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【長編小説】 春雷 1

 雨が降っていた。春の訪れを予感させる緩んだ大気のなかでひと晩じゅう湾内を濡らした小糠雨こぬかあめは、夜が明けると仕事を終えて満足したかのようにその姿を消した。
 目が覚めると、空気中に湿った匂いが漂っていた。海、山、木造やコンクリート造りの住宅、船着き場に停留する船たち……。浦じゅうのすべてのものから発せられるその甘やかな匂いは、鼻腔から胸のなかに入り込んで、真咲まさきを少し優しい気持ちにさせた。
 ここの気候は、本当に不思議だ。一月下旬、冬のただなかに、こうした季節はずれの空気が紛れ込む。正月が明けてまだそれほど経たないというのに、この時候にまったく似つかわしくない南国のような柔らかい湿気が辺りを包んでいた。この土地ではこういうことがよく起こる。風向きにより、南からの暖かい空気が混じるのだ。
 カナダの長い厳冬の季節を幾つも味わった末に帰国した真咲は、日本のほかの地方や世界じゅうの寒さの厳しい土地に住む人々に申し訳ないような気持ちになりながら、ぼんやりと考える。
「ここはまるで桃源郷のようだ」
 確かに、戻ってくるたびにいつも町並は変わることなく、住んでいる人々もだいたい同じで、都会暮らしに疲れた身にほっとする安らぎを与えずにはおかないような場所だった。まるで天から遣わされた聖なる調査団が、現実世界に桃源郷を置くために地球上のあらゆる土地を訪ね歩いて慎重に吟味した結果、ここをその候補地のひとつとして選んだかのように……。
 この環境で、わたしたちは生まれ育った……と、真咲は思う。
 布団の上に起き上がった途端、喉の痛みと激しい咳の発作に襲われた。年明けごろからひき込んでいる風邪が、なかなか治らない。
 幸い熱は引いて再発することはなかったが、間欠的に喉に痰が絡み咳が出る。恐ろしく粘り気のある痰は喉のなかに居座り、気道のところで前後するだけで容易には排出されそうもない。咳をするとまるで悪魔の喘鳴のような音が出る。
 真咲にはこれが邪気、、の排出現象だということがわかっていた。このところ自分の内部にある黒いどろどろとしたものがまるきり自覚されていて、胸に腹にどうしようもなくくすぶっているのを感じている。
この黒いものは、二十代のころにも一度自覚したことがあった。ただそのときは、そこに〝何か〟があるということがわかるだけで、どうしてこんなものがあるのだろう? これはいったい、どこから来るのだろう? といぶかしむのが精一杯だった。
 出どころを突き止めることもできないままに、それから二十年以上ものあいだ、この黒いものは真咲のなかに居座り続けた。それは折りに触れて表出したり、かと思えば追跡から逃れるかのように、臆病を装って奥に引っ込んだりした。
 いまだからわたしにもわかることだ。この黒いものは表層に現れてきている。もしかしていまなら、出て行かせることができるかもしれない。
 そのために必要なのは、自分ひとりの時間だった。テレビもインターネットもスマホも遮断して、周りの人々の気配からも一切影響を受けない、黙想の時間が――。
 何かそういう〝時〟を持つように追い込まれているのかもしれない。もしいま持たなくても、またいつか必ずそういう状況がやってくる。
 何度でも――。真咲は思うのだった。
 
 夕べ湾内に吹き荒れた、狂ったような強風は、今朝は何ごともなかったように止んでいた。この土地では毎年二月、夜になるとなぜかこういう風が吹く。それは二月というこれといって特徴のない月が、自分の色を出そうとして激しく自己主張をしているかのようだった。
明け方に音もなく雨が降ったようで、アスファルトの道路は黒く濡れていた。
 店を開ける当番の咲子は朝早く起き、洗面所に行って顔を洗った。最近替えたばかりの黒真珠粉末配合の黒い毛の歯ブラシに、最後まで使い切るためにチューブ容器を半分に切った歯磨きペーストをこすりつけて、丁寧に歯を磨く。
 節約心からそうしているのではない。その歯磨きの香りと使い心地が気に入りすぎて、最後のひと搔きを使い切るまで、そのペーストとの別れが忍びないのである。
 雨上がりの湾は、静けさに満ちていた。時折タイヤに水気を含んだ走行音を立てて車の通り過ぎるのが聞こえてくるぐらいで、周囲には人の気配というものがない。洗面所の天井の蛍光灯が、聞こえるか聞こえないかといった程度の、ジーンという微細な振動音を立てている。
 家人が起きてくるのはもう少しあとだ。咲子は玄関を開けるために土間に下りようとして、そこにあったものを見て息を呑んだ。
「えっ! 何! 何、これ!?」
 ひとりで小さな悲鳴を上げると、目の前に横たわっている物体に近づいて、よく観察した。
 それは、腹を上にしてひっくり返っている大きなカエルだった。あまりにも完璧にひっくり返っているので、顎も上を向いていて、顔が見えない。微動だにしないところを見ると、とうに昇天しているらしかった。
 にわかに、どういうことなのか理解ができなかった。眉をひそめて眼球を巡らし、状況を整理して自分なりに推理を進めてみる。
 カエルの死骸の横には、夕べ玄関のなかに入れておいたアネモネの鉢があった。まだ花は咲いていないが、茎が長く伸びてちらほら蕾がついているので、強風に折れてしまわないようにと入れたものだった。
 もしかしたら、この鉢のなかで冬眠していたのかもしれない。
 咲子は思った。昨日は、二月とは思えないくらい温かい一日だった。その上夜になってから屋内に入れたことで、周囲の気温が高かったために、カエルは春が来たと勘違いして土のなかから出てきてしまったのではないだろうか。
 そこを狙われた、、、、のだ。途端に合点がいった。鉢を玄関に入れたばっかりに、可哀想なことをしてしまった。カエルには生憎あいにくだったが、咲子の家には、ハンターがいる。
 カエルの体は、冬眠中で痩せていたものか、顔も体も細長く、顎の先から降参したようにビヨーンと伸びている両足の先までを合わせると、ゆうに二十センチはありそうだった。
 トノサマガエルかな? 咲子は思った。これまで小さなアマガエルかこの土地の言葉でばくどん、、、、と呼ばれるガマガエルの一種しか目にしたことがなかった咲子は、その正体を特定できないまでも、生まれて初めて見る珍しい形のカエルをしげしげと眺めた。
 ――あんなに可愛い顔をして、ひどいことをするものだな……。
 冬眠中のカエルに起こった悲劇について思いを巡らしていると、それを察知したかのように、実行犯、、、が現れた。トントントントントン、と、早足で階段を下りてくる小さな足音がする。アドニスだ。昨夜は姉のベッドで寝たので、今朝はまだ起きてこないと思っていたら、夜中のあいだにひと仕事終えていたのだ。
 白地に濃いオレンジ色、その上に明るいベージュ色の流れるような線模様のある美しい毛並みのオス猫は、店に来るお客さんたちの目を引く。実際、アドニスを目当てに来店する客も何人かいるほどだった。自分が一目置かれる存在であることを何となく知っているらしい、この細身の高貴な顔をした猫は、この家ではどんなわがままも許されている。
「だからといって、殺生はいかんよ、アッ君」
 昨夜仕留めた獲物の残骸を、いま一度確認しようと鼻を近づけてくるアドニスを片手で押し止めながら、咲子は取ってきた新聞紙でカエルの体を包んだ。土に埋めてやりたかったが、咲子の家には庭がない。石壁に囲まれたひと坪ほどの植え込みも、家の側面にあるレンガ造りの花壇も、すべて木と花に占領されている。そのほか土があると言えば、花の鉢ばかりだった。
 その日はちょうどゴミ出しの日だったので、仕方ないと腹を決めた。気合いを入れた声で「南無三なむさん!」と唱えると、咲子は昇天したトノサマガエルをゴミ袋に入れて、集積所に持っていった。
 戻ってくると、アドニスのために居間のホットカーペットを点けておいて、暗い廊下を通り抜けて折り戸を開き、店舗のほうへ移動した。
 真咲と咲子は、浦に一件の薬屋を営んでいる。曾祖父の代からの老舗で、古い書類を発見して創業が明治時代であったことを知ったときには驚いたものだった。四十代の姉妹が二人で営む薬店というのは珍しいかもしれないが、色々なことがあって、二人ともいまの暮らしに落ち着いた。
 店に入った咲子はまずコンピューターの電源を入れ、開店の準備をする。モニターの画面が立ち上がるのを待つあいだ、表と裏のシャッターを開ける。錆がついて年々重くなってくるシャッターを開けるのは、いまやちょっとしたエクササイズでもある。咲子が小学校一年生のときに父が古い店舗兼住宅を建て替えたときからなので、ゆうに四十年は経過している年代物だ。
 レジを操作して登録画面にし、お釣りの準備金を確認すると、咲子は再び境目の折り戸を開けて家に戻った。
 コーヒーマシンにドリップコーヒーの粉をセットして水を入れ、スイッチを入れる。プシュ、プシュという圧縮音が起こるたびに、いい香りが部屋じゅうに広がっていく。咲子はスプーン二杯の三温糖をカップに入れてからコーヒーを注ぎ、冷蔵庫から出してきた牛乳をほんの少しだけ入れて混ぜた。
 ホットカーペットの上の炬燵に入り、足とお尻を温める。アドニスが隣に来て座り、じっと視線を送って朝ご飯を所望するので、猫用のボウルにキャットフードを入れてやると、早速前に行ってカリカリと食べ始めた。小さな音で点けたテレビが、朝の情報番組を映している。
 咲子はコーヒーをひと口飲むと、ふうと溜め息をついた。

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