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「ありがとう」の花束を

人生がひとつのドラマだとしたら、今のわたしは何話目にいるんだろう。毎週テレビの前で涙を流し、これでもかというほど夢中になって観ていたドラマが終わって、ふとそんなことを思った。余韻でまだ身体が火照っていて、喪失感を感じている。ドラマって、すごいな。一話一話に色があって、次を楽しみに一週間を過ごせる。泣かせたり笑わせてきたり切なくさせたり、忘れていた何かを思い出させてくれたり。心の琴線に触れてくるような言葉が不意にとんできたり。そんな作品をつくれることが、純粋に羨ましい。

世間がクリスマス色に輝いている中、カフェに入って久しぶりにnoteを書いている。外はめっきり冬の匂いでいっぱいなのに、室内はどこも人の湿気にまみれている。街を歩く人々はなんとなくいつもよりも温度が高い気がして、人込みが苦手なわたしはいつもより早足で歩く。元スターバックス店員のくせにカフェインアレルギーになってしまってコーヒーが飲めないなんて、なんか悔しい。ので、今日は意を決してブラックコーヒーを飲んでいます。多分、数時間後は頭痛でうなっていると思います。それでも今日は恰好つけたい気分なのです。格好つけたいというか、いつもと違うことをしてみたかった、それだけ。

最近の自分を振り返る時間が欲しくて、今感じている気持ちを言語化したくて、今日はいつもの倍のスピードで仕事をして無事に終えてこれを書いている。突っ走ってきたこの一年間、振り返るといろいろなことがあって、細やかに書ききれない気がするから(何万字になるんだ!)、今の自分のことだけを見つめることにする。何月にあれがあったなぁとか、あの人とはあの時会ったなぁとか、来年はどうしたい、再来年までにはこうなりたいだとか。ポップコーンがはじける様にいろんな想いが頭の中で飛ぶのだけど、ちょっと落ち着くことにする。ゆっくりしようとすると、頭がいつも以上に忙しくなる。この矛盾、嫌いじゃない。



昨日観ていたドラマに「カスミソウ」が出てきた。テレビ越しのそれがどうしようもなく綺麗に見えて、今朝、近所のお花屋さんに買いに行った。たくさんのお花の生きる香りがいっぱいの空間はなんだか優しくて、ホッとする。カスミソウを丁寧に包装紙に包んでくださる店員さんの手を見て、気が付いたら小さい声で「実はわたし、お花屋さんで働いていたことがあるんです」なんて話しだしていた。「お花が好きなんですね」と笑顔で返してくれて、それがとても嬉しくて。「好きです」と、店員さんの目を見て堂々と言えた。笑ってくれるから、わたしも笑顔になれた。たわいもない話を少しして、最後には「ありがとうね」なんて言ってくれるから、ちょっと照れてしまった。

社会人6年目のわたしだけれど、会社に就職をしたのは新卒の同世代よりもちょっと遅い。何度かnoteで書いているけれど、今の仕事がどうしてもしたくて、新卒でいただいていた内定をギリギリでお断りをし、同世代が入社式をしているその日に今の会社の最終面接を受け、その次の日内定をもらった。中途扱いだったから、同期もいないし研修もうけていない。とにかく見て聴いて真似て勉強して、実践あるのみでここまで生きてきた。いまだに社会のことはよくわからないし、知れば知るほどクソみたいで嫌になるけれど、それでも働くことで世界と関わっていくんだという覚悟は揺るがない。どんなに悲しいことがあっても、やっぱりものづくりが好きだ。
誰かの生活の一部になれるものがつくりたい。言葉を大切に、ものに魂を込められるこの仕事が好き。
…なんて情熱を掲げていたら、生粋の仕事女になってしまったわけだけれど。それでいい気がしている。この先もまたきっと迷うんだろうけれど、迷いながら仕事しながら生活ができれば、それでいい。

働き始めは内定をもらった数か月後だったから、謎のモラトリアム期間ができた。どうせなら、やってみたかったお仕事をしようと思って、お花屋さんでバイトをすることにした。めちゃくちゃに肉体労働だったから、毎日死んでた。手入れはお花それぞれ違うし、水やりは大変で、お花を包むのってすごく難しい。だけど、とっても楽しかった。お花に囲まれて過ごす時間は、幸せだった。もしも今、今の仕事以外にやりたいことを選べるなら、動物園の飼育員とお花屋さんの二択で相当迷うと思う。迷ったあげく、どっちも選ばないでひとりでロサンゼルスに飛んで、向こうでファッションと編集の勉強をしたりとかするかもしれない。そんな感じで生きてます。



幼稚園の時の夢は、「おはなやさんになること」だった。ケーキやさんと迷ったんだけれど、最終的におはなやさんになった。なんだかお花が好きだったな。福島の家に住んでいた時、おばあちゃんがお庭にたくさん花を植えていて、プランターが綺麗に並んているのを見るのが好きだった。今はもう、なにもなくなってしまったけれど、わたしの心の中に確かにそのお花が咲いている。

大人になるにつれて、自分の名前にお花が入っていることが誇りになった。ちょっと前までは、「桜子なんて名前、お嬢様みたいで、上品すぎてなんか嫌だなぁ」ってずっとコンプレックスだったりもした。ブスだといじめられていた頃は「似合わねえ」って言われていたから、本当にみじめでしょうがなかったのだけれど。今はこの名前をくれた両親に感謝している。
ちなみに、桜子以外で名前の候補があったのかきいてみたら、「ゆり」か「くるみ」だったらしい。お母さんはわたしが産まれるまで悩んでいたみたいだけれど、わたしが産まれた瞬間、おじいちゃんが桜子に即決したらしい。桜の時期に産まれたから、桜子。春になると、咲くそれ。
桜を見るときには、みんな上を見上げるから、好きだ。上を向かないと見れないお花ってあんまりないから、なんか良い。散る間際も綺麗でいられるのは、人に飽きられる前に自ら朽ちていく決断をしているからなんだと思う。
名前に恥じないように、咲ききって、自力で散っていきたい。

何回でも咲いて、散って、また咲きたい。
散らないと、咲けない。だから何度でも、散りたい。そんな人生が良い。



基本的に生き急いできたわたしだけれど、今年はいつもの倍以上生き急いだ。結果、何度も体調を壊したり、たくさん間違ったりもしたけれど、振り返ればそのどれもが自分に必要なものだったのだと咀嚼できるようになった。占いによると、わたしは今年「大殺界」という一年だったらしくて、その一年は破壊と再生を繰り返すそうで。確かにそうだった。いつもはしないようなことをしたし、いつもは行かないような場所に行ったし、いつもだったら出会わないような人にも出会った。感情の振れ幅が大きすぎてメーターをぶち破ることもあったし、かと思えばいきなりスンッてしたり。とてもめんどくさい情緒だった。

全力で走り、年末になってやっと爆発とマグマが落ち着いてきた今。
最近、周りに愛されているなぁと感じる出来事がたくさん起きている。多分これまでもわたしは周りに支えられてきたというのに、わたしはわたしのことに夢中で視界がいつもよりも狭かったんだと思う。落ち着けたら、周りが見えた。そうしたら、たくさん「ありがとう」の気持ちが湧き上がってきた。
基本的に人と約束事をするのが非常に苦手なわたしで(人として最悪ですね)、どちらかというと「明日あいてる?」「今日飲みに行かない?」とか、突然のお誘いや勢いで動く人種だ。こんなことを言うと保険をかけるみたいでいやだけど、約束がしたくないわけなんじゃなくて、なんて説明すればいいのか、わか…り…ません。
だから、人に約束させるのもちょっと申し訳なくなったりする。好きな人とはちゃんと約束したいし、忙しい人ともスケジュールを合わせたいんだけど、流れで何かをいきなりしちゃうのが好きなタイプなんだと思う。

その勢いで、数日前に半年以上会ってなかった先輩に会ってきた。もう10年くらいの仲になるのだけど、お互いに勢いで会うことが多くて、頻繁に話しているわけではないのに会うと全然久しぶりな感じにならない不思議な方。最近少し悩んでいることやモヤモヤしていることがあってへこんでたから、お話を聞いてほしくて会ってもらった。案の定すごくわたしは彼女から元気をもらったのだけれど、反対に先輩からも「会いたかった。本当に元気が出た。ありがとう!」なんて言われてしまった。こちらが感謝をしているのに、その倍感謝されて、ちょっと照れた。

感謝をすると、感謝される毎日だ。

お仕事でよく関わる方とお話をしていても、友達と話をしていても、なんならお母さんにも。「ありがとう」って言うと、「こちらこそありがとう」と言われる。わたしが届けるその倍の「ありがとう」をくれる。今日のお花屋さんの笑顔もそうだ。その「ありがとう」は、わたしにとっては花束みたいで、プレゼントをもらうみたいで、心がほぐれる生きた温かいもので、とっても優しい気持ちになる。

がむしゃらに走ってきたけれど、周りを見れていなかったけれど、わたしを見ていてくれている人はたくさんいたんだなぁって、それに気づけてよかったと心から思った。たくさん支えられて、見守ってくれていた人がこんなにもいたこと、立ち止まって振り返らなかったら気づけなかった。今、立ち止まれてよかった。こんなに「ありがとう」でいっぱいになった一年は、なかった。
たくさんのものを失って、出会った分お別れがあって、ごめんなさいって言いたい人がたくさんいる。すれ違う人の数が増えていく毎日だけれど、そこには確かに愛がある。
感謝って相手がいないとできないから、わたしはひとりじゃないんだろう。いつの間にか、ひとりじゃなくなっていく。

「ありがとう」の主成分って、優しさだ。
なんだか、嬉しい。
ここまで書いてきて、だんだん感情がいっぱいになってきて、いよいよ何が言いたいかよくわからなくなってきた。コーヒーは冷めきったし、お店から人がだいぶ減った。みんな、どこかに帰るんだろう。
今日も一日お疲れ様。生きていてくれてありがとう。明日も明後日も、これからもありがとう。
大好きを伝えたい時、わたしは「ありがとう」を選び続ける気がする。愛を伝えるときにも、「ありがとう」をプレゼントする気がする。特別な日じゃない日が特別になるような、魔法の言葉。まるで、花束みたいに静かに華やぐそれ。
いつか好きな人から花束を貰うのがひそやかな夢だったりするんだけれど、ロマンチックな何某は置いておいて。

クリスマスで浮つく街の隅っこで、わたしは今日もあなたに感謝を伝えたい。花の名を授かったものの使命感を勝手に感じながら、それすら楽しんで生きていきたいと思っている。

優しさの束には、愛がある。
優しさの意味が、わかるようになった。なれた。
優しくなりたい。優しい人間になりたい。
優しさをもらった分、優しさをあげられるようになりたい。

だから、感謝をし続ける。
これからも、ずっとずっと。


ありったけの「ありがとう」を込めて。

ELLEGARDENの「サンタクロース」を聴きながら。
メリークリスマス。

いつも応援ありがとうございます。