秋の庭で

前の話

 カンナが庭の香りを楽しみながら歩いていると、庭にある芙蓉の木の陰から楽しげな鼻歌が聞こえてきた。その鼻歌を歌っている主の心当たりをつけながら、歌い手に気づかれないように芙蓉の陰を覗き込む。
 そこには案の定、しゃがみこみ、芙蓉の根元で雑草を刈っている女性の姿があった。淡い金髪をショートカットにして頭に麦わら帽子をかぶった彼女は、庭仕事をするには向いていない、白いワンピースを着ている。そして両手には薄緑色をした肘まである長手袋をし、庭仕事用の前掛け。それが彼女の仕事をするときの格好だ。
 他の庭師は皆大体作業服で作業するので、その格好をした彼女を庭で見つけたとき、始めは庭師だと気がつかなかった。正面から見ればまた違ったかもしれないが、初めて見たときはその後ろ姿だけだったのだ。
「唯」
 声をかけると、秋の庭師の一人は鼻歌を止め、振り返る。土色に染まった両手の長手袋がそれまでの仕事ぶりを主張している。
「これは若様。どうなさったのです?この時間はお勉強の時間では?また脱走ですか?」
「まさか。次期領主の立場で、これから先の時勢を見極めるための授業をさぼるわけがないだろう?」
「と、いうことはこの時間は政治の授業ですか。若様の最も苦手な授業ですね」
 唯に微笑みとともに言われ、カンナが授業の脱走を見抜かれたことに固まっていると、屋敷の方から教師の叫び声が聞こえてきた。
「ほら呼ばれてますよ」
「いや、夕顔が咲くまではここにいる」
 唯が空を見上げ、続けて腕時計を見る。今の時間は大体3時。夕顔が咲くにはまだ時間がある。案の定、唯は困ったようにこちらを見上げてきた。
「私は若様がどこで何をしよとどうでもいいですけど、時間をつぶすなら、霖(ながあめ)の所に行ってくださいませんか。あとで私の庭に居たと知られるとお叱りを受けるのは私ですので」
 いや、そこはサボっている所を注意しろよ、と思ったのだが、それを注意されるぐらいなら始めから庭に出てこないし、唯の鼻歌を聞いた時にわざわざ唯の元まで来たりしない。
「えぇ・・・・・・。やだよ。東側の庭はでかい木ばっかりであんまり隠れるには適してないんだ。授業が終わって木陰で休むには最適なんだけど」
「そうですか、そうですか。なら勝手に過ごしてください。私は何も見ていませんので、若様もあまり目立つことはなさらないでくださいね」
 唯が秋の庭を管理しているもう一人と仲があまり良くないことは知っている。どのような理由でも、霖の庭よりもこちらの庭の方がいいと言われて唯が気をよくすることも学習済みだ。
「それなら大丈夫。夕顔が咲くまではこれ読んで過ごすから」
 そう言って唯に見せるのは一冊の植物図鑑だ。主に夏の花をメインに取り扱っているもので、一つの季節に焦点を当てているためにそれなりに詳しく書かれているものだ。
 そこにある作者の名前を見たのだろう、唯の顔に笑みが浮かんでいく。
「そうですか。千秋ちゃんも好かれてますね。じゃ、私は仕事を再開しますので」
 そう言うと、唯は前掛けから剪定ばさみを取り出し、庭の中を進んでいった。
 唯を見送り、図鑑に目を落とす。その表紙に書かれた作者の名を指でなぞる。
 この作者にこの図鑑を読んだことを教えてやると、どんな顔をするだろう。顔を真っ赤にして怒るだろうか。それとも照れた仕草で感想を聞いてくるだろうか。
 どちらにしても次会う時が楽しみだ。
 カンナはその場に腰掛け、図鑑のページを開いた。

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