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落語の病跡学 「数字の苦手な計算娘」

今日は新作落語の話を。新作落語というのは正しい定義もないのだろうが、比較的新しく作られた落語のことである。作られた、ということであって、内容が江戸の世界を扱っていても新しく作られたのであれば新作であることには変わりない。

落語会でもすっかり市民権を得て、たとえば『動物園』など、多くの落語家に演じられている作品もある。新作を演る落語家が、新作を嫌う師匠たちに白い目で見られるということもなくなった。


現代落語の登場人物たるのはだれか、舞台はどこであるとよいか、といったことを、落語を作る視点に立って考えてみよう。

そのために古典落語の成り立ちについて考える。桂文枝師匠も「古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ」と言って実際に優れた、将来古典と呼ばれるべき根多を量産されている。

笑いを起こすための緊張は、正常からのズレがあったときに生まれる、とは前回述べた。これは笑い一般の話である。また、正常からのズレとは極端な例をあげれば精神症状や敵意の発露である、とも。

人が嗤われる時、彼ら彼女らは、通常「期待」されることから少しズレたことをやる。その登場人物を「おかしい」(面白いという意味と変であるという2つの意味があるが、結局同じである)と言って嗤う。嗤えるのはそこで「おかしくない」の基準が漠然と共有されているからである。

落語で嗤いを成立させるためには、「おかしい」に気づける基準を持った側の( ≒ 健全な)人物が登場していて、ズレたことをやる不完全な「ダメな者」を、人として温かく受け入れる必要がある。談志師匠が「落語は人間の業の肯定だ」と言ったのはこのことである。そこにはある程度関係の対等性がある。

だから古典落語の登場人物、八っつぁん、熊さん、与太郎といった馴染みの面々は長屋に住んでいる。長屋には「ダメ」と「受け入れる」がそろっていた。長屋、もしくはその周辺にいるのは庶民であり、安心して嗤える我々の仲間である。ギャグ漫画に出てくる下町ののび太でありサザエさんであって、アムロやジョジョではない。

落語はスターシステムを採用しているので、どこかズレたところのある登場人物は再利用される。同じ名前の人物であっても「同じようだ」というだけであって、完全に同じ人物ではない。ステレオタイプを体現した人物である。そこが一般のシリーズ物の小説やドラマとは違う。

同時に、色濃い個性という相矛盾するものも求められる。落語の主役は、どこかにいそうな誰かであり、実はどこにもいない。そういう特定のキャラクターを、概ね貫く。

どのネタでもキャラクターがぴったり同じである必要はない。八五郎はお調子者の躁的なキャラクターだが、『天災』では同じ躁でも不機嫌なほうのタイプだ。日頃から親を蹴るような人物であるが、それも愛される八五郎という人物の一表現なのだ。
いっぽう、いくら同一人物ではないとはいえ、名前だけ同じでまったく正反対のキャラクターでは困る。さすがにそこまでは違わなくても、「これは違うなー」というのはある。
談志も言っていたが、『ろくろ首』で与太郎が「お嫁さんがほしい」というのはないだろうと。しかも与太郎は二十歳なのに、あの噺では二十五歳となっていて与太郎像から逸脱しすぎだ。私はあの根多は、ナシだと思う。古典だからといって名作ばかりとは限らない


新作落語は現代社会を舞台にする。登場人物も現代人になる。それでも『動物園』の主役は湯屋番の若旦那を移植したものである(話の構造も同じだ。『動物園』は元は海外のジョークであったらしい)。他の新作も、古典と同じような構造を持っていれば、長屋の登場人物に近い人々を出す。

そうでない新作落語は、無理な設定のコントのようなものが多い。客で新作を喜ぶ人って、そんなにいるだろうか?私はたいていの新作が好きではないとは、以前にも述べた


「ダメな人とその許容」という舞台装置を、現代において考えてみよう。

まず正常からズレる人についてである。
ズレている人々はいろいろいる。じゃあそれらの人々を片っ端からネタにできるかというと、それはよしたほうがいい。表現とは不自由なものなのだ。プロのストーリーテラーは、たとえ面白くても扱わぬほうがよいものを心得ている。その一線を守ることが、観客に安心して聞いてもらうのにも大事であるのだ。

つまり、嗤ってはいけない人たちというのがいる。


たとえば「寄席で与太郎の噺をかけないでください」と言う人たちがいる。「知的な障がいを嗤うのはよくないことだ」という規範があるのである。古典落語をする落語家にこのようなことを言うこと自体ひとつのギャグだと思うのだが、言っている人たちが本気なので笑えない。

身体障がいも精神障がいもダメである。嗤えば極めて不謹慎な悪趣味とみなされる。大きなタブーだ。(実際、客も軽やかには笑えないだろう。そのことを以前、松本人志氏が問題視していた)


前回、笑いは怒りや恐怖と近いものであると言った。このうちの恐怖のほうと関連があるのだが、笑いは差別とも近いところにある。「笑う」「嗤う」には、あざ笑うというような、相手をバカにするという意味もある。現代社会は差別に厳しいから、嗤う対象を狭めてしまうのである。

だから、古典落語で与太郎を出すなというのは極論だとしても、新作落語でわざわざバカを新たには出し難い。


ではだれのことを嗤って楽しめばよいのだろう?漫才と違って、演者が嗤われるのではなく、落語では物語の中になんらかの属性を持つ人物を登場させる必要がある。


「差別」はだめだとしても「区別」「違い」はある。それを現代社会の中に見つけると、笑いにしてよい対象の候補が見つかる。今回はその中で「文系ー理系」という、分類を取り上げる。

実は差別である。「差別はいけないが区別はある」というのは私の嫌いな言葉だ。この言葉を使う人は「自分は差別はしていない」と平気で信じている差別主義者でタチが悪いからだ。

「文系」のステレオタイプな中身は「数字オンチな女子」「私大でろくに勉強もせず親の金を無駄にしている」といったことのようだ。本来分ける必要もないのに広く区別をし、それに差別という自覚を欠くのだから、与太郎で嗤うのより少し品が悪いような気がするのだが、それが社会的に許されている。新作落語を作るなら、そこを突く。

融通の効かない理系(というステレオタイプ)もまた嗤える。この対称の構造にバランスがある。お互い様である。だから嗤ってもかわいそうということにならないのか。ふーん。


たかが嗤うためにも、バカな苦労をするもんだねえ。

Ver 1.0 2021/3/7


ということで文系をネタにしたのがこちら。

私は「数理落語」「数理小説」なるものを作っているのだが、この文ちゃんを登場させ、「文学小説」なるものを書いてみた。それがこちら。
(シェークスピアの悲劇、『マクベス』を踏まえているが、地の文がある小説になってしまっている。いっそ劇詩に書き直そうかとも思っており、気がつくと更新されている可能性あり)

数理小説の方では文が理という男と結婚した後が描かれている。


落語の病跡学、番外編はこちら。


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