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Re:3年間「学校行くなら死にたい」って思ってた

9月1日が来る度に、「またこの日が来てしまったか」と悲しくなる。1年でいちばん中高生の自殺率が高い日だ。これは国の自殺総合対策推進センターが公式で発表している事実であり、いまもなお継続しているそうだ。
そんな悲しい日があっていいものか。絶対によくない。そんな数字、あってはならないものだ。

新学期。長い夏休みを終えた今、崩れてしまいそうな恐怖と絶望を抱えて学校に行っている中高生がいると思うと、わたしはいてもたってもいられなくなる。どんな思いで学校に行くのか、そこがどんな戦場なのか。わたしには全員の苦しみはわからないけれど、それでも。
いじめだけはどうしてもゆるせない。

前の記事でも書いたけれど、わたしは嫌がらせを受けていた黒歴史がある。頭から水をかけられたとか画鋲がうわばきに溢れていたなんていう、目に見える漫画のような世界ではなかったけれど、心を蝕むのには十分すぎる嫌がらせを受けたことがある。画鋲はないけど、落ち葉はあった。風情を感じるなぁなんて思う余裕はなかったけれど頭は冷静で、ひっくり返したらそれはすぐに地面に落ちて行った。あっけなかった。

天パが嫌で髪をショートに切った時も、ストパーをかけてちょっとでも見た目に気をつかったりしたときも、クスクス後ろで笑い声が聞こえた。
ブスのくせに調子乗んなよ、と言われたら、黙るしかなかった。いつ調子に乗ったのか、わからなかった。
体育の授業が死ぬほど嫌で、失敗するのが怖くてボールがうまく持てなかった。案の定、失敗したら「あいつの顔の真似しよう」って笑い者にされた。わたしも多分、笑ってた。
大好きだった男の子は、いじめられるようになったわたしを見て態度を変えた。あんなブス、好きになる訳ねーだろ。なんでなんだろう。なんでなんだろうな。

学校なんて嫌だと、前面に出していたはずだった。行きたくないと行ったこともある。
だけど、両親は「何行ってるの。学校には行きなさい」と行った。
学校には行きなさい。
なんでなんだろう。

気づいていたはずなのに、何も言わなかった先生。
なんで止めなかったんだろう。何を守りたかったんだろう。

気づけばそんな地獄は終わって、わたしは今もう社会人な訳だけれども。
それでも、今でも思い出すだけで鬱になりそうなくらい嫌な記憶だ。なんで普通な顔していられたか、自分でもわからない。わからないことが多すぎて、多分感覚が随分麻痺していたのだと思う。わからないんじゃなくて、痛みを感じる大事なところが、心が死んでいた。

自殺のニュースを見る度に、この子は最後に何を思ったのだろうと考える。誰に何を、最後に何を食べて、誰と何を。そんな風に、終わりを迎えた命にとてつもなく想いを馳せる。

思いつめている子たちがいちばん助けを求めたい大人は、残念なことにわかってくれないことが多い。
彼らは、都合がいい時には良い親・先生ぶるのに、本当に助けて欲しい時にはわかってくれない。「行かなくていいんだよ」が聞きたいだけなのに、逃げさせてくれないことが多い。なんでなんだろう。いつになったらこの社会が変わるんだろうか。
大人を教育してくれる大人は、いないのだろうか。先生を教育してくれる先生は、いないのだろうか。

これは完全に主観であり、理解を求めようとは微塵も思っていないのだけれど。

わたしは、いじめられたことがない人が語る「いじめから逃げる方法」みたいなものは、本当に嫌いだ。申し訳ないが、本当に嫌だ。
それぞれ本当に納得がいく綺麗で知的でごもっともな意見なんだけれど、そんな「俺が思ういじめ回避法」みたいな高度な術は、いじめられてる子供には役に立たない。てかまず、そこまでのエネルギーがない。
自分から何かをしてみようとか、「君が発言すれば」とか、こちらに何かを求めないで欲しいとさえ思ってるくらいなのだ。
基本的に受け身だからいじめも我慢してしまうのだと言うこと、その習性をまずわかって欲しい。

嫌なら「行かなくていい」なんて言葉、いじめを受けてないから言えるクソ綺麗事だと私は思ってる。
そのセリフは、親からしか聞きたくないし、聞きたくなかったし、子供は親からの言葉くらいしかその時信じられない。
行かなくていい。それができたら多分すぐしてた。逃げていいってわかってたら、すぐ逃げてた。「たすけて」が通ずるとわかっていたら、喚き散らかして泣いて縋った。それができなかったのは、それら全てをした後のことを、未熟ながらも想像していたからだ。

逃げていじめられたらどうしようとか、もっとひどくなったらどうしようとか、起こかもわからない先のことを考えたりだってする。

「行かなくていいんだよ」
それだけが聞きたいのに、大人は理由を求めたがる。何があったの、何をされたの、行きたくない理由を言いなさい。
そんなの、今どうだっていいのだ。死にたいくらい悩んで、ただもう「行きたくない」しかSOSがだせないのだ。

いじめられたことないくせに、
わかったようなこというなよ。

わたしがずっと思っていたのは、これだ。たぶんこれが一番叫びたかったことだ。
勝手で子供だとはわかっているけれど、子供の時のわたしが感じていたことはこれで、今でも変わっていない。

百の知見よりも、一の経験だ。わからないくせに、わかったこというなよと思ってしまう。
不思議なことに、実際にいじめられて闇に落ちたことがない人の意見は、すぐにわかる。どんなに説得力があっても、素晴らしい論文でも。
大人だから気づいてしまうのかもだけれども、「この人、本当に何もわかってない」って思ってしまうことがたくさんある。

大人になって人と関わる度に、どうしても考えてしまうことがある。
それは、この人はどの立場の人なんだろうということ。
いじめていた人か、いじめられていた人か、見ていた人か、そのどれもだった人なのか。その4つで人を見る癖がついている。
話してその人のことを知っていくうちに、わかる。「この人は、こっち側の人だ」「この人は、あっちの人だ」
そんな見方、したくないけどもうずっと癖が抜けない。

それくらい、いじめって根強く人の意識にへばりつくものだ。子供の頃の経験が、いまもなお心にとどまっている。

だから、被害を受けたことがあるからこそ。
わたしは今ここで叫ぶ。

行きたくない。それだけを叫んでほしい。

親がわかってくれなかったら、もう家にいなくていい。近所の人とかコンビニの人とか、もう何でもいいからとにかく大人に「行きたくない」って言いふらしてほしい。
あるいは、今はSNSがあるのだから、ツイッターで全力で「学校に行きたくない」と叫んでほしい。私たち大人が、ツイ廃の私たちがあなたの叫びを必ず見つけるから、叫んでほしい。
とにかく、まともな大人の目に付くところで意見を言ってほしい。拾ってくれる大人は絶対いるから、その周りの嫌な大人なんてもう信用しなくていい。

その狭い世界から抜け出すには、叫び散らかすしか方法はない。
死ぬのに勇気を使うなら、もういっそ全力で叫んで疲れるくらい泣いていい。死ぬ体力があるなら、叫ぶ体力だってあるだろう。

うざいよな、大人って。
都合のいい時だけ正論っぽいこと話して、子供だからっていうこと聞かせようとして。
親なのに気づいてくれないよな、近くにいてほしい時にはそっぽ向いてて、限界がきて行きたくないって言っても取り合ってくれない。

むかつくよな、先生って。
何が教育だよ。自分が教育受けろよって、そんな風に思うよな、言えないけど。こんな大人が国からお金もらってるのかと思うと、絶望するよな。気づいてるくせに気づいてない顔してるの、本当に意味がわからないよな。

偉そうだよな、クリエイターって。
いじめについてわかったようなことばっか書いて、「わたしの意見はこうだから」アピールして注目されようとしてるの、鼻に付くよな。何も知らないくせに、つらつら書いてんじゃねーよって思うよな。

人のせいにしていい。いじめられて死にたいと思ってしまうこの世界を憎んでいい。

だから、死なないでくれ。

わたしは死のうとしたけれど、逃げられずに三年間耐えた人間だけれど、それでも今生きてて楽しいことがある。今でも理不尽なことばかりで「は?」って思うことたくさんあるけれど、でも。
いじめで死んでいたら、いまのわたしはいない。あの時いじめに負けて命まで捨てていたら、今こうして生きていなかったから。
生きていたから、こうやって書けるし、生きていたから、今がある。

全ての中高生に。
生きてほしいと、強く思う。

負けるなとも言わない、戦えとも言わない。
ただ、全力で叫んで、逃げろ。
大人からも、学校からも逃げろ。
命以外のものは全部捨てていい。
その叫びに気づいてくれる人は絶対にいるから。叫んでほしい。

わたしが伝えられるのはこれだけです。
どうか、今苦しんでいるあなたに届きますように。

#エッセイ #経験談 #いじめ #8月31日の夜に


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