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音楽史年表記事編30.モーツァルト、ローマで最高勲章を授与される

 1769年12月、モーツァルト父子はイタリアへ出発します。イタリア各地でモーツァルトはイタリア・オペラを見たり、演奏会を開いたり、またアリアや、交響曲、弦楽四重奏曲の作曲を行いましたが、ミラノではオペラ作曲の委嘱を受けます。ボローニャでは対位法の大家マルティーニ師に会い、早速フーガ作曲の指導を受けます。更に、フィレンツェでは次期の神聖ローマ帝国皇帝となるレオポルト大公に謁見し、ローマではカトリックの総本山サン・ピエトロ寺院でパラヴィッチーニ枢機卿に面会します。そして、システィーナ礼拝堂でアレグリの9声の秘曲「ミゼレーレ」を一度聴いただけで暗譜し譜面化するなど、イタリアではモーツァルトの評判は高まり、ローマ教皇から黄金の軍騎士拍車勲章を授与されることになります。

 モーツァルトの黄金の軍騎士拍車勲章授与は1571年のオルランドゥス・ラッスス(ラッソ)以来2人目の快挙でした。ラッススはフランドル生まれのルネサンスの作曲家ですが、皇帝マクシミリアン1世に招かれウィーン楽派を創始しました。当時、ウィーンはオスマントルコとの戦争の戦場となっていましたので、ウィーンの宮廷はミュンヘンに移していたようですので、ラッススはミュンヘンで宮廷楽長としてウィーン楽派の基礎を作ったようです。ウィーン少年合唱団はフランドルのポリフォニーによる声楽の伝統を受け継いでいますが、変声期前の男声による歌唱は最も美しいものとされていました。

【音楽史年表より】
1769年12/13、モーツァルト(13)
モーツァルト、父と共にイタリアへ出発する。(第1回イタリア旅行、1年3ヶ月半)(1)
1770年1/23、モーツァルト(13)
モーツァルト父子、今回の目的地のひとつであるミラノに到着する。ミラノで親子を支援し、何かと便宜をはかってくれたのはロンバルディア地方総督のカール・ヨーゼフ・フィルミアン伯爵であった。フィルミアン伯爵はザルツブルク宮廷楽団の総監督を務めていた宮内大臣フランツ・ラクタンツ・フィルミアン伯爵の弟にあたる人物であり、父レオポルトはミラノ訪問にあたってこのザルツブルク人脈を頼ったのである。(2)
3/15、モーツァルト(14)
ミラノでの最大の成果はモーツァルトが謝肉祭シーズンに上演されるオペラ・セリアの作曲依頼を受けたことであろう。フィルミアン伯爵邸でオペラ作曲の契約書を取り交わしたモーツァルト父子は3/15ミラノを発ち、ローディに1泊、ボローニャへ向かう。(1)
3/25、モーツァルト(14)
モーツァルト、ボローニャのパラヴィッチーニ=チェントゥリオーニ伯爵の邸で、イタリア随一の音楽理論家・作曲家として尊敬を集めていた老大家ジャンバッティスタ・マルティーニ師と知り合い、二度にわたってフーガ作曲の指導を受ける。(1)
3/30、モーツァルト(14)
モーツァルト父子、フィレンツェに到着する。到着後まもなく、モーツァルト父子はフランツ・オルジーニ=ローゼンベルク伯爵の仲介でトスカーナ大公レオポルトに謁見する。レオポルト大公は女帝マリア・テレジアの次男であり、後に皇帝レオポルト2世となる。(2)
4/4、モーツァルト(14)
モーツァルト父子はフィレンツェの宮廷歌手の地位にあったカストラート歌手マンツオーリを訪問し旧交を温める。マンツオーリとはかつてロンドンで出会い、モーツァルトは歌唱指導を受けている。(1)
4/12、モーツァルト(14)
モーツァルト父子、サン・ピエトロ大聖堂にてパラヴィッチーニ枢機卿に面会する。父子はシスティーナ礼拝堂へ、グレゴリオ・アッレグリ作曲の9声・無伴奏の合唱曲「ミゼレーレ」を聞きに行ったが、モーツァルトはそれを一度聞いただけで覚え、宿に帰ってからすべて楽譜に書いたという。(2)
7/5、モーツァルト(14)
モーツァルトが教皇クレメンス14世から「黄金の軍騎士勲章」を授けられることになり、7/5パラヴィッチーニ枢機卿から勲章と剣、拍車を賜る。音楽家ではルネサンスの大作曲家オルランド・ディ・ラッソ以来という名誉ある叙勲はおそらくパラヴィッチーニ枢機卿の尽力によって実現したものであろう。(2)
7/8、モーツァルト(14)
モーツァルトはサンタ・マリア・マッジョーレ宮で教皇クレメンス14世に拝謁する。(1)
【参考文献】
1.モーツァルト事典(東京書籍)
2.西川尚生著・作曲家・人と作品シリーズ モーツァルト(音楽之友社)

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