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福祉と援助の備忘録(20) 『この頃流行りのメンタルヘルス・スラング』

福祉と援助の備忘録で、HSPの話をする。HSPという概念を推すための記事ではないので、その覚悟で。



共感力が高くてストレスが溜まってしまう、という人たちがいる。

そこにHSP『繊細さん』といった言葉が与えられた。いろいろな点での敏感さを持つタイプ、とでも考えるとよいであろう。

元々研究するための概念であり、診断ではない。人の性格(パーソナリティ)を論じる際に用いられるビッグファイブと呼ばれるものの項目にも入らないカテゴリーである(第6の項目になるとは今のところは思えない)。だがある人物がHSP概念についての一般向けの本を出版し、この言葉が頻繁に使われるようになったようだ。


それに対して胡散臭く思う人もいるようだが、これってイカンことなのか? いや、共感性が高いために苦しむ人々は昔からいた。「空気を読みすぎる」という人々は、「空気が読めない」とされる人々よりも軽視されすぎてきた。なぜか? 本人は困っても周りが困らなかったからである。だから名前もなかったのだ。やっとレッテルが用意された。

おかげで、「ひそかにこんな風に困っている人がいますよ」ということを人に知らしめることができるようになった。


だがデメリットもある。

レッテル貼りというやつは、乱用されると誤解と偏見という副作用が無視できなくなる。これは、正式な病名だってそうだ。だから病名のほうの弊害から考えてみよう。

"発達障害” は悪名高き病名というか診断名の代表だ。医師が乱発するばかりか一般人にも広まりすぎ、いらぬ誤解をそこかしこで生んでいる。精神科外来は「自分は発達障害だと思う」「夫は発達障害に違いない」という人で溢れるようになり、医者に否定されると、喜ぶのではなく嘆く人もいるほどだ。また「あいつは発達障害」という悪口も横行している。


疾患名ではなく人の特徴のひとつであるHSPにも、同様のことが起きている。

「この人は◯◯である」と呼ぶのはラベリングというものだ。名前を付けただけでは、実はなにをも説明していない。だが、カタカナや漢字の小難しい呼び名が付くと、なにか分かった気になる。それが偏見にもつながる。


しかもHSP概念はすっかりひとり歩きした。

HSPの特徴のひとつに「共感力の高さ」があるが、ここを自己判断し「私って人の考えていることが分かって気疲れしちゃう人だからぁ」と言う人が現れるようになった。HSPと自称するが、まったく説得力がない。自分語りを好み、こちらが「話が長ぇなあ」と思ってもどういうわけかその思いについては共感してくれなかったりする。

医者が診断というラベリングをするのだって、まちがいは多い。ただ少なくともそれは訓練された者の判断であり、仮に信憑性が低かったとしてもそのレッテル貼りには相応の責任を背負っている。そこが一般人するラベリングと異なる。一般人は責任なくレッテルを悪口にも使う。それ以外に、自分自身にレッテルを貼る、という使いかたもする。

そう。HSPは医者ではなく「当事者が自分に診断を与えるところに意義がある」という主張があるのである。


ここで私は激しく既視感を覚える。これってかの悪名高き "アダルトチルドレン(複数形で呼ばれることが多い)" の再来じゃないか、と。


アダルトチルドレンは、「アルコール依存の親の子どもたち」という意味で使われ、その概念を使って機能不全家族に育つとどのような影響があるかということが研究されてきた。さらに元をたどると、業界人が隠語として使っていたものらしい。

その意味は少しずつ広げられ、Sという精神科医によって日本に輸入されてますます拡大された意味で広められることとなった。

こうして拡大されたほうの概念のアダルトチルドレンを自称する人々が現れるようになる。その概念を知らない援助職に対し「アダルトチルドレンという言葉も知らないなんて、なんて不勉強なんだ!」と憤る者さえ現れる始末である。こんな概念を堂々と主張することのほうが、不勉強かつリテラシーのなさを表しているのであるが。

こういった「アダルトチルドレン」から「メンヘラ」に至るまで、一般人に使われるメンタルヘルス関連の用語に対し、松崎良美氏はメンタルヘルス・スラングと呼ぶことを提唱した。HSPは、新しいメンタルヘルス・スラングとして広まっていると言ってよいだろう。


ラベリングに対するラベリングである。


一般人にリテラシーがない、スラングは広まりやすい、というのは世の常かもしれない。専門家と一般人とのメンタルヘルスの理解にはズレがあるので、ならば双方の間に通訳を用意することのほうが建設的だ。わかりやすい説明をして分かってもらうのは、専門家の側に課せられた使命である。

そうは言っても、狂信的にまでなってしまった自称者たちを相手にするのは容易ではない。しかも「弱者」の主張だけに、それを否定すると「人でなし」の誹りを受けるやもしれぬ。「HSP」ブームとは、なんとも厄介な「災害」が再び起こったものだ。


じゃあ「HSP」概念がどのような影響を実際にもたらすかということだが…。

たとえば「人が苦手な人」である社交不安症の治療について。不安・恐怖を抱く病の本質は、怖いものを「避ける」ことにある。だから積極的に人に晒すことが治療的となる。ところが社交不安症の人が「HSPである」と見なされたり自認した場合、対応は真逆になるようだ。「刺激を少なくする」という罠に見事にハマり、症状が悪化することが考えられる。


また自称する人たちの責任というよりは医療者側の問題かもしれないが、HSPを自称する人たちに医療者はよい感情を抱かない。概念自体が曖昧であるものは論じようがなくなる、というのもその一因と言える(かつて精神医学の疾患概念が曖昧であったことはさておき)。


たしかにいろいろな生きづらさを自分のせいではなく「HSPのせいだったのだ」と思えることは、自分を責めずにすみ、罪悪感を減らすことにつながる。だから『繊細さん』本は売れる。あるいはその解説をした動画が伸びる。

だがその理解が不適切ならば、ある種自分に偏見(セルフスティグマ)を抱くことになる。それは「どうせ自分はHSPだから」と卑下するという意味ではない。「HSPだから◯◯は無理」と、なにかをしない言い訳にしかねないということだ。これがこじれた人が「HSP」を連呼したとき、周りからは「HSPってイヤだね」とHSPごと嫌われる。よい現象だとは思えない。


ではこの曖昧な概念を医学的にきっちり整理し、どういう名であれ権威ある疾患単位の仲間入りをさせては? だがそれは「HSPかどうかは私自身が決める」という立場の人々は望まない。HSP概念は野放図に拡大し、今後もしばらくバージョンアップしていくだろう。アカデミーの外の話なので、エビデンスとは別の力関係がより入り込みやすい形でイデアが形成されていく。

そんなの放っておけ? うん、仮に「そんなの自己責任だ」ということにしよう。でも誤った「HSP」を布教し、病める者を巻き込んでより悪い方向に誘惑させる人々については、さすがにいいかげんにしてほしい。


どうしたものかな、と考えあぐねていたが、ここではたと気づいた。

ああ、宗教なのか。ということはテーマは依存・嗜癖と同じである。無理に医療モデルをつきつけることなく、本人たちの意思を尊重しつつ、安全かつ周りに害をなさないようにHSPと名乗ってもらうことあたりから目指すとよいのかな…。


Ver 1.0 2022/8/12

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前回はこちら。


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