【書籍】『愛と性と存在のはなし』(赤坂真理)

「性自認と性嗜好に多様性を認めよう」というのは、けっこうなことだと思う。でもその前に。一人ひとりが、自分と自分の性についてわかっているんだろうか。
わかっていない。わたしも含めてわかっていない。真剣にわかろうとしたことがほとんどない。そう思う。
いわゆる「セクシュアル•マイノリティ」を語るときに盲点となるのは、無意識に「ヘテロ•セクシュアル(異性愛者)には問題がない」という気持ちになることだ。
そうなんだろうか?
ある意味、ヘテロセクシュアルほどむずかしいものはない。
世間的な通りのよさを除けばヘテロセクシュアルほどむずかしい関係はない。そんな気さえ、この頃する。 (序章より)

「愛」「性」「存在」どのキーワードも誰もが一度は悩んだり、深く考えたりしてきて、誰も本当で唯一の答えなんて持っていないと思うものなので、興味が湧いて手にとった「愛と性と存在のはなし」

冒頭で筆者は「社会批判なのか個人的なはなしなのか。両方である。」と、この本を表している。本書は著者自身の体感や経験をベースに、愛や性についての一般的な定義への疑問や『ボヘミアン•ラプソティ』の考察、近しい友人との会話など様々なことを材料にして、自己対話のように進んでいく。後半で筆者が本テーマについて気づきを得ていく思考の過程は、わたし個人の日常の悩みや疑問のモヤを少し晴らしてくれるものだった。

前半部分の考察は面白いがまどろっこしく感じる部分も多く、読み進めるのに少し疲れてしまったが、後半の5章以降は少し心や頭に残る言葉があったので、備忘のために書き残しておきたいと思う。

第5章。筆者の友人で「愛と性を探検しているかのような人」のSNS投稿について書かれた部分。

「セックスって実はとてもめんどくさいものなのに、わざわざそれを二人でやるのだからそれはもう当たり前ではないのです。セックスをしよう!とこころみるだけですごいと、まずは褒めてみよう!」そこに自分の苦しみも救われる気がした。
セックスは自然にできること、ではない。
〜中略〜
ああ、そうか。「そこまでして自分を愛したい生き物」なんだ、人間っていうのは。
〜中略〜
それは、愛した対象に、生を認められること。
許される。存在が許される。

終章。トランスの友人との話の中で、男女(あくまで肉体的な分類での)の性感やセックスについて、違いの話になって。

女の皮膚が1つの広大な感覚器で感覚変換器だとしたら、男の皮膚は、遮断器なのかもしれない。
わたしは初めて、男性のセックスの大変さを知った。
女性にとってセックスは、コントロールの手放しだ。それが男性にとっては、一貫して集中とコントロール下におかなければならないものだ。
いつコントロールを外れるかというと、射精の瞬間なのだろう。そしてまた素に戻る。男は余韻を大事にしないということがよく責められるが、そもそも余韻がないし、失敗なく終わったことは安堵でしかないのだろう。失敗したら、それは心底気まずい。
ああ、可哀想だ。

同じく終章。いわゆるマイノリティについて、筆者が腹落ちしていく部分。

それは質において異質で特殊なのではなく、程度において甚だしいのだ。
だから全ての人に薄くある性質である。
そしてずれとは、豊かさである。要素やグラデーションが多いのだから。〜中略
すべての人は、ずれている。ずれかたの程度は、個人差があるし、感受性にもよる。甚だしいと感じる人がいて、さほどでもない人がいる。
「マイノリティ」とは、質のちがいでなく、程度の差である。

筆者の未発表小説の登場人物と自分を重ねた話や、自身がセラピーを受け、多重人格だと診断されたこともあると告白する部分。

しかしなんであろうと、自分の「異常」や「症状」は、自分を助けるために現れる。


人によってこの本の感じ方は色々ありそうだが、少なくとも今のわたしは最後まで読んでみて良かったと思える本だった。
もっと自分と丁寧に向き合って愛してあげたいと思ったし、パートナーへの感謝とゆとりの気持ちが増した。あとは、簡単に多様性だのマイノリティだのと見聞きしているけど、境界なんてなんとなく理解した気になり易い言葉で乱暴に括って勝手に設けてるものだよなぁ。と、日頃感じていたことに少しだけ踏み込むことが出来た本。

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