【長編小説】 ヒジュラ -邂逅の街- 12 最終回
――日が暮れようとしていた。蟻塚のような街の背後に、今日の最後の光が射して、斜めに傾いたオレンジ色の光線が一瞬だけ、私たちの頬を照らした。礼拝を呼びかける男性の声が、いつものように唄うように、しかしこのときだけは、恋人たちの切ない胸の疼きを掻きたてるように響いていた。
誰も来ない、あの廊下の暗がりで、私たちは頬と頬を寄せ合って座っていた。サーレムの頬は燃えるように熱く、彼が文字通り初めての恋の炎に身を焦がしているのが私にも伝わってきた。いつでも死人のように冷たい頬を、サーレムの信じられないほど滑らかな、なのに焼き鏝のように熱い頬にぴったりとくっつけていると、彼の高鳴る心臓の鼓動が聞こえてくるような気がして、そしてそのうちに、熱に浮かされておこりのように震えている彼の体の細かい振動に気がついた。
「お祈りをしなくてもいいの?」
思わず私は囁いた。規律正しく礼拝を呼びかける声に、すがるような気持ちだった。
「いいや。後で」
サーレムは、一瞬の迷いもなく答えた。そこには強い意志が感じられた。
――長くしなやかな少年の手が伸びてきて、躊躇いがちに、震えながら、しかし母親の乳を求めるように力強く、私の腰を抱いた。燃えるような熱は彼の掌にも籠もっていて、氷水に浸されたように冷たい私の体に熱い衝撃が走った。――私も応えるように、反対側の手で、彼の腰を抱いた。
サーレムの体は驚くほど華奢で、その腰は頼りないほど細かった。その瞬間、私は彼をたまらなく愛おしく感じた。まだどんなものにも汚されていない、純真で無垢な魂。そしてそんな清らかなものに、こんなにも求められているという果報……。
お互いにぴったりと体を寄せ合っているうちに、いまや私も彼から伝わってきたと同じ熱に浮かされていた。熱い吐息が、震えながらひと呼吸ごとに大きくなって、一瞬、サーレムの求めるままに流されてしまいたいという衝動に駆られた。――でも次の瞬間、私は知った。彼とただこうして親密に呼吸を合わせていることのほうが、どれだけ価値があるかわからないということを。
――目の前の現実、過去、未来を貫いて、薄明のような光が射した。その光は輝きを強めながら、どんどん明るくなっていった。
そしていま、この少年を尊ぶことは、私がかつて行ったこと、行わなかったこと、あらゆる悔いの残る、これまで私のなかに黒く塗り込められていたことさえもすべて、同じように尊ぶことに繋がると教えてくれた。
光は、いまや私の全身に広がっていった。
――それでいい――
あの人の優しい声が聞こえたような気がした。
サーレムの頬は、熱に浮かされたまま、私の唇を求めてほんの少し動いた。そのとき私の目から流れ出した涙は、彼の半ば錯乱状態にも似た熱情を、いくらか冷ましただろうか? 私は彼の肩を抱き、なめらかに滑らせた手で頭をなでながら言ったのだ。
「サーレム、神様がご覧になっているよ」
――マーマレードの夢を見た。
“枯れ谷”の上質な蜂蜜に浸かったあの柑橘は……。そう、オレンジだ。私が街の市場で買ったのだ。皮ごと美しくカットされたオレンジは、琥珀色のとろりとした蜜のなかで、静止したまま毅然として浮かんでいた。まるでそこに、瑞々しい思い出の記憶を封じ込めようとでもするかのように――。
オレンジの柔らかな果皮と果肉は、ゆっくりと時間をかけて蜂蜜と溶け合いながら、その色と香りをいつまでも留めていた。
翌朝目覚めると、私は手紙を書いた。街じゅうが祈りを終えたそのころは、とても静かな時間帯だった。いま、私の頭のなかはすっきりと澄み渡り、これまで経験したことがないほどに透明だった。
短い手紙を書き終えると、私は階下へ降りていった。宿屋エスメラルダの小さなエントランスでは、“枯れ谷”の親子が荷物をまとめてチェックアウトの手続きをしているところだった。サーレムは意気消沈しているように見えたが、私と目が合うと、思い出したように、その顔にはいつもの微笑みが広がっていった。不思議な子だった。
私は兄弟におはようと言ってから、いましがた書いた手紙を見せた。そして見送りに出てきた女将に頼んで、こう伝えてもらった。
「どうかあなたたちの故郷への帰り道の途中で、この宛名の人に出会ったら、これを渡してほしい。なかに書いてあるのは、大切な人への、いまの私の気持ちだから。
……とても優しい声をしている人だから、すぐにわかりますよ。
最後に、あなたたちの旅の無事を祈って。マッサラーマ」
兄弟は、もの珍しそうにその封筒を受け取った。私を見上げて微笑んだアフマドの瞳は、新たなミッションを得て嬉しそうに光った。
宿を発つとき、サーレムは振り向いて何か言い残していった。女将はくつくつと笑いながら通訳してくれた。
「来年戻ってくるときは、俺は大人だよ! だってさ。可愛いねえ」
そして、
「あと、月を見て、と言っていたよ。どういう意味かね?」
私は思わず笑って目を伏せた。瞼の奥に、月を眺めているサーレムの姿が浮かんだ。この先満月を眺めるたびに、私は彼のことを思わずにはいられないだろう。
――ずっと内奥で凝り固まっていた、古くてもう必要のないものが出ていってしまったので、いまはただ新しい何かが入ってくるのを待っていればいい――。
声はいまは私の内側から話しかけた。とてつもない安寧と希望とが交錯しながら、今日という日を連れてきてくれる。
――“枯れ谷”へ戻っていく親子の後ろ姿を、いまちょうど射した朝日が黄金色に染めていた。
~終~
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