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音楽史年表・記事編4.国母と慕われたマリア・テレジア

 女帝マリア・テレジアはオーストリア国民から国母として慕われていましたが、なぜマリア・テレジアが国民から慕われたのか、またモーツァルトがなぜ女帝から冷遇されたのか、これらについて今後さらに音楽史年表・記事編で触れて行きます。
 1736年、オーストリア・ハプスブルク家のマリア・テレジアとロートリンゲン公フランツ・シュテファンが婚礼を挙げました。この婚礼は王家では珍しい恋愛による結婚でした。婚礼にあたってオーストリア・ハプスブルク家は、ロートリンゲンへの勢力拡大を恐れたフランスに譲歩し、ロートリンゲンをフランスに差し出し、その代わりとしてフランツ・シュテファンはイタリアのトスカーナ公となりました。
 1740年、マリア・テレジアの父である神聖ローマ皇帝カール6世が亡くなると、周辺国は若い跡取りの王女を見下し、オーストリア・ハプスブルク家に反旗を翻します。フランクフルトではオーストリアを無視して選帝侯会議が開かれ、オーストリア・ハプスブルク家の親戚にあたるバイエルン選帝侯カール・アルブレヒトが神聖ローマ皇帝カール7世として戴冠します。その背後にはフランスの思惑があったとされます。また、プロイセンはオーストリア・ハプスブルクの領有するポーランドのシュレージェンに侵攻するなど、威圧を強めます。

 1741年、ハンガリー王となっていたマリア・テレジアはハンガリー軍の援軍を得て、バイエルンと戦い、皇帝位を奪い返し、夫のフランツ・シュテファンを皇帝位につけ、オーストリア・ハプスブルク家を再興しました。これによりマリア・テレジアは国民から国母と慕われるようになりました。そして、ハプスブルク家の皇帝位継承を盤石なものとするために、これまで敵対してきたフランスと同盟を結ぶという外交革命を行っていきます。

【音楽史年表より】
1736年2/12、マリア・テレジア(18)
マリア・テレジアとロートリンゲン公フランツ・シュテファンがウィーンのアウグスティーナ教会で婚礼を挙げる。結婚に際し、フランツ・シュテファンはフランス王ルイ15世の理解を得るために、領地ロートリンゲン(ロレーヌ)公国をフランスへ割譲し、代わりにイタリアのトスカーナ大公の地位を得ることとなる。フランツはトスカーナの財政を立て直し、以後オーストリアの財政基盤となった。(1)
1748年10/18、マリア・テレジア(30)
オーストリア継承戦争を終結させるためのアーヘンでの講和会議でアーヘン和約が締結される。この和約で、マリア・テレジアの夫のフランツ1世の神聖ローマ皇帝即位およびマリア・テレジアのハプスブルク家相続権が容認されるが、プロイセンと争ったシュレージェンはプロイセン王国の領有となった。(2)
【参考文献】
1.最新名曲解説全集(音楽之友社)
2.ブノワ他著、岡田朋子訳、西洋音楽史年表(白水社)

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