かおりさんの育児日記が問うもの─『わたしは思い出す』展ができるまで
10年の節目になにを展示するか
飯川 せんだい3.11メモリアル交流館(以下、交流館)」は、地下鉄東西線の終点である荒井駅と一体となった複合施設です。もともとは別の目的の施設が入る場所だったんですが、2011年に地震が起こったことで、震災のメモリアル施設として2016年に開館しました。私は開館から2ヶ月後に、所属先の財団が施設の運営を受託することになった2016年4月から2021年3月までの5年間、スタッフとして在籍しました。私を含めスタッフはみな震災メモリアルの専門家などではなく、ほとんど手探り状態からのスタートでした。
松本 飯川さんご自身も仙台で地震を経験されていますよね。
飯川 はい。自宅は仙台港から1.2kmほど離れたところにあります。発災時はさらに内陸の職場にいたので、津波そのものは見ていません。自宅に家族がいたのですが、電話をしてもつながらない。歩いて自宅に戻った頃には日が暮れていました。3月11日の数日前に大きな揺れがあったので「なにかあったら小学校に避難しようね」と家族と話していたんです。それを思い出し、避難所になっている小学校に行って、無事に家族と再開できました。ただ、そのあとに大切な人を亡くされたという方の話をたくさん聞きました。
たとえば「東日本大震災で1万5899人が亡くなった」と報道されることがあります。でも、それって実際にはどういうことなのか、なかなか想像するのは難しい。そこで、ふと思ったんです。大切な人がある日ふいにいなくなってしまう。そういうことが1万5899回起きた。これが東日本大震災なんじゃないか、と。
交流館のスタッフとして、多くの方からいろんなお話を聞きました。生きていることにどんな意味があるのか。なぜこれを伝えていかなければならないのか。本当にいろんなことを考えてきました。震災から10年が経って、いまならもうちょっと整理してお話できると思っていたんですが、まだ言葉にできていないことがたくさんあります。
松本 飯川さんからAHA!にメールをいただいたのは2020年7月です。「震災から10年を迎えるタイミングで私たち交流館は何をするべきか、お力添えいただきたい」とご相談いただきました。
飯川 きっかけは、戦時中に書かれた慰問文(兵士を励ます手紙)を再々発行する「なぞるとずれる」(2019-)というプロジェクトについて、松本さんのトークを聞いたことです。私的な記録に着目するAHA!のアプローチに興味をもったんです。交流館の2階には常設展のコーナーがあって、ここには東日本大震災の被害と復興のあゆみが時系列順に展示されています。いわば公的な記録としての常設展があるので、記憶を継承する両輪の片方として、個人の記録を契機とした企画展を考えられないかと考えました。
強いられた「当事者性の獲得」から離れて
松本 AHA!は仙台を拠点にしているわけでも、災害などをテーマに活動しているわけでもありません。なぜ「よそ者」の僕たちに、声を掛けようと思われたのでしょうか?
飯川 震災の記憶をこれからの10年に継承するためには、関係性が薄いと思われる立場の人が関わることが大切だと思っていました。ひとくちに被災者といっても、そのグラデーションのレンジはとても広いんです。大切な家族を亡くされた方、家を流された方、そしてテレビを見てショックを受けた方も被災者のひとりです。それに、街場に住んでいる人と沿岸部に住んでいる人とでは、当事者としての意識にギャップがあります。そういうことに気づいてから、一人ひとりが「自分ごと」として考えてもらうためには、どうしたらいいんだろうと考えてきました。そういえば、松本さんも神戸での経験がAHA!の原風景になっているとお話されていましたね。
松本 僕が生まれ育ったのは兵庫県で、14歳のときに阪神・淡路大震災が起きました。当時、中学校の先生に先導されて、有志のボランティアとして被災地に行ったんです。避難所になっている体育館を掃除したり、炊き出しのお手伝いをしたりしました。体育館からふと外を見たら、お腹の大きい女性が立っていたんです。その光景がとても印象的で、ずっと頭の中に残っていました。
それから10年後に、記録と記憶をテーマとしたAHA!プロジェクトを立ち上げます。そのときに思い出したのが、神戸で見たお腹の大きな女性の姿です。お腹の子が無事に生まれていれば、いま10歳になっている。親になった女性は、自分の経験した大きな出来事をどういうふうに子どもに伝えているんだろう。逆に、その子どもは自分が経験していないことを、どうやって受け止めているんだろう。そんなことを考えていました。2005年は終戦から60年の節目でもあり、戦争の語り部がどんどん少なくなっていくと言われる時期でもありました。
飯川 先ほど述べたトークイベントで、「時間的/空間的な隔たりを前に、イメージはどのように働くのか」というAHA!が掲げる問いを松本さんがお話されていました。これは東日本大震災を後世に伝えていくメモリアル交流館の使命と親和性が高いと感じたんです。
松本 記憶の継承がテーマになる時、いかに自分ごととして考えられるか、言い換えれば、いかに「当事者性を獲得するか」が、重要な議論として取り上げられますよね。しかし、そこで議論される方法やバリエーションがとても貧困に思うことがあります。経験していないことをどのように受け継ぎ、自分のものにできるのか。言い換えれば、経験のなさ、誤読、ズレ…といったネガティブな現象こそが出発点になるような「記憶の継承」がいかに可能か。ある出来事の後に生まれた人、その場所にやってきた人が感じる「遠さ」を、その遠さを尊重したまま、自分ごととして考えられるような《あしがかり》が必要ではないか。そんなことを大きなテーマとして考えていました。
なぜ育児日記なのか
松本 8月には仙台に行って、飯川さんに沿岸部を案内していただきました。実際に訪れてみると、道路はきれいで建物も新しいものが多い。物理的な復興はかなり進んでいる印象を受けました。ただ心情的なものは分からない。まだまだ顕在化されていないものが多くあるのだと思いました。「10年目はどうですか」「3月11日はどうでしたか」。そんな要約を求めるような大雑把な問い方では、きっと聞けないこと、見えないことがきっとある。地震から10年を経たこのタイミングだからこそ語り始められる言葉を、どうやったらすくえるのか。10年目の仙台の地でやるべきことは、これまでの3653日の一日一日に溶け出した非日常のかけらを集め直し、それに輪郭を与え、次の10年に受け渡すことだ。そう思って、10年間、記録を残し続けた人を探し始めました。
しばらくして、じっさいに日記を10年間書き続けていた男性に出会うことができました。そのとき、僕は「この人かもしれない」と思ったんです。この方はいろんな記録活動に長年にわたって取り組んでこられた方で、地震後、彼の記録写真にとりわけ注目が集まっていました。実は、その方は公開することを意識された日記もずっと書かれていたんです。でも、そこに光が当たることはありませんでした。そこで、この10年目の節目にその日記をフォーカスしてはどうかと飯川さんに提案してみたんです。
飯川 その方の活動は本当に素晴らしいもので、折に触れて交流館でもご紹介してきました。ご自身は記録のアーカイブにも意識的で、能動的に発信もされている方でした。でも、この企画では、誰にも見せるつもりのなかった私的な記録、これまで交流館と接点のなかった人の記録に出合えたらいいなと思ったんです。だから松本さんに「もうすこし探しましょう」と。
松本 あのときは「飯川さん、ハードルをさらに上げてくるな…」と思いましたね。じゃあ、10年のあいだ書き続けられた切実な記録ってなんだろう。そう考えて思い浮かべたのが、交流館の立地でした。
飯川 地震のあとに沿岸部は災害危険区域に指定され、交流館の周辺に復興公営住宅が整備されたことや、地下鉄駅ができたことで移り住む人が多く、コミュニティが再構築されつつありました。館のある荒井駅にはこども園も併設されていて、共働きの夫婦が通勤の途中に子どもを預けるんですね。なので、館内にはよく子どもたちの声が響いていました。
松本 駅周辺では開発が進み、あたらしいマンションや住宅地に若いファミリー層が住み始めているということでした。その人たちにとってもリアリティを感じてもらわなければ、これからの10年の継承は難しいと思ったんです。そこで、子どもの成長の記録を10年間書き続けた人を見つけて、それを振り返ってもらう試みを飯川さんに提案しました。
飯川 じつは「育児日記をとおして10年を振り返る」というアイデアを聞いたとき、実現はかなり難しいだろうと感じたんです。周囲に企画案を説明したところ、実際、「他人の日記を見て何がおもしろいのか」、「自分は結婚も子育ても関係のない人生を送っているから、まったく興味がありません」、「育児日記がなぜ震災から10年と関係があるんですか」という反応が返ってきました。ある意味で当然のリアクションかな、と思いつつ、どうやって実現しようかと頭を抱えてしまいました。松本さんからも繰り返し企画の意図を説明していただき、粘り強く対話を重ねていく中で、少しずつ理解していってもらいました。
だれかの月命日であり、月誕生日でもある《11日》
松本 地震に遭われた方々は、「3月11日」という日だけを生きるために存在されているわけではありません。地震や「3月11日」を主語に語ることから離れ、ひとりひとりの大切な「日付」を主語にする。それぞれの時間から、この10年間という歳月に焦点を合わせ直すことが必要だと思ったんです。ただ、誰もが記録を残し続けてきたわけではありません。そんな時、10年間の育児を振り返るワークショップを実施し、かおりさんと出会いました。かおりさんは、2010年6月11日に第一子を出産され、その日から10年間日記を書き続けてこられてきました。そのことを知った私たちは、彼女の日記とその回想を手掛かりに、展覧会を組み立てられるのではないかと思ったんです。誰かの記録と記憶という迂回路を経由することではじめて、喪われた命を悼むメモリアルデーとしての「3月11日」に立ち還ってこられるのではないかと。
飯川 私たちは「3月11日」という日付をなにかひとつのシンボルのように捉えてしまいがちですが、だれにとってもそれぞれの意味があります。3月11日はたしかに多くの方の命日になってしまったけれど、一方で、だれかの誕生日でもあるわけですよね。僕の結婚記念日は3月10日なんですが、翌日に大きな地震が起きます。それ以来、あまりお祝いする気分になれなかったんです。でも『わたしは思い出す』はその多義性に気づかせてくれました。
松本 『わたしは思い出す』では、来場者/読者の方がそれぞれ自分の時間に焦点を結びやすくするための方法を考えました。かおりさんの育児日記そのものを見せていないのは、彼女のプライバシーを守るだけでなく、膨大な文量の日記そのものを提示しても、来場者が何かを受け取っていくことがかなり難しいのではないかと考えたからです。日記そのものを展示するのではなく、再読をとおしたかおりさんの回想を展示する。AHA!としては、編集的な媒介者として「私の日記」に介在するあり方を選択しました。たとえば、毎月の11日の日記を中心にかおりさんのお話を聞いたり、それを「わたしは思い出す」というフレーズのリフレインを用いて表現しているのも、そのための工夫です。
飯川 そうして開幕した交流館の『わたしは思い出す』展を見た方が、こんな感想を伝えてくれました。「自分は震災と縁遠いと思っていたけれど、『かおりさんがこの場所にいたとき、私はあそこにいたんだよなあ』と思い出して、彼女の人生と自分の人生が地続きになっていると感じたんです」と。だれかの経験をじっくり読むことで、自分の中のなにかを思い出す。そのときの小さな心の動きに耳を傾けられれば、それもひとつの継承のあり方と言えるかもしれません。
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2021年12月5日、デザイン・クリエイティブセンター神戸[KIITO]にて
構成=水野雄太(AHA!)
飯川晃(いいかわ・あきら)
1981年、宮城県仙台市生まれ、同市在住。公益財団法人仙台市市民文化事業団職員。せんだい3.11メモリアル交流館のほぼ開館時より運営に携わり、企画展『わたしは思い出す 10年間の子育てからさぐる震災のかたち』の担当を務める。現在はせんだいメディアテーク企画・活動支援室所属。宮城大学大学院事業構想学研究科修士。専門はアートマネジメント。株式会社めぐみキッチン取締役。せんだい文化系自転車部部長。自作ラーメン愛好家。藍染愛好家。猟師。
松本篤(まつもと・あつし)
1981年、兵庫県生まれ 、大阪府在住。2003年より、remo[NPO法人記録と表現とメディアのための組織]のメンバーに加わる。2005年より、市井の人々の記録の価値に着目したアーカイブ・プロジェクトAHA![Archive for Human Activities/人類の営みのためのアーカイブ]を立ち上げ、世話人として企画や運営に深く関わる。企画展『わたしは思い出す 10年間の子育てからさぐる震災のかたち』(せんだい3.11メモリアル交流館、2021)、及び、巡回展『わたしは思い出す 10年間の育児日記を再読して』の企画立案者として、かおりさんへのインタビューとその編集を担当している。
『わたしは思い出す』刊行
先行予約、5.11まで受付中。[先行予約の受付は終了しました]
詳細はウェブサイトへ。
https://aha.ne.jp/iremember/