解析できれば、仮想空間には、おじいちゃん家の茶畑以上のワクワク空間を作ることができるかもしれないし、ポチ袋の厚み以上にドキドキするお年玉の渡し方を演出できるかもしれない。

 ただ、素朴な疑問として、人間って仮想空間でも現実の空間と同じくらいに、楽しんだり悲しんだりと感情を動かされるのだろうか。映画とか小説なんかでも感情は動かされるんだから、更にリアルな仮想空間でなら、もしかしたら人間の感情は、現実世界と同じように動かされるのかもしれない。

まだ知らない感情

 じゃあ、さらに進めて。ドキドキとかワクワクとか、そういう抽象的なことじゃなくて、ただ脳の働きに淡々と関与することで感情をコントロールすることができるだろうか。
 おじいちゃん家の周りの茶畑以上にドキドキする空間を演出するとか、ポチ袋の厚み以上にワクワクするお年玉を演出するとか。根本的にそういうものじゃなく、脳のここにこんな刺激を与えると、こんな感情が現れる。単純にそれだけを考えて、感情をコントロールする。
 そのために必要なのは、視覚や聴覚、触覚、味覚、臭覚なんかを刺激することなのか。もっと直接的に、脳に電気的な刺激を与えることなのか。
 それによって、現実世界よりもさらに強いドキドキやワクワク、今まで感じたとのない様な楽しさ、嬉しさ、悲しさ、切なさ。今までも経験していた感情を、今まで経験したことがないくらいに強く感じさせることは可能なんだろうか。もっと言ってしまえば、その先には、いままで経験したことのない、「未知の感情」というのが存在するんだろうか。

 メタバースなんかが流行ってはいるけれど、とはいえそれは、現実世界をお手本に、それを仮想的な空間を広げただけのこと。多少の+αはあったとしても、今でも認識可能な事柄の範囲内だ。

 現実世界にはないこと。たとえば、未知の感情。人工的にコントロールする感情というのは、どこまでの可能性があるんだろう。

 そもそも人間が感じたことのない感情があったとして、人間はそれと共存することはできるのかなあ。

 なんてことを考えながらのお散歩でした。

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2021/01/15
Ahiru Ito

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