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落語の病跡学 ・番外編 漫才の病跡学「ボケじゃなくトボケ」


今日は漫才の話を。漫才と言えば、ボケとツッコミに分かれる。


ボケは昔、トボケと言った。ボケとツッコミという言葉が広く普及したのは、1970年代後半の漫才ブーム以降ではないかと思う。お笑い文化が熟成していた関西ではどうであったかは分からないが、それ以前は、そのような役割分担があるということも、多くの人はさほど意識せずただ漫才を楽しんでいたのではないかと思うのだが。

今ではお笑いについてみんな結構詳しくなってしまった。今更「ボケ」についての説明は不要だろう。一応書いておくと、文字通り、ボケたことを言う役のことだ。

サンドイッチマンで言えば、店に客が入ってくるなりよその場所への道案内を始めてしまう富澤さんだ。他にも彼はいろいろと失礼なことを言う。実際にそんな店員がいれば、客はイラついてクレームを入れること間違いなしだ。観客はそれを安全な場所から見て楽しむ。笑う。

それに対して相方の伊達さんは、適度に文句をいったり、怒ったりする。ツッコミだ。客と店員の関係はギリギリの線で保たれる。客のほうが怒って出ていく、ということはない。それは最後の最後、「いい加減にしろ」まで引っ張られる。



恐怖と笑いは近いところにある。笑いは緊張したところに生まれる。緊張の緩和である、とは昔からよく言われる。

ではその緊張はどうやって生まれるか。正常からのズレがあったときに生まれる。

正常からのずれかたはいろいろある。「正常」とは文化や時代によって変わるものであるが、なんらかの基準があるところに、あるものを正常、そうでないものを異常という判定が生まれる。「正」の字は質的なズレ、「常」は量的なズレにでも相当しようか。

我々は正常を期待している。たとえば昨日見たテレビでは、モデルさんが初対面の人に菜種油をプレゼントされ困惑した、というエピソードを語っていた。「初対面の人にそのような贈り物をしない」といったことが、期待していること、だ。日本人という共同体の中ではだいたいそれは「当たり前のこと」と見なされている。

菜種油を贈られたら「おかしい」と思う。我々の基準が揺るがされるのである。緊張が生じる。

「って、こんなんもらってどうすんねん!」(こういうときは関西弁っぽいとしっくりくるナ)と言うと、緊張が緩む。「初対面の人には菜種油のようなものは贈らない」という基準が言葉によってはっきり示され、その基準に則ってズレを笑うことが許されるのだ。恐怖からの回復の反応が笑いである。ツッコミはその許可である。



異常から笑いが生まれると考えると、世の中に溢れる恐怖を呼び起こす異常がすべて笑いに応用できる。実際にされている。

ちなみに「異常」は「正常」の反対とされているが、「常と異なる」と「正しくて常である」は、漢字の構造が違うように思われる(本当にそうかは知らない)。

「健康」という正常からのズレである「病」、とくに精神の病と笑いについて考えてみよう。


ボケ役というのは、正常からのズレを作る装置である。漫才では、演じているとはいってもその人そのものがそのボケをやっているように見せるから、そのキャラクターはその人の普段の姿だと錯覚させる。そこが、何でもひとりで演じる落語家とは違う。七色インコではなく個性派俳優である。漫才師は、特にボケは、己のキャラクターを漫才の上での役割に捧げる。

もっとも、ネタの中と外でキャラクターが完全に被っている必要はない。ただ、まったくズレる訳にもいかない。私はキャラクターが売り物になる商売を第4の労働として「人格労働」と言っているが、人前に出ることを営みとしている人々は、自分がどういう人に見えるか、ということについて少し不自由になる。それも仕事のうちなのだ。
ドラマで悪役を演じている役者が、現実世界でののしられることがあるという。それは極端な例ではあるが、観客はその人個人に演じている役柄を見出し、それを引きずるのはたしかだ。
それは公務員に似ている。日常においても公の僕であり真面目に生きることを期待されるのが公務員である。ボケ役の芸人は、期待される役割がその逆というだけである。

ボケかた、すなわち正常な基準からのズレかたは一通りではない。いくつもある。かといって漫才師のボケ役は、そのあらゆるボケかたを無節操につまむことはしない。売れている優れた漫才師はみな、特定の種類のボケを選択している。それが各コンビの、安定した虚像を作り出すのに必要であり、それで漫才に深みが出るからだ。

その、お笑いのボケ=緊張感の作り方 の種類を、各種の精神疾患や、精神症状から探ってみよう。

たとえば知的なズレは最もよく使われる。この集団では通常これくらいのことなら判るはず、というところに、それより理解が低い言動があると、笑いのネタになる。幼い者の言い間違い、めちゃめちゃに稚拙な絵などは、笑える格好のネタになる。

感情のズレということであれば、うつというのは悲観的な感情の量的なズレである。それを真似れば、「ヒロシです。俺の家に女の人が来たとですが、寒いから帰ると言われたとです」といった自虐ネタができあがる。(あまり健やかには笑えないが)

他にも「誇大妄想」ならどぶろっくだし、それをちょうどひっくり返した不都合な事実の「否認」が出雲阿国である。「空気が読めない」は最近流行りで、たとえばドランクドラゴンのコント、「テンション高すぎ」ならフワちゃんとか。ブラックマヨネーズは、「あらゆることを心配しすぎ」だし、チュートリアルは感情の量的なズレというより質的な「そこで喜ぶ?」といったところで喜ぶというボケが画期的だった。

このように各種のユニットは、ボケかたをどれかひとつに固定しているのである。


ところで、最初に述べたサンドイッチマンの富澤さんのボケを分類するのはちょっと難しかった。知的に間違える、というのはちょっと違うように思った。精神症状とかで説明できない。やがて、「半分くらいわざと怒らせている」というボケで統一されていると気づいた。

感情は恐怖ではなく怒りである。それで強面のツッコミとまったく悪びれないボケとの組み合わせは絶妙に面白くなる。怒りも正常からのズレ、期待からのズレから起こる。恐怖とべつの、お笑いの本質に関連した感情である。

そうなると不条理はみなお笑いの候補となる。ブラック企業、過剰なポリコレ、各種ハラスメント、等々。怒りを通り越せば笑いになるかもしれない。



さまざまなボケの話をしてしまったが、芸人ごとに各論をやると面白いだろうな、と思っている。

今日は最後に、最も多いボケ、知的に劣るというボケについて触れておく。言い間違い(「さいきんヤホーを検索しまして」、字義通りに解釈する(「書類を回せ」と言われてくるくる回す)、バカの一つ覚え、といったボケは、一貫してなされる。与太郎もそうだが、これ、わざとやっているな、と思えることがある。

いや、漫才だからわざとやっているのだが、ここではあえてそのキャラクターを解釈するということをやっているのだ。本当にボケている、と考えるのが素直なのだが、どこかで強かさが垣間見えるときがある。そもそもボケじゃない。トボケだったのだし。

ボケはツッコミを引きずり回している。笑われているのではなく、正常な基準を取り戻そうとあくせくしているツッコミの「くそまじめさ」「強迫」を嗤っているのかもしれない。そういう高度な遊びをしているのかもしれない。


そこにバランスがある。かけひきがある。だから観るに値するシーンとなるのか。


バカじゃあできない。


ver 1.0 2021/3/1


落語の考察、定吉編はこちら。


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