大学院に進んでみる

今年もひとり修士号まで取って社会に出て行く学生がいる。さぞ重宝されるにちがいない。世間さまはいまひとつご存じないようだけれど、修士課程くらいまで勉強するのには大きな意味があると思う。

なぜなら、時代は変わっているから。

いままでと同じビジネス、業態、政策のくりかえしではやっていけない。生活の仕方、求める価値、ひととの付き合い方も、一見すると変わることのない自然のようで実は変化している。みんなが同じひとつの世界にいるとはかぎらず、実はいくつもの層や潮流がある。

このとき、「当たり前」に思えるものをあらためて検討できる人が欠かせない。よくよく耳を傾け、自分の経験だけでなく本や論文に目を通して、錯綜する状況を整理できる人が要る。答えがひとつだけあらかじめあるわけでないときに、議論と相談を重ねて、見通しをつける人が欲しい。

修士論文まで書き上げるプロセスは、こういう人になるすばらしい機会だと思う。

日々のルーチンにつかまると何もかもが当たり前にみえるこの世界に、ハテナと問いを差し出すところからこの道がはじまる。自分がなにも知らないことに驚くなら、そこにも道がうまれる。ぼんやりとは知られている・知っているできごとについて、もうちょっと深く知りたいと望むところからはじまる時もある。あれぇどうしてここが空白なのか、なぜこの視角から見せてくれる先行者がいないのかとじれったく思うときもあるかもしれない。どこかでハッと気がつくその瞬間(じわーっとゆっくり気づく場合も多い)は、忘れられない出発点になる。

ありがたいことに、いったんこのなぞや裂け目に気がつくと、似たようなことに取り組んでいる先達や同輩があちこちにいることがわかる。その経験に学んで万事解決なら、メデタシめでたし。学んでみて、うぅんまだ解けない、わからない、もっと知りたいと思ってしまう場合に、次の門が開く。この先に修士課程の楽しい冒険がまちかまえている。

この冒険こそが、変化する時代と向き合うレッスンになる。「万事当たり前・ぜんぶわかっている」と錯覚している世界の裂け目に気づき、既存の知見に学び、まだ答えのないその先の世界に足を踏み入れる。先達がはまったわなを解き、史料をさがしだし、読み直す。論点を生み出し、言葉にし、大学院のなかまたちに提示し、論点をあらいなおす。論文としてかたちにして、読者に問う。2年間で取り組もうとするテーマはとても具体的なものになるはずながら、論文にするまでのステップはどれも実践的。

実学である必要はない。実学でない方が良いかもとすら思う。「現実」の呪縛はけっこう手ごわいので、少し距離を取ったところから考え直した方がおもしろくなることが多い。好都合なことだ。実用性、有用性からいったん自由になって、自分の好奇心にみちびかれてどこまでも深入りできる。どっぷりと楽しみ、ついでにたくさんの足がかりを得られる。

20世紀後半の日本社会は進路をあまり悩まなかったのだと思う。キャッチアップと洗練とでおおいに繁栄できるような気がしていた。そのやり方の限界がみえ、「繁栄」の影のひずみにも気づきかけているいま、腕に自信のあるマスターをまたひとり送り出せてうれしい。

M君、修士号取得おめでとう。

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