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福祉と援助の備忘録(27)『フレーム違いの色メガネ』

夜の街で働く人の愚痴が好きだ。たとえばホステス(「キャバ嬢」と言うのが今は正しい?)のツイッターなどをフォローすると、トンデモ客への恨みつらみを読むことができる。ひどい客はいるものだなあ、としみじみする。

医療・福祉の現場にも、ムチャをつきつける「お客さん」はいる。それはなにも特別なことではなく、客商売ならばあたりまえのことだろう。


医療・福祉の現場では、患者・利用者の対応に頭を悩ませることがよくある。その中のひとつに、利用者に無理難題(と少なくとも援助者には思われる)をふっかけられ、医療・福祉としてはそれに添いがたい、というのがある。

患者がわがままだとだれもが思うようなこともあるが、「あれ? これってそんなに無理は言ってないんじゃない?」というようなことを医療・福祉側が問題視しすぎているように思われることもある。

V tuberの懲役太郎さんが、ずっと同じ時間帯の同じ医者に受診してきたのに、その時間帯で予約が取れなかった、と嘆いていたことがあった。「そりゃ人気の時間帯ならば混み合うこともあるだろう」というのは業界側の言い分である。患者さんには患者さん側の「あたしと先生はこれまでずっとこれでやってきたじゃないですかー」という言い分があるかもしれない。

人それぞれの背景にある文化が違う。医療・福祉の現場に限らず人は、バックグラウンドの違いで摩擦を起こす。夫婦などがよい例だ。違う家で違う生活をしてきた同士が、同じ家で同じ生活をするのである。しかも夫婦なら性別まで違うときている。家庭バックグラウンドと性別バックグラウンドが違って、ズレがないほうがおかしいというものだ。

人は生きていく中で、物事を見る枠組みを育てていく。これをフレームという。
たとえば、ある生活保護受給者が役所で、「担当を変えてほしい」と主張したとする。すると役所ではそのあと仲間内で「キャバクラじゃねえんだぞ」といった愚痴を言い合うかもしれない。キャバクラ嬢も生保担当ワーカーもサービス業だが、「キャバクラじゃねえんだぞ」という発言からは「私たちはキャバクラ嬢とは違う」という職業観が垣間見えるのである。

これを生保受給者の視点で考えると、「お客様は神様だろうが!」「公僕は市民につくすべきだ」と思っている可能性もある。あるいは、「そもそも役所の人間というのはろくに仕事をせずけしからんのだ」という見方を持っているかもしれない。あるいはよほど困っていて「最善のサービスを受けないと生活が破綻する」という恐怖にうち震えているのかもしれない。

フレームがずれていると、互いに理解しあうのは難しくなる。フレームは善悪の基準で語るものではないし、ともすれば偏りですらないかもしれない。種類が違う、というだけかもしれない。ただ、比較的多数派に理解されやすいフレームと、そうでないものとがある。

医療・福祉の世界で、比較的受け入れられない主張を挙げてみる。

医療現場の例
・「私は病気ではない(だから治療する必要はない)」
・「もっと訪問の回数を増やせ!」

生活保護の例
・「働かない権利はある」
・「私はプロの引きこもりであり、家にこもることでお金(生活保護費)をもらっている(だから外に出るべきではない)」

児童福祉の例
・「子どもを叩くのはしつけの問題であり、よその人間にとやかく言われることではない」
・「いいから子どもに会わせろ。俺は親だぞ」

援助職はこれらの主張に、よからぬ思いを抱くことが多いかもしれない。「そんなの無理に決まっているだろう」「だからこの人たちはダメなんだ」と。

だがちょっと頭を柔軟にさせられれば、違った世界が見えるかもしれない。もし自分が、今の健康な状態のまま病気扱いされたら? 上司から「君は信心が足りないから、明日から毎日ミッションスクールに通いなさい」と命令されたら? 日曜日に子どもをディズニーランドに連れて行かなかったという理由で、児童相談所が子どもを連れ去ったら?

「そんなことはありえないよ。極端すぎる」そう言い切れるだろうか? 常識も法律も時代で変わる。ジェンダーを巡る規範などがそうだが、今、旧時代の価値観と今の価値観が衝突している。何を見聞きし体験してきたかで、その人のフレームが違ってくるのがよくわかる例である。


医療・福祉の援助者はほとんどが大卒者ばかりだ。弱い立場の人々の支援を任せるには、ちょっと偏りすぎていないか? 加えて援助者の心の中には、「援助者フレーム」というものが着々と育つのである。気がつかぬうちにそれでもって世の中や被援助者を見てしまっている。

フレームは物事をわかりやすくするという利点もある。それゆえに手放しがたい道具であり、そこから逃れて物事を見るのは難しい。英語を勉強する日本人が、どうしても日本語フレームで英語を理解しようとして日本人独特のミスをするようなものである。語学のミスは笑い者にされるだけだが、医療・福祉の現場では死活問題なこともあり、激しい恨みを買うこともある。

外国語フレームはどうやったら身につけられるだろう? 「To be , or not to be. That is question」という有名なセリフが、かつては「あります、ありません。あれはなんですか?」と訳されたという。単語やフレーズのひとつに注目してさもありがたい内容のように思わせる動画が世に溢れているが、あんなものをいくら観ても、こういう文章の本質に迫ることはできまい。




「違ーう!」


監督から激が飛ぶ。役者の台本の読み込みが甘かったようだ。その人物になりきれば、その人物の物の見方を手に入れられるだろうか。あるいはそういうフリができるだけだろうか。

ともあれ支援者に求められるのは己の「物の見方」への挑戦だ。知識ではなく想像力、もしくは創造力が必要かもしれない。自分たち視点でケースの悪口を言い合うのも、仕事のストレスのガス抜き程度には意味があるかもしれないが、せめてそのあと「でももしかしたら、あの人、こんなこと考えてんのかなー」なんて少しでも話し合えると、なにかが変わるかもしれない。


前回はこちら。

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