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音楽史年表記事編38.モーツァルト、ミラノで婚礼祝典オペラを上演する

 モーツァルトは第1回イタリア旅行の帰途、翌年のミラノのオペラの委嘱を受けますが、引き続き10月に予定されたフェルディナンド公とモデナの名門貴族エステ家のマリア・ベアトリーチェとの婚礼のための祝典オペラを委嘱されます。マリア・テレジアの3男フェルディナンドの婚礼はイタリアのロンバルディアの有力貴族の公女の婿として、イタリア方面の影響力をより強めようとしたもので、2男のフィレンツェのトスカーナ大公レオポルトとともにイタリアにおける政治的基盤を盤石にする意図があったようです。  マリア・テレジアは当初婚礼祝典オペラを自らの音楽の師であるハッセに委嘱しようとしましたが、高齢のハッセの祝典劇の出来を心配したミラノから第2オペラをモーツァルトに委嘱したいとの希望を受け、これを認めることになったと思われます。
 1771年10/15、ミラノ大聖堂でフェルディナンドとマリア・ベアトリーチェの婚礼が行われ、ハッセとモーツァルトの祝典オペラが上演されましたが、ハッセのオペラ「ルッジェーロ」は時代遅れと見なされ不評に終わり、一方のモーツァルトのオペラ「アルバのアスカーニョ」K.111は大成功をおさめます。モーツァルトのオペラの主役には、かつてロンドンで歌唱指導を受けた当時イタリア有数のカストラート歌手であったマンツオーリがつとめ、当時のはやりの歌唱で聴衆の心をつかみます。

 かつて、フェルディナンド公はウィーンでモーツァルトの孤児院ミサ曲を聴いて大きな感動をうけていましたが、昨年の「ポントの王、ミトリダーテ」と今回の「アルバのアスカーニョ」の成功を見届け、モーツァルトを宮廷楽長として雇い入れることを考え、ウィーンのマリア・テレジアに伝えます。しかし、マリア・テレジアからはモーツァルト父子を侮辱する手紙が届き、フェルディナンド公はモーツァルトの雇い入れを断念します。マリア・テレジアはかつて自らの継承に絡むオーストリア継承戦争で敵対し、皇帝位を奪われ、領地シュレージェンをも奪ったプロイセンと同盟関係にあったイギリスをモーツァルト父子が訪問し、イギリス国王に歓待されたことを許すことができなかったためと思われますが、モーツァルトが女帝から冷遇されていることを覚るのは2年後にウィーンを訪問したときでした。
 モーツァルト父子はミラノでのオペラ公演が大成功をおさめたことに気を良くし、ザルツブルクに戻りますが、その翌日には大司教シュラッテンバッハが死去し、あらたな苦難が始まることになります。

【音楽史年表より】
1771年3/12、モーツァルト(15)
モーツァルト父子、ベネツィアを出発する。(1)
3/13、モーツァルト(15)
モーツァルト父子、パトヴァで1泊する。このあと父子はザルツブルクへ向かうが、途中ヴェローナ滞在中には、モーツァルトはミラノ大公フェルディナンドの母、女帝マリア・テレジアから10月に予定されるミラノ大公とモデナのメディチ家の公女マリーア・リッチェルダ・ベアトリーチェの結婚式の祭典のための祝祭劇の作曲の依頼を受ける。「ポントの王ミトリダーテ」の成功と、親しくなったミラノの貴族フィルミアン伯爵の推薦によるものと思われる。(1)
8/13、モーツァルト(15)
モーツァルト父子、10月にミラノで行われる女帝マリア・テレジアの息子であるロンバルディア総督フェルディナンド大公の婚儀のための祝典劇の作曲と演奏を目的にザルツブルクを出発しイタリアへ向かう。(第2回イタリア旅行、約4ヶ月)(1)
8/31、モーツァルト(15)
モーツァルト父子、ミラノに到着した70歳を超えた老大家ハッセを表敬訪問する。モーツァルト父子はハッセと第2回ウィーン滞在中に知り合い、ヴォルフガングの才能に感心したハッセが親子の第1回イタリア旅行のために紹介状を書いた経緯があった。(2)
10/15、モーツァルト(15)
ミラノ大聖堂でフェルディナンド大公とモデナ公国の一人娘マリーア・ベアトリーチェ・デステの婚儀が執り行われる。マリア・テレジアはモデナ公国のエルコレ3世との間で、フェルディナンドをモデナ公国の相続人とする契約を結んでいた。(1)
10/16初演、ハッセ(72)、歌劇「ルッジェーロ」
祝典行事の初日を飾る催しとしてハッセのオペラ・セーリア「ルッジェーロ」(メタスタージオの台本による)が初演される。ハッセのオペラはかつて1730年代から50年代にかけてはイタリアやドイツの劇場で絶大な人気を誇っていたが、1760年代にはもはや時代遅れになっていた。今回のハッセの起用は女帝マリア・テレジア自身であった。今回の婚礼を通じてミラノを含むロンバルディア大公国をより強固に支配するという意志を天下に知らしめるという政治目的もあり、マリア・テレジアは自らの音楽教師であり深く尊敬するハッセに作曲を依頼した。(2)
10/17初演、モーツァルト(15)、歌劇「アルバのアスカーニョ」K.111
ミラノの宮廷劇場(レージョ・ドゥカーレ・テアトロ)で初演される。当時ヨーロッパ屈指のカストラート歌手であったジョバンニ・マンツオーリが花婿フェルディナンドを擬したアスカーニョを演じた。モーツァルトは1764年7歳の時ロンドンを訪問し、その折にカストラート歌手のマンツオーリと知り合っている。今回のミラノのオペラ上演は当初はハッセのみという予定であったが、「ルッジェーロ」だけでは人気が取れないことを危惧したミラノの劇場興行師があとからモーツァルトに祝典劇を依頼した。この人選にはモーツァルト親子の支援者であるフィルミアン伯爵が関与したともいわれる。結果的にはハッセのオペラは時代遅れと見なされ失敗し、一方モーツァルトのオペラは大成功を収める。ハッセのオペラが惨敗し、彼の名誉を傷つけてしまったことについて女帝はかなり心を痛めた。その気持ちが「アスカーニョ」の作曲者であるモーツァルトに向かったものとも考えられる。 ミラノ大公のフェルディナンドはモーツァルトを宮廷音楽家として雇いたいと考えていたが、母親である女帝マリア・テレジアの意思により断念することとなる。(2)
12/12、モーツァルト(15)
祝宴後、フェルディナンド大公は、女帝マリア・テレジアに対して、彼みずからの婚儀の祝典にその天才的な創造の才をもって最大の貢献を果たしていた若い巨匠を雇い入れたいと述べる。モーツァルトは皇帝ヨーゼフ2世以下の皇族たち一同のあいだで大いにもてはやされていた。しかし、女帝は12/12フェルディナンド大公に次のように戒める「・・・けっして、あなたのもとで働くようなこうした人たちに肩書など与えてはなりません。乞食のように世界を歩きまわっているような人たちは奉公人たちに悪影響を及ぼすことになります」。女帝のこの手紙からは、あちらこちらと放浪して廻っている音楽家を雇い入れることに対する嫌悪が明らかにみてとれる。モーツァルト一家に悪意を持つ陰謀もまた、女帝のきびしい判断にあずかっていたかもしれない。(3)
12/15、モーツァルト(15)
モーツァルト父子、ザルツブルクに帰郷する。(1)
12/16、モーツァルト(16)
ザルツブルク大司教シュラッテンバッハが74歳で死去する。(1)
【参考文献】
1.モーツァルト事典(東京書籍)
2.西川尚生著・作曲家・人と作品シリーズ モーツァルト(音楽之友社)
3.ベルモンテ著・海老沢敏他訳・モーツァルトと女性(音楽之友社)

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