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音楽史・記事編120.モーツァルトの創作史

 モーツァルトは約30年にわたり音楽のあらゆる分野で作曲を続け、いずれの分野でも名曲と言われる音楽史における傑作を残し、下記の年度別分類別作品数表に示すように、モーツァルトの創作にはいくつかの転機があることが分かります。本編ではモーツァルトの創作の概要を見て行きます。

(1)パリ、ロンドン訪問以降(7歳から13歳)

〇パリ、ロンドン訪問と出版
 1762年モーツァルト一家はウィーンを訪問し、ウィーン王宮で女帝マリア・テレジアや皇帝フランツに歓待され、恐らくマリア・テレジアの意向によりフランスへの親善大使としての訪問が伝えられたものと見られます。この時、フランスはイギリスと7年戦争を戦っており、インド、アメリカ、アフリカの植民地をイギリスに奪われ、外交的には疲弊しており、フランスの同盟国オーストリー・ハプスブルク家もプロイセンとの戦いではシュレージェンを取り返すことはかなわず、一方、7年戦争に勝利したイギリスは海外の植民地権益を大きく拡大し、大英帝国としての地歩を固めています。フランス王宮で歓待されたモーツァルト一家はフランス貴族からイギリス行きを勧められます。フランスにとって敵対国であったイギリスを訪問することには、モーツァルトの父レオポルトも逡巡しますが、この当時のヨーロッパでは軍隊同士が戦っていても作曲家などの一般人が敵国を訪問することに抵抗はなかったのかもしれません。モーツァルト一家はロンドンでも英国王宮を訪問し国王に歓待されますが、パリで初めて出版したパリ・ソナタを奉呈したものと考えられます。

〇クリスティアン・バッハとマンツォーリからイタリア音楽を学ぶ
 モーツァルトのロンドン訪問はもともとの西方旅行に予定がなかったものの、モーツァルトの作曲技術の習得には大きな成果をあげています。世界の植民地を拡大したイギリスは莫大な貿易による収益をあげ、さらに初期の産業革命が始まろうとしており、これらの経済力によって音楽界においても作曲家ではドイツ人のヘンデル、クリスティアン・バッハなど、また歌手ではマンツォーリなどのイタリア人歌手が多く集まるようになり、当時のヨーロッパにおける音楽の一大中心地となっていました。モーツァルトはイタリアで音楽の修業を行ってきたクリスティアン・バッハからイタリアの器楽様式を学び、イタリア人の歌手マンツォーリからはイタリアの声楽様式を学ぶ機会を得ています。

〇初めての交響曲、アリア、モテットの作曲
 モーツァルトはロンドンで初めての交響曲第1番変ホ長調K.16を、また初めてのアリア「行け、怒りにかられて」K.21を作曲し、これらを1765年2/21ロンドン中心部のヘイマーケット・キングズ・シアター小劇場での演奏会で初演しています。また、モーツァルトは初めてのモテット「神はわれらの避けどころ」を英語の歌詞により作曲し、パリで出版したパリ・ソナタそしてロンドンで出版したロンドン・ソナタとともに、大英博物館に奉呈しています。

〇マリア・テレジアとヨーゼフ2世
 モーツァルト一家はイギリス訪問後、オランダを訪問し、再びフランスのパリに戻り、スイスを経てザルツブルクに戻ります。そして、その翌年にモーツァルト一家は大公女のナポリ王との婚礼に合わせてウィーンを訪問しますが、ウィーンでは天然痘が大流行し、モーツァルトと姉のナンネルが感染し、ウィーン王宮への訪問はさらにその翌年となります。ここで女帝マリア・テレジアは、モーツァルト一家がロンドンを訪問しイギリス国王ジョージ3世から歓待されたことを聴き、モーツァルト父子に対する憎悪が沸き上がり、以降モーツァルトを疎んじることとなったようです。マリア・テレジアはオーストリア継承戦争でバイエルンとプロイセンには神聖ローマ皇帝位を簒奪され、さらに領地のシュレージェンを奪われるという屈辱を受け、特にその首謀者と見ていたプロイセンを憎んでおり、その同盟国であるイギリスをモーツァルト一家が訪問したなどということは許せなかったものと思われます。一方、このとき皇帝位についていたヨーゼフ2世は、啓蒙主義者のプロイセンのフリードリヒ2世を尊敬しており、母子の間には確執があり、以降ヨーゼフ2世はモーツァルトの擁護者となって行きます。

(2)3回のイタリア旅行、第3回ウィーン旅行、マンハイム・パリ旅行(14歳から24歳)

〇栄光のイタリア訪問
 モーツァルトはイタリア各地で絶賛され、1770年14歳でローマの教皇クレメンス14世から黄金拍車勲章を授与されます。音楽史ではフランドルに生まれ、ウィーン楽派の開祖となったラッソ(ラテン語ではラッスス)以来の2人目の快挙となります。グルックもローマで勲章を受けていますが、格下の拍車勲章であり、自らを騎士グルックと名乗っていたとされます。そして、ミラノではオペラ作曲の委嘱を受けます。

〇マルティーニ師から古様式の純正律音楽を学ぶ
 モーツァルトはイタリアのマルティーニ師に対位法と純正律で演奏される教会旋法などの古様式の音楽を学び、これ以降オルガン伴奏の弦楽合奏や管弦楽合奏で演奏される教会ソナタを作曲しています。セバスティアン・バッハの平均律クラヴィーア曲集以降、多くの転調を伴う交響曲などが作曲されますがこれらは特に3度の純正な和声を犠牲にした平均律で演奏され、これに対して教会ソナタは純正律(あるいは3度の純正度を保った中全音律)で演奏される器楽曲であり、古典派以降でこの分野に取り組んだ作曲家はモーツァルトに限られます。これ以降、モーツァルトはミサ曲においてもますます純正で透明で澄んだ音楽に取り組んだように思われます。

〇ミラノで3つのオペラを成功させる
 モーツァルトの時代にはオペラを作曲して初めて作曲家として認められたとされます。ロンドンで歌手のマンツォーリからイタリア歌曲を学び、ウィーンでイタリア語のブッファ「ラフィンタ・センプリーチェ」とドイツ語のオペラ「バスティアンとバスティエンヌ」を作曲していたモーツァルトはイタリアのミラノで3つのオペラセリアの作曲を委嘱され、オペラ作曲家としての名声を確立します。

〇モーツァルト冷遇派とモーツァルト擁護派
 1773年モーツァルト父子はウィーンを訪問しますが、父子はようやく女帝マリア・テレジアから疎んじられていることを悟ったようです。一方で皇帝ヨーゼフ2世は身近で女帝を見ており、モーツァルトに対する冷遇は全くの偏見であるように見ていたようで、モーツァルトは希望を見出したように見られます。

〇マンハイム、パリ旅行
 ザルツブルク大司教は女帝マリア・テレジアの息のかかった大司教であり、優れた作曲家であるモーツァルトを召使い扱いし、たまりかねたモーツァルトはザルツブルク宮廷に辞表を出しミュンヘン、マンハイムへ向けて求職の旅に出ます。しかし、これらの宮廷は女帝マリア・テレジアの影響下にあり、モーツァルトの意向は受け入れられず、パリでは同行した母親を亡くし、失望したモーツァルトは父親の尽力によりザルツブルクに再雇用されます。

〇ミサ曲と純正律音楽
 ザルツブルクに戻ったモーツァルトは鬱積した日々を送りますが、その中でも教会のミサ曲では純正な澄み切ったモーツァルトらしい名曲を生み出し、後のウィーンで作曲されるオペラのための充電期となったようにも思われます。また、管弦楽でもオルガン伴奏の教会ソナタを作曲しており、これらは純正律(あるいは中全音律)の管弦楽曲であり他の古典派期の作曲家には見られないモーツァルト音楽の特徴となっています。

(3)ウィーン定住以降(25歳から35歳)

〇クラヴィーアの平均律とモーツァルトの和声対応
 ウィーンに定住したモーツァルトはザルツブルク時代とは作曲分野を大きく変えます。ザルツブルクでは教会のためのミサ曲やモテット、オルガン伴奏の教会ソナタを多く作曲していましたが、ウィーンではクラヴィーアのための協奏曲やクラヴィーア伴奏のピアノソナタやクラヴィーア伴奏の歌曲(いわゆるドイツ・リート)などの作曲に移り、すなわちザルツブルクではオルガン伴奏の純正律音楽(当時のオルガンは中全音律で演奏されていたようです。下段を参照ください)が主体だったものが、ウィーンではクラヴィーアを伴う平均律による音楽に移っています。平均律は転調を可能にしていますが、3度の和声が不協和音になるという欠点があります。管弦楽における弦楽器や管楽器、また声楽でも長3度の和音を4対5にしていわゆる「ハモる」和声を演奏者自らが調整し実現することができますが、平均律で調律されたクラヴィーアやピアノでは長3度は4対5.06程度の不協和音となり、これは平均律の欠点となります。モーツアルトはこの問題を解決するために、ピアノではなるべく主旋律を多用し、協奏曲では木管楽器などで純正な和声を補完するとともに協奏交響曲のように木管楽器と協奏を行っているように見られます。
 ここで当時の調律法について見て行きます。音楽史において調律史は特に分かりにくい分野ですが、日本オルガニスト協会の「オルガンの芸術」では以下のように説明されています・・・純正音階というのは1つの調にしか対応できず、たとえばハ調純正音階に調律すると、ほかの調の音程はひどいうなりを生じてしまうため演奏できない。そこで、鍵盤のなかで3度や5度の音程を許容できる範囲でうなりが出るようにずらし、できうる限り音程の美しさを保ちながら、かついろいろな調を演奏できるように様々な調律法が生み出された。・・・中世後期から、純正3度の響きが音楽を支配し始め、ミーントーン(中全音律)といわれる調律法が生まれた。この調律法は1つのウルフ(狂った音程)の5度を除いたすべての5度がやや狭く、うなりも聞こえてくるが、その代わり1オクターヴ内の12個の長3度のうち純正な長3度が8個ある。この調律法は、ウルフ音程さえ含まなければ、音程がもつうなりの量が同じであるため、アンサンブルの際に必要な移調がしやすいという特徴がある。純正長3度がもつ、えもいわれぬ喜ばしさは、長きにわたって人々を惹きつけた。

〇ドイツ・リートの創始と和声の問題
 モーツァルトはウィーンに来るまでのアリアは管弦楽伴奏で作曲していますが、クラヴィーアが普及していたウィーンではクラヴィーアを伴奏とする歌曲を作曲し、いわゆるドイツ・リートの創始者となりました。重唱曲でも合唱曲でもやはり純正な和声が求められますが、平均律で調律されたクラヴィーアの伴奏では3度の和声が不協となるため、歌手や合唱が和声を主導する必要があり、これはバイオリンソナタにおけるバイオリン奏者やチェロソナタにおけるチェロ奏者、あるいはピアノ室内楽の奏者にも当てはまることと思われます。

〇モーツァルトのオペラ改革
 グルックは作曲家主導の作曲や台本の簡素化などのオペラ改革を提唱し改革オペラを作曲しましたが、モーツァルトはグルックのオペラ改革を実践し、オペラセリア「イドメネオ」、オペラブッファ「フィガロの結婚」、ドイツ語ジングシュピール「魔笛」を作曲し、それぞれのオペラ分野の最高傑作となる作品を生み出し、人間の情感の表現などにおいて音楽史における真のオペラ改革を成し遂げたとされます。

〇バッハの音楽とアンサンブル改革、音楽における「自由・平等・博愛」の実践
 モーツァルトはウィーンに定住してからスヴィーテン男爵が外交官時代のプロイセンから持参したセバスティアン・バッハやヘンデルの音楽を学び、セバスティアン・バッハの対位法音楽の深淵に触れ、おそらくポリフォニー音楽への回帰、すなわち弦楽合奏では2つのバイオリン、ビオラ、チェロの対等な扱い、管弦楽では弦楽器、木管管楽器、金管などあらゆる声部の、オペラではすべての登場者の対等な扱いなど、あらゆる声部が自由で平等で、そしてお互いに博愛精神をもつ、音楽における啓蒙主義の実践を実現しようとしたように思われます。

【音楽史年表より】
1756年1/27、モーツァルト(0)
夜8時、ザルツブルクのゲトライデガッセ9番地のヨハン・ローレンツ・ハーゲナウアーの家の4階で、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト生まれる。父レオポルトはアウグスブルク出身でザルツブルク大司教宮廷楽団の第4バイオリン奏者、母マリーア・アンナはザンクト・ギルゲン出身。(1)
1762年10/13、モーツァルト(6)
モーツァルト、シェーンブルン宮殿に伺候し、女帝マリア・テレジア、皇帝フランツ1世に拝謁し、御前でクラヴィーアを演奏し神童ぶりを発揮したといわれる。(1)
10/19、モーツァルト(6)
父レオポルトは皇室会計主任マイールを訪ね、100ドカーテンの下賜金を受け取る。また、フランス大使シャトレ=ロモン伯爵へ伺候、伯爵はモーツァルト一家にパリへの旅行を勧める。(2)
1763年6/9、モーツァルト(7)
大司教の許しを得て、モーツァルト一家は西方への大旅行にプレスブルクで購入した自家用馬車で出発する。(1)
1764年1/1、モーツァルト(7)
モーツァルトは元旦、ヴェルサイユ宮殿で催された宴席でフランス国王ルイ15世に拝謁する。一家はパリに戻るまでヴェルサイユ宮廷の貴族と交流を重ね、数々の高価な品を贈られパリに戻ったのちはヴェルサイユでの御前演奏に対し宮廷から1200リーブルを下賜される。(1)
4/10、モーツァルト(8)
モーツァルト一家はパリを発ち、次の目的地であるロンドンに向かう。パリから帰郷する予定でいた父レオポルトは当初イギリス行きをためらっていたが、パリの後援者たちの強い勧めもあり決断する。(3)
4/27、モーツァルト(8)
モーツァルト一家はロンドンの英国王宮に赴き、国王ジョージ3世に謁見する。父レオポルトは国王夫妻の親切な人柄と宮廷での丁重なもてなしについて、手紙で伝えている。(1)
1768年1/19、モーツァルト(11)
モーツァルト、ウィーン王宮を訪ね皇太后マリア・テレジアと若き皇帝ヨーゼフ2世に謁見する。女帝陛下はモーツァルトの母に親しく話しかけられ、子供たちの天然痘や長い旅行のこまごまとしたことについて話をされ、一方若き皇帝ヨーゼフ2世は父レオポルトやモーツァルトと音楽やその他たくさんのことについて話をされ、この時、ヨーゼフ2世がモーツァルトにオペラの作曲を勧めたといわれる。(4)
1769年12/13、モーツァルト(13)
モーツァルト、父と共にイタリアへ出発する。(第1回イタリア旅行、1年3ヶ月半)(1)
1770年7/5、モーツァルト(14)
モーツァルトが教皇クレメンス14世から「黄金の軍騎士勲章」を授けられることになり、7/5パラヴィッチーニ枢機卿から勲章と剣、拍車を賜る。(3)
・・・・・
1777年9/23、モーツァルト(21)
モーツァルト、ザルツブルク宮廷音楽家を辞職し母とともにマンハイム、パリへ出発する。(マンハイム・パリ旅行、1年4ヶ月半)(1)
・・・・・
1781年5/9、モーツァルト(25)
ウィーンでモーツァルトと大司教が決裂する。帰郷命令を無視したモーツァルトを大司教が激しく罵り、腹を立てたモーツァルトは辞表を出すと言い放つ。(1)
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1891年12/5、モーツァルト(35)
午前0:55、妻コンスタンツェとその妹ゾフィーに見守られヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトはその生涯を閉じる。(1)

【参考文献】
1.モーツァルト事典(東京書籍)
2.アイブル編、武川寛海訳・モーツァルト年譜(音楽之友社)
3.西川尚生著、作曲家・人と作品シリーズ モーツァルト(音楽之友社)
4.ベルモンテ著、海老沢敏他訳・モーツァルトと女性(音楽之友社)

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