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音楽史年表記事編37.ベートーヴェン・交響曲第3番「英雄」とベルナドット将軍

 ベートーヴェンがウィーンでの音楽留学のためにボンを出発した1792年は、フランス革命により長く続いたフランスの王制が終焉し、新たに共和制に移行した時期にあたります。ベートーヴェンはボン大学の聴講生としてシュナイダー教授の自由・平等・博愛のフランス革命賛美に共感しており、自身の音楽家としての新たな出発と、政治的にも人民による共和制国家の誕生という状況から、壮大な交響曲として作曲したいという思いを抱いていたように思われます。
 1797年ナポレオンはイタリアで大きな戦果をあげ、フランスとの戦争に敗北したウィーンにはフランス軍のベルナドット将軍が進駐します。ベルナドット将軍はウィーンの大使館をサロンとして開放し、ウィーン市民を受け入れますが、ここでベートーヴェンはベルナドット将軍と意気投合したようです。フランスの共和国の理念やそのために勇敢に身を犠牲にする英雄的精神に感動したベートーヴェンは、壮大な交響曲をナポレオン・ボナパルトに捧げることを考え、こうして交響曲第3番変ホ長調「英雄」Op.55が誕生します。ドイツ・ライン地方の思い出と作曲家としての船出の第1交響曲、イタリア生まれのジュリエッタのための第2交響曲、そしてこのフランスにちなむ壮大なフィナーレを持つ第3交響曲を作曲し、ベートーヴェンは3曲セットの交響曲を英雄交響曲で締めくくります。

 しかし、1804年ナポレオンがフランス皇帝の地位に就いたとの知らせに、ベートーヴェンは理想の共和国の理念が打ち砕かれたと激怒し、ナポレオンへの献呈を取りやめました。
 また、数奇な運命をたどったベルナドット将軍は、後にスウェーデン国王に即位しますが、1822年にベートーヴェンをスウェーデン王立アカデミーの外国人名誉会員に推挙します。

【音楽史年表より】
1798年2/5、ベートーヴェン(27)
1797年10月のカンポ・フォルミオ条約に基づきウィーン駐在フランス全権大使としてベルナドット将軍がウィーンに着任する。ベルナドットはウィーン赴任の随行員にヴェルサイユ生まれの天才的なバイオリン奏者のロドルフ・クロイツァーを従えており、大使館を音楽サロンとして開放した。ベートーヴェンが頻繁にそこを訪れることになったのは、モーリッツ・リヒノフスキー伯爵の紹介によるものだが、例のラファイエットの件でナポレオン麾下の軍人に好意を抱いていたからかもしれない。当時まだともに30歳代だった若い将軍とクロイツァーは、たちまちベートーヴェンと意気投合し、度々政治や文化について語り合い、また共に演奏を楽しんだりした。特に彼らが直接伝えた共和国の理念や、そのために勇敢に身を犠牲にする英雄的行為に、ベートーヴェンは強い感銘を受けた。それが、すでにボン時代から彼のうちに芽生えていた英雄概念を形象化し、やがて交響曲第3番変ホ長調「英雄」Op.55となって結実する。ベルナドット将軍は1810年ナポレオンの圧力もあってスウェーデン国王カール13世の義理の世継ぎとして皇太子になり、直ちにスウェーデンの事実上の支配者となる。1812年にはロシアと同盟を結び、一転して反ナポレオン政策を採り、1814年にはキール条約によりデンマークからノルウェーを獲得し、ついに1818年には義父であるカール13世の逝去にともない、自らカール14世としてスウェーデン王の座に着く。(1)(2)
4/8、ベートーヴェン(27)
ウィーンに着任したベルナドット将軍はオーストリア皇帝と謁見し、正式な大使に就任するが、官邸バルコニーにオーストリア市民の感情を逆撫でするトリコロール(三色)旗を掲げた。(1)
4/13、ベートーヴェン(27)
三色旗に反発したウィーンでは市民による暴動が引き起こされる。身の危険を感じたベルナドット将軍はパリへ帰国するが、随行員のバイオリン奏者のクロイツァーはウィーンに残ることになる。(1)
1804年春頃作曲、ベートーヴェン(33)、交響曲第3番変ホ長調「英雄」Op.55
交響曲第3番を完成する。フランツ・ヨーゼフ・フォン・ロプコヴィッツ侯爵に献呈される。フェルディナンド・リースはベートーヴェン自身から直接贈呈されていた交響曲第1番から第3番の3曲のオリジナル自筆譜を「友情を信じたがゆえに、ある友人に盗られてしまった」と報告している。現在、ウィーン楽友協会に所蔵される作曲者の校閲済の浄書スコアが最も重要な一次資料となっており、これは1804年8月に作成されたもので、タイトルページのナポレオンへの献辞はベートーヴェン自身による激しい筆圧のペン先で抹消されている。フェルディナンド・リース著の「伝記的注釈」では、ナポレオンが皇帝に即位したというニュースを知ったベートーヴェンは「あの男も結局は平凡な人間に過ぎなかったのだ。自己の野心のため全ての人の人権を足下に踏みにじったのだ」と激怒し、英雄交響曲の浄書譜のタイトルを抹消したとされるが、現在ではこの抹消行為は5月ではなく、ナポレオンが実際に戴冠した同年12月2日以降のことであったと考えられる。(1)
5月末~6月初め頃私的初演、ベートーヴェン(33)、交響曲第3番変ホ長調「英雄」Op.55
ウィーンのロプコヴィッツ侯爵邸(現演劇博物館)で私的に初演される。(1)
1805年4/7公開初演、ベートーヴェン(34)、交響曲第3番変ホ長調「英雄」Op.55
ウィーンのアン・デア・ヴィーン劇場における劇場バイオリン奏者のフランツ・クレメント主催の演奏会で公開初演される。(1)
1823年3/1、ベートーヴェン(52)
ベートーヴェン、スウェーデン王立アカデミーの外国人名誉会員に推挙される。1822年ベートーヴェンはスウェーデン王立アカデミーから名誉会員推挙の報を受けるが、その受諾許可を渋るオーストリア政府の優柔不断に業を煮やし、ベートーヴェンは王立アカデミーと国王カール14世に直接手紙を書いていた。(1)
【参考文献】
1.ベートーヴェン事典(東京書籍)
2.青木やよひ著・ベートーヴェンの生涯(平凡社)

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