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【短編小説】踊るわたしは、水の中から

酸素が、薄いせいだ。照明が明るくなった瞬間、心の中にそんな言葉が降ってきた。まばらに響く拍手の中、深いお辞儀から顔をあげた自分の笑顔を想像すると泣きたくなる。
いつだってそうだ、こうやって自分は。浴びる拍手に罪悪感を覚えるのは、どこまでも自信がないせい。自信が発生する源がわからなくて、周りと比べては悲劇のヒーローみたいに恐れを抱く。
ダンスを極めたい故に身体を動かし続けていたら、自分の目指すものから反比例するようにわたしからしなやかさは奪われた。舞台に立ったというのに、今日は大事な日だというのに。わたしはここにいる誰よりも硬かったんだろう。身体中の筋肉が、泣いている。叫んでいる。今の笑顔は、どれだけ「嘘」なんだろう。見に来てくれたお客さんのことを思うと泣きそうになって、ぬぐった汗がやけに不快だ。
青色のシャツが、少しだけ濃くなった。自分の汗で濡れたところだけ、濃くなった。

いっそ舞台が海であればいいのに。そうであれば、思いっきり泣いてもばれないのに。
そんなずるいことを思って、いつもよりも大きな足音を立ててステージから去っていった。





ダンスが好きだ。
人生でやっとみつけた、自分の居場所。自分のアイデンティティ。
わたしがわたしであると表現できるもの。

踊っているときだけは、自分のことを好きになれる。運動神経がよかったこともあって、ダンスを始めた当初は同期よりも何倍も「上手」に踊れた。教室の先生が、わたしの上達にニコニコするのが嬉しかった。

そのはずなのに。
踊る。踊る。回る。
踊れ。踊れ。回れ。
いつからか、躍っていくたびに。自分がなくなっていく気がしてしまった。動くたびに鉛筆けずりのように自分の芯が削られていく気がして、だんだん怖くなった。ダンスをしながら、笑うのが正解かもわからない。自分の表情が、わからない。
だけど、あの日憧れた「あの人」は、笑っていないのに笑っているように見えて。その姿に惚れたまま、ただひたすらに踊ってきたのに。そんな風に、わたしもなりたいはずなのに。
笑おうとすると、筋肉が硬まってしまって。それがどんどん身体に広まっていく気がして。


だからだろうか。

しなやかでない今のわたしを好きだという彼のことも。
わたしは。




「お前はいいよな、夢中になれることがあって」

目の前の彼が言い放った言葉に、口の中にある大トロの味が半減した。咳払いしそうになったのを必死に押し殺したら、のどが変な音をたてた。ばれていないかな、きっとばれていないだろう。彼はわたしを、見ていない。
「どういうこと?」
目の前にあるレモンサワーのグラスには、だいぶ水滴がついている。ぬるくなった炭酸は、おいしくない。少しだけ眉をひそめて、流し込むように大トロを胃にいれて、笑って彼を見つめてみた。
「いや、そのままの意味だけどさ」
なんてことないように言い放ち、「うま」と言いながら大トロをほおばる彼。お待たせしましたと運ばれてきたビール。無言で受け取り思いっきり飲んでまた一言、「うま」。
晴れ舞台のあと、「お祝いがてらに寿司に行こう」と言われて迎えた今日。回らないお寿司屋さんの個室。音が少ないここで、今日、わたしは目の前の相手に言いたいことがひとつだけある。言おうとするとタイミングよく来るコースのお寿司に若干のいらだちを覚えながら、それでもお寿司のおいしさに勝てなくて、善と悪が行ったり来たり。
「……」
特に言いたいこともなくなって黙り、大好きなエビを食べていると。右手の横に、ごつい左手が伸びてきた。
「パスかえた?」
当たり前のようにスマホをチェックする彼に、「ああ、友達が見てくるからかえたの」と答えて、自然と、あくまで自然な動きで手を伸ばしてスマホを開いて手渡す。ラインを開きあーだこーだ言ってくる彼の声に、笑顔で相槌を打つ。

一時間半が、半日に思えた。長くて、仕方なかった。足のつま先がじんじんする。真夏なのに、足先だけ冷たい。どうしてだろう。
「ラストオーダーのお時間です」
店員さんがふすまを開けてきた瞬間、ほっとした。
「オレンジジュースで。あ、あと…生ビールひとつ」
ここでもまた当たり前のように言い放ち、お会計をうけとる彼。
お祝いに甘えていたわけではないけれど、どうしてだろうか。お札はいつもよりも多くおろして準備をしていて、その勘があたってしまったようだ。
しっかりと折半をしてお店をでて向かうのは、今日もわたしの家。
どうしていつもわたしの家なのかは、もう知っているから聞かない。見慣れないものを人は見たくないし、見せたくもない。
繫いだあいつの左手の中指は、しなやかだった。爪も短い。わたしたちは、つながることはなかったのに。
ビールのせいで早くなった動悸。また酸素が薄い気がした。

ねえ、知ってる?
わたし、ビール飲めないの。
ビール、好きじゃないの。


好きじゃないの。




「息、してる?」

かけられた声に、はっとしたのは、お寿司を食べたその一週間後。「別れたい」とだけ送り、何度もかけられてくる通話を無視し、今もなお鳴っているスマホにうんざりしていたところ。肩が上がるくらいに低い声で先生に声をかけられて、全身から汗がでた。
「してなかったら、死んじゃってますって」
いつものように、ノリの良い感じで返すと、途端に空気が変わった。間違えた。
「じゃあ、死んじゃってるよ」
まっすぐにこちらを見てくる瞳。凍った空気が刃のように肺に入ってきて、それが突き刺さる。
キュッ、となるシューズの音。あのとき笑ってくれた先生が最近冷たい理由も、全部わかっている。今だって、そう。わたしは本音を隠してまたいつものようにノリで返して。
自ら自分の酸素を奪った。

家に帰ってくるなり、衣類のすべてをはぎとりベッドにもぐる。鳴り続ける通知をすべてオフにして、布団にくるまる。そういえば最近、肌荒れがひどい。じんわりとかゆい顎を触ると、でき始めのニキビの感覚がした。うざったい。
明日のアラームを設定しなきゃ。そう思ってスマホを開きパスワードロックを開いた瞬間。

写真フォルダのおすすめが、目に入った。

それはいつだったか、彼といった水族館。
あの日、彼とわたしが恋人になった日。
こんなときに、そんなおすすめをだしてくるなんて、スマホなんて、嫌いだ。




「魚はいいよな、やわらかくて」

隣にいる彼がそうつぶやいた。わたしにしか聞こえない声で水槽を眺め、少し上を向くその顔に心がときめいたのを今でも鮮明に覚えている。
「俺たちがこんなにもなやんでいるときにも、すいすい泳いで前に行くんだよ。いいよな」
なげやりな言葉が胸にささって、うつむきながら少し考える。
すいすい、泳いでいく。
「…本当に、そうかな」
「ん?」
この日のために買ったワンピース。なれない、5cmのヒール。今思えば、あの日の彼は、わたしの靴擦れなんて関係なしに早足だった。
「魚は、息してるのかな」
水槽に手を添えて、小さな声でそう言った。彼からの視線に気づかないふりをしながら、泳ぐイワシの大群に目をやる。
「……」

そっと繋がれた手。彼の左手は、どことなくぎこちなかったけれど、やわらかかった。
「してるよ、きっと」
力が込められた手に、わたしもそっと握り返す。
「水槽の中で、躍ってるみたいだな。俺たちと一緒だな」
イワシの大群をあとに、次の水槽に向かう彼。繋がれた手はそのまま、わたしはつられるように、釣られるように後を追う。

「俺は好きだよ、躍っているーー」

後で泳ぐジンベイザメが、思いきり回転した。



あの頃の彼は、もういない。
あの頃のわたしも、もういない。

だから、今がある。
だから、今踊るのだ。

ステージに立つ。深呼吸をする。
踊る。踊る。回る。回る。

ここは、海だ。永遠に続く海だ。
どこまでも深く、どこまでも暗く、どこまでも迷路。とても残酷で、苦しい。
だけど。もしも私が人魚ならば。続く長い道を諦めずに泳いでいたなら。輪っかがつながるみたいに、いつかまた同じところにたどり着くんだろう。
手と手をつなぐみたいに、リボンを結ぶように。

酸素が欲しいなら、陸に上がればいい。酸素が嫌なら、海に潜ればいい。
泳いで泳いで、もがいてもがいて海面へあがる。みたことのない、温かい色。いつかの誰かが飲んでいた「オレンジジュース」なんかよりも、もっと。
もっと暖かい、温かい、あたたかい。オレンジ色の光に向かって。


踊り切った先で、音がした。それはきっと、わたしにしか聞こえていない音。
自分の汗が一滴だけ、地面に落ちた。これまで聞こえなかった音が聞こえた。
その瞬間、拍手が頭に響いた。まるで、炭酸のように。ひとつひとつがはじけるように。音をたてて心に注がれた。
二酸化炭素も悪くはない。「ふう」と音を立てて吸った空気は、これまで味わったどんなものよりもおいしかった。

ここが海でないことを知る。ここが陸であることを知る。

わたしは、マーメイド。
陸を目指し、どこまでも泳ぐマーメイド。
自由気ままに海陸を行き来し、どこでも呼吸ができる、そんな存在。

あたたかなオレンジ色を目指して。

今日もわたしは、ステージで踊るのだ。

親愛なる親友へ向けて。
あなたのダンスが、世界を照らしますように。

とある女の子の、物語。

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