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【長編小説】 異端児ヴィンス 5

 その時のもの哀しい気持ちが、目が覚めてからも胃のの底にへばりつくように重苦しく私を支配していたのだった。
 テオは私の憂鬱症に辟易へきえきしている、そう考えながら歯を磨いた。顔を洗って少ししゃっきりする。でも鏡の中に見えるのは、血の巡りの悪い、緑っぽい冴えない顔だった。
 試みに微笑みを作ってみる。そうすれば、私の顔もそこまでひどくはない。きちんと化粧をすれば、ウェイトレスとして働くに当たって何とか客に不快な印象を与えずにすむ程度の見栄えにはなるだろうと思われた。
 口紅を引きながら、ふとヴィンスのことを思った。最近デュー・デュ・シエルにも行っていない。近ごろはテオとあまり仲違いすることがなかったから。喧嘩をしなければ行けないというわけではないのに、なぜか普段のテンションでは足が向かない。
 変だな、と想像の中のヴィンスが言う。彼は自分の奇行のことは棚に上げて、獲物を得たとばかりに早速私の融通の利かなさをこき下ろしにかかるだろう。いつものように酒の勢いに乗っていつ止まるとも知れぬ言葉の洪水を吐き出し、1パイントの大麻ヘンプビールをあおりながら。
 私はヴィンスのお喋りに付き合うのを嫌いではなかった。他の客たちは皆嫌がって彼と同席するのを避けるのだが、私は時にヴィンスの座っているカウンター席の隣にわざわざ座ったりして、彼の洗礼・・を受けたがった。皆私のことを物好きだとからかったが、当のヴィンスは私の行動も外野の茶々も一向構わないといった態度で、平然と、いつものように誰に語るともない長広舌を開始するのだった。
 私には、ヴィンスの奇妙さ非常識さに共鳴する何かがあったのかもしれない。日本を離れてガラリと人生を変えたことで、ある程度救われたような気はしていたが、まるで引き換えのように、そこにはある喪失感が待ち受けていた。覚悟していたこととは言え、その帳尻を合わせるためには、人には見えないところで苦悩しなければならなかった。
 そんなだったから、私は、今ヴィンスが陥っているように見える無秩序をひとつの逃げ道のように感じ、自然に寄りかかっていったのかもしれない。心の弱るとき、私は彼のような存在を無意識に強く求めていたのだ。一緒にバカバカしいことを熱く論じ合い、束の間厳しい現実の結び目をほどくような作業を繰り返して……。そういう作業を一緒にやるには、ヴィンスほどふさわしい相手はいなかった。ここでよく聞こし召した客たちがやるように、私は政治を論じたくはなかったし、民族問題も、世界平和や社会福祉のことも、いったん脇に置いておきたかった。ヴィンスの口から吐き出される荒唐無稽ないんちき話を、ただ聞いていたかった。そして、その中に、私しか呼応することのできないであろう宇宙の真理をさえ理解したような気になって陶然とすることに、喜びを感じていたのだ。

 例えばあるとき、ヴィンスはこんな話をした。アンバー・エールの一パイントグラスをいつものようにカウンターの上で大事そうに抱えて、その人間離れした鈍色の瞳を濁らせながら、機嫌よく話した。
「……容姿のいい人間は、大抵思慮が浅い。これにはれっきとした理由があるんだ。それは、自分の美しさにほとほと満足しきってしまうあまり、ほかへ目が行かないからだ。……ホントに、ほとんどの場合がそうさ」
 ヴィンスはパイントグラスから手を離して、カウンターの上に置いた。酒によるむくみのせいで、指の全ての関節が大きい。明らかにアルコールの問題を抱えている人の、病的な手だった。
「考えてもごらん」
 ヴィンスは言った。酒臭い息がゆらゆらと渡ってくる。既に酩酊めいていし、下りてきた瞼に半分遮られた眼差しは、目の前三十センチ先に突き出した自分の右手の上を漂っていた。
「こうやって手を出して眺めてもよ、容姿のいい人間ってのは、まずその手に見とれてしまうんだな。まあ私の手って何て美しいんでしょ、ってなとこだ。そんでまた、隣に座った人並みの容姿の人間から、羨望の眼差しが送られてきているのを感じる。たまには『綺麗ですね』なんて褒め言葉も飛んでくるだろう。毎日そんなことが繰り返されてるんだよ、奴らの人生ではな」
 ここでヴィンスはさっきからちびちびやっていたアンバー・エールをひっつかむと、グラスに口をつけ、ごくごくぐびぐびと最後まで飲み干した。
「……まあ、現実で見る自分の姿があまりにも美しいと、生きててもうそればっかり楽しくなっちまって、毎日毎日眺めてるのに忙しいもんだから、自分の外見以外のこと、例えば自分の性格とか、中身の部分だな、自身の奥深い内部に潜ってとっくりと見るってことが難しくなっちまうんだな。勿論他人の面倒なんて無理な話だ。自分の奥深いところに入っていけもしないのに、他人の心の裏とか深い部分への気遣いなんてところに、思いを至らすことなんてできるわけがないんだ」
 そして勢いよく右手を振り上げると、待っていたかのようにマルテンが無言でお代わりの大麻ヘンプビールをカウンターに置いた。
「でもな」
 よく冷えた大麻ビールを美味しそうに口に含むと、活力剤を飲むように、悦びに満ちた目を光らせてぐびりと飲み込んでから、ヴィンスは続けた。
「……別段美しくもないのに、ひどく魅力的な人間がいる。そういうことって、あるもんさ。顔の造作は、まあ、イマイチだが(ここでヴィンスはちょっと首をかしげた)、何ていうかな、その人が発するもの……喋る言葉とか、その言葉を発音する声、そういったものの中に〝何か〟があるんだな。別に好きなタイプってわけでもないのに、なぜか惹かれる……。むしろ嫌悪感さえ覚えることもあるってのに、逆にもっと近寄りたくなる……。例えば、俳優とか女優にだって、いるだろう? ブサイクなのに何でこの人売れてるんだろう、ショウビジネス界においても社会においても評価されてるんだろうってタイプが。ええ? そんなタイプには、自分に直球じゃないものの、何かあるんだろうなって、俺は素直に思うのさ。そしてそっから彼・彼女に対する興味が始まる。そっからは、彼・彼女をテレビや映画で観るたびに好きになっていくんだな。彼らに備わってる魅力の本質は相変わらず理解できないものの、現にすでに俺は彼らに魅了されてる。テレビに彼らが出ていれば釘付けになるし、彼らの出てる映画が封切りになれば、気づかない内にフラフラと映画館に足を運んでいる……。多分いつかわかる日が来るんだろうな、そんな気はしているよ。遠回りはしているが、多分いつかある日、とんでもないどうでもいいようなタイミングで、俺は彼らが魅力的な理由を完全に理解するんだろう。その瞬間は、いつ来るかわからんし、ま、実際、とうとう来んかもしれんけどな」
 ヴィンスは喉が渇いたようで、もう一度大麻ビールをチビリとやった。そして更に続けた。
「わけのわからない意味不明な魅力……。結局のところ、そんなものが世の中でいっちばん強えんじゃねえかなって、俺は思ってるんだ。勿論造作のいいのに越したことはねえ、俺に言わせりゃ美男美女ってのは国の……世界の宝だ、そいつはいつ何どきも揺るがねえ。もし美男美女で、中身もとびきり意味不明に魅力的な人間がいたとしたらだ、もう俺はひれ伏して俺の人生すべてを捧げてそいつの奴隷になったってかまわねえ。でも生憎あいにくと、この現世じゃあ、少なくとも俺がこれまで生きてきたちっぽけな人生にゃあ、そんな人間にはお目にかかったことはないねえ。造作の美しいのはけっこうな数いるが、そんな奴に限って、男も女も、やっぱり思慮が浅いんだな。……でもな、美しくもないのに意味不明に魅力的な人間ってのァ、時々いてな、そいつがありがてえんだな。……そういう奴らはよう、きっと自分の中の、奥深い部分に潜っていって、自分自身をとっくりと見てきた奴らなんだよな」
 私は大麻ビールをひと口飲んだ。甘苦く、芳醇な香りが口の中に広がった。そのときヴィンスは出し抜けにこう言った。
「あんたはな、まあ、造作は……、な、あんまり俺のタイプじゃないが、いま俺の言った、意味不明に魅力的な女って言えるかもしんねえよ」
 そして、目にも止まらぬ超高速のウィンクをした。あまりにも速すぎたので、それはヴィンスの左の目が一瞬痙攣けいれんを起こしただけのようにも見えた。
「今夜はホントによく喋るね、あんた」
 私は言った。

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