伊坂幸太郎のワールドで生きがいが問われる
二つの勢力が争う。
よくある話だ。その代表は悪い魔物とそれらから人類を守る者の争いで、今なら『呪術廻戦』や『チェンソーマン』であり、そのルーツは『デビルマン』え3、さらに言えばそれらは古代の神話の焼き直しだ。物語構造は神話を踏まえればよいが、モチーフやアレンジをどうするかには作者の力量が大きく問われ、そのオリジナリティと完成度が高ければ傑作となる。
伊坂幸太郎の物語には、悪魔ではないが(死神は出てきたことがあるが人類の敵というのとはちょっと違った)よく殺し屋が出てくる。それに対立するのは作者そのものかと思わせる気が弱くて善良な人物である。裏社会で人殺しが暗躍しているという世界観は、魔物の物語同様のファンタジーである。伊坂はとにかくその手の話が得意だし、私はそれが好きだ。
朝井リョウの『死にがいを求めて生きているの』は、伊坂幸太郎の呼びかけによる〈螺旋〉プロジェクトの作品である。8作家が8作品を通して「海族」と「山族」の対立を描くのだが、朝井リョウには「平成」というもっとも対立を描きにくい時代が割り当てられてしまった。
性別・兄姉弟妹の何人目か・家柄・親の意向・居住地・性的嗜好といったもので就きたい仕事に就くこともあきらめざるを得ないようなかつての社会のありかたから、今はなんとなれば仕事自体するかしないかも選べるような、自由がかなり尊重される社会になった。各人の平等が追求され、対立といじめの徹底的な排除を目指すクリーン社会ができつつある。
そこで人々はどう生きているのだろう? 自由と平等を得るための戦いが不要となった後の物語が、この小説の描くものである。
だれも傷つかないことが当然のように期待され、個人情報の行方ひとつとっても護られるような社会では、名指しで褒められることにさえ耐えられぬ若者にあふれるようになった。弱い自己が喘いでいるのだ。
いっぽうで、基本的な衣食住が争わずに満たされるようになったのに、「認められること」に果てしなく飢える者が多い。目立つために赤裸々な、あるいは粉飾した自己像を世界に発信する手段まで、今は取り揃っている。そんなものを用いても砂漠に水をまくがごとしで、肥大した欲求は満たせないのだが。
薄っぺらい合理主義に果てしなく染まっていくことに、私たちは直感で薄ら寒さと拭えぬ脅威を覚え、疑問に思っている。「そもそも不条理は世の常だったではないか?」「完璧ではない人間が、不条理の排除と自由の保障を実現できるのか?」「ともすればあの生存競争には、なんらかの意味があったのではないか?」と。
そもそも人は「傷つくことを回避する」のではなく、「傷ついて立ち直る」ことによって成長するのではなかったか。
だがかく言う私も、合理性を大事にするタイプであり、現代社会こそがまことに住み心地よいのだと信じている。昭和はタバコ臭さとともに、地獄の時代として思い出されてしまうのだ。だから合理主義そのものを問い直され、現代社会で実存的な悩みを抱えている若者を見せつけてくる朝井リョウは、苦手である。遥かなる高みから見下ろされているように思ってしまうのだ。
私は、優れた能力を持った殺し屋から逃げ惑った果てに対峙する(そして勝利する)物語が好きな、昭和のおっさんである。だがのっけから本シリーズは、そんな単純な対立の構図を乗り越えてしまった。
過保護な世界に暮らす脆弱なはずの人々が、成長する力をしっかり備えている可能性を語る道具として、山族と海族の分断という素材があまりに見事に料理されている。ひたすら脱帽した。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?