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カサンドラの嘆き2 『柳の下にドジョウを探せ!』

「いやー、姐さん。いつ見てもお綺麗で。変わりないねー」

「あら、ありがと。ニイさんも、口ばっかりが上手なのが相変わらずね。でもあたし・・」


    *            *            *


前回は、予測は予測でも、情報ゼロのところからの予測、「当てずっぽう」であった。「宝というものはどこかにあるってのはさすがに知っているけど・・」と、情報はそれだけであった。


今回は1つだけ情報を使う。「以前宝はここにあった」というようなものだ。1度あることは2度ある。


この予測というか法則は、1度しかないような、繰り返されないもので述べられがちである。1度しかないものの代表はたとえば1人の人生である。

「長生きの秘訣は?」こんなことを聞けば、長生きした人はみな勝手なことを言う。


「早寝早起きなんて関係ないよ。そういうのを気にしないことが大事だ」

「肉を食べることかな」

「恋をすることです」


何度も人生を送って再現したわけではあるまいに、ともすればそれが本当だと信じてさえいる。


前回の当てずっぽうという予測法では、使われる数学はないと言った。今回は、ほぼ数学はないに等しいが、1つのデータを使うというだけのことを数学と言ってよければ、数学はある。

やはりこういうときには小学校の算数で池の周りを歩かされていた、あのタカシくんに登場願おう。


「タカシくんの家は1丁目です。さて、タカシくんの家はどこですか?」


もはや算数ではなく、外国人か子供に向けた日本語の授業である。


f(x)= 一定


などと数式で大げさに示すのも馬鹿らしいほどだ。


さすがにタカシくんの家が永遠にそこにあるということはない。それでも、諸般の都合で遊郭に300年ほど籠っていたタカシくんの親友のタロウくんがタカシくんを訪ねようとした場合、村の1丁目に行くことは想像に難くないのである。

この論理は、あまりによく使われる。「」内はその手の主張であり、()内はその反論である。


・「一度赤いきのこを食べて、あたった。赤いキノコは毒だ」(色が問題ではなく、腐っていたのかもしれない)
・「サイコロを振ったら1が出た。次も1が出るはずだ」(各回の出る目は独立だ)
・「いい天気だ。細君もご機嫌だ。今日はいい一日だ」(『女心と秋の空』ってのを、結婚三年目にもなったなら学習しろよ)
・「我々地球人には矢印の記号が理解できる。パイオニア探査機に入れる宇宙人への手紙には、矢印で地球の場所を示しておこう」(知的生命体が矢を使う文明を持っている保証はないでしょ)
・「生まれてこのかた、死んだことはない。俺は死なない!」(お前はもう死んでいる)


最後はややスベった感もあるが、これらの誤りはよくある。

予測は情報の錬金術である。少ない情報からさらなる情報を(確実ではなくとも)取り出すことを目指している。

ここでは1つの事実から、「他もそうだ」と判断している。その予測は当てはまることもあるし、当てはまらないこともある。


ここまでの例を見ると、「ああ、柳の下のドジョウを狙うのは愚かなのだな」と思われるかもしれないが、最初に述べた「当てずっぽう」以外は、正しい理屈のある予測方法はすべて役に立つ(当てずっぽうも、情報量で損はしていない。得もないというだけだ)。とくにこの「一事が万事」理論、実は我々がもっとも役立てている予測である。


・キノコを食べて死んだ人がいる場合、まさにその死人がまだ手に持っている食べかけのキノコを食べようと思う人はいないであろう。

・サイコロは1の目が出ている。仕切りで隠して視界から外れたからと言って、サイコロはそこにあるし、その目は1だと思うだろう(だから手品で驚けるのだ)。

・矢印という記号を理解しているあなたは、明日も矢印という記号を理解しているだろう。

・今まさに電話に出た妻がルンルンしていたら、1分、いや、少なくとも10秒は機嫌がよいままだろう。いや、そうあってくれ。

・「まあまあの確率で、今日家に帰るまでは生きていられるんじゃないかな」


ここで想定されているのは「恒常性」というものだ。いくらブッダがこの世は諸行無常だと言っても、世界がまったく次から次へと乱雑にまったく予想もつかない別ものに変わっているなどということはない。

大きな視点で、限られた場所や時間に限定すれば、在るものは在りつづけ、力を加えなければ物の形は変わらず、止まっているものはそこから動かないのである。

我々もまたその世界観を前提としてできあがっている。生後3ヶ月くらいまでは、「恒常性」の感覚はないが、その後徐々に獲得されていく。だから、ある程度は恒常なこの世界があり、それを恒常だと捉える感覚を持っているからこそ、我々は世界を秩序立ったものとして捉え、関わることができるのである。

世界は常にいないいないばあのように変化しているが、手のひらの向こうの人は顔は変わるとしても、そこにいる人物までがすっかり変わってしまう世界ではないのである(ここでは、量子力学的な世界観はちょっと置いておく)。

(ただ厳密なことを言うと、限られた条件でさえ、真に恒常性が「保証」されているわけではない。昨日まで成り立っていた物理法則が、明日も変わらないということを証明する手段は、実はない!)


そうは言っても先に述べたように、恒常ではありつづけないものを恒常と思ったときに、裏切りが起こる。予測はいつか外れるのだ。

実は、今後出てくるもっと精緻な、予測力の高い予測についても、このことは同様である。「この予測法なら、必ず当てることができる」と思っていても裏切りに会うのである。「変化のパターンはこれだ!」という法則自体の恒常性にも限りがある、とでも言おうか。

以下、このいたちごっこの話をしていく。(「いたちごっこ」自体も、とある予測のテーマに関連するのだが、それはまたいずれ)


予測の意味と限界を考えるときに、今回述べた「恒常な世界観」まで立ち返るのが良いかもしれない。そこには原初的な予測(と外れ)の構造があるからだ。


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「あら、ありがと。ニイさんも、口ばっかりが上手なのが相変わらずね。でもあたし、ひとつだけ変わったものがあるのよ」

「ええ?なんだい?」

「苗字よ」

「ハハ、そりゃよかったねえー。ハハハハハ……」


Ver 1.0 2020/8/15


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