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音楽史年表・記事編5.怠け者ではなかったロッシーニ

 ロッシーニはパリで歌劇「ギョーム・テル(ウィリアム・テル)」を作曲した後、作曲家を引退し、後半生は食文化の道に生き、自らを「怠け者」と自嘲的に語ったとされますが、実は音楽史上、偉大な貢献をした特筆すべき作曲家でした。ロッシーニは引退後、作曲を全くしなかったわけではなく、全13巻200曲を超える大作である室内楽集「老年の過ち」を作曲するなど、歌劇作曲家から室内楽作曲家に転身しています。
 ロッシーニは音楽史における画期的な貢献をしていますが、その貢献とは、作曲家に作曲した楽曲の所有権を認めさせたことです。モーツァルトは音楽史上初めてのフリーランスの作曲家でしたが、オペラを作曲しても興行主から500フローリン(約500万円)程度の謝礼を受け取るのみで、3年もすればどの歌劇場でも勝手に上演を行い、モーツァルトに興行収入はありませんでした。
 ところで、ベートーヴェンは歌劇「フィデリオ」上演で、興業主のブラウン男爵と大喧嘩をしています。興行に失敗すれば興行主は破産も覚悟しなければならない中で、作曲家は苦しい立場に追い込まれていました。ロッシーニは興行主にせき立てられ、歌劇「セビリアの理髪師」をわずか3週間で作曲したりしています。ロッシーニは1822年ウィーンを訪れ、ベートーヴェンを訪問し一緒に食事をしていますが、ベートーヴェンはロッシーニのオペラ・ブッファを賞賛し、また興行主を口汚く罵ったことでしょう。当時、ウィーンのケルントナートーア劇場にはイタリアの興行主バルバヤが支配人として招かれ、興業採算のために劇場内でルーレットなどの賭博もはじめていました(1)。一方モーツァルトの残された妻のコンスタンツェは印刷会社から出版の依頼があった時には、印刷後に必ず自筆譜の返却を求めていましたので、ベートーヴェンはロッシーニにこのことを話し、興業主に楽譜を貸し出すことを勧めた可能性があります。

 イタリアに戻ったロッシーニは興行主のバルバヤと激しく争い、作曲者の作曲した楽譜の所有権を奪い取りました。こうししてフリーランスの作曲家はモーツァルト、ベートーヴェンを経て、作曲した楽曲の所有権を獲得することとなりました。すぐれた作曲を行なえば経済的に恵まれるという制度が確立され、以降多くのロマン派の作曲家を輩出することとなります。フランス革命によって作曲家が宮廷に仕えるという制度が崩壊しつつある中で、フリーランスの作曲家の道を切り開いたロッシーニはロマン派の扉を開けたといえるのではないでしょうか。後のヴェルディやプッチーニは劇場に対し期限付きで自作品の楽譜の貸し出しを行い、経済的に恵まれた生涯を送りました。
 ロッシーニは「ギョーム・テル」作曲後、新作を作曲しなくなりましたが、自身のことを自虐的に「怠け者」と言っているのは、作曲家でも作品が認められれば経済的に自立できるようにしたという自負と、芸術としての音楽より娯楽中心の当時のパリのオペラ界への皮肉からであろうと思われます。

【音楽史年表より】
1806年3/31、ベートーヴェン(35)、歌劇「フィデリオ(レオノーレ)」第2稿Op.72
歌劇「フィデリオ」第2稿の初演は3/31と4/10の2回の公演で打切られてしまう。事件は表面的には「歩合で支払われる報酬」の高にあった。満場の大喝采から見て支払が少ないとベートーヴェンが言ったのに対し、劇場の権力を握っていたブラウン男爵は「お前さんの歌劇はモーツァルトには遠く及ばぬよ。モーツァルトはいつも大衆を感激させ、劇場を満員にさせていたのに対し、お前さんのはお高く留まった連中、教養ある連中にだけしかわからぬ。それでは劇場はたまらぬ。」と本音を吐いてベートーヴェンを挑発する。かっとなったベートーヴェンは「俺は大衆のために書くのではない-教養ある者のために書くのだ。」と有名な言葉を吐き捨てて、「総譜を返せ」とどなる・・・しかし、ブロイニングが書いている通り、陰謀は前々から進められており、本質は宮廷音楽と新しい階級に根ざす音楽の対立であって、「今度は劇場内の彼の敵が立ちあがった」ので、ベートーヴェンがかっとなって早まったから上演が不能になったのではなかった。(2)
1822年2/16、ロッシーニ(29)、歌劇「ゼルミーラ」
ナポリのサン・カルロ座で初演される。原作はベロワの「ゼルミール」、トットーラの台本による2幕のドランマまたはオペラ・セリア。ロッシーニはこのオペラの著作権をめぐって、興行師バルバヤと争った。ロッシーニは自分の作品の所有権を強硬に主張した最初の作曲家であった。ロッシーニによってオペラはそれを作った作曲家のものであり、自分のものであるからには隅から隅まで徹底的に磨きをかけ、管理しようとする意識が生まれてきた。(3)
1806年4月頃、ベートーヴェン(51)、ロッシーニ(30)
ウィーンを訪れたロッシーニがベートーヴェンを訪問する。当時のロッシーニはイタリアではもちろん、海外においても名声を獲得し、作曲家としての地位はまったく定まっていた。1822年ウィーンの劇場はその不振を一挙に挽回するために、ロッシーニを招聘した。(4)
【参考文献】
1.岡田暁生著・オペラの運命(中央公論新社)
2.小松雄一郎編訳・ベートーヴェンの手紙(岩波書店)
3.スタンダール著・山辺雅彦訳・ロッシーニ伝(みすず書房)
4.ベートーヴェン事典(東京書籍)

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