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【長編小説】 ヒジュラ -邂逅の街- 2

 ――静寂の色は、月明かりに似ている。
 真夜中ごろ、空高く上った満月は、神々しいほどに冷たい、清らかな蒼さで私のまぶたを濡らした。
 月の光に呼ばれたかのように、目が開いた。身を起こしたとき、今度は体が軽く感じられた。私はベッドを降りると、誘われるように窓の方ほうへ歩いて行いった。
 土壁を四角く切り取った空間の向こうには、夜の街が広がっていた。
 私のいる部屋は裏通りに面しているらしく、驚くほど狭い、人がひとりやっと通れるくらいの路地が見下ろせた。向かいの建物も、その隣の建物も、同じような日干し煉瓦の造りで、狭い路地を挟んで互いにひしめき合っている。そして見上げると、かなり上のほうまで階層が続いていた。
 私のいる部屋と同じ高さの真正面に、やはりガラスのない窓があり、その下にもう二つ、同じような窓があった。なぜか通常の建物の一階と二階に当たる部分には窓がついていないので、私の部屋は実際五階ぐらいの高さにあるのだろう。前の建物をよく観察すると、その上にさらに五個ぐらいの窓が数えられる。――板も釘も使わない、ただ日干し煉瓦を積んだだけの建物なのに、こんな高層建築が可能だなんて――。
 私は驚き、感心していた。そして、ちょっと勇気を出して窓に両手をかけて身を乗り出し、周囲を見渡してみた。
 月明かりに皓皓こうこうと照らされた路地には、左右を見渡しても人っこひとりいなかった。いや、人どころか、猫の子一匹見当たらなかった。
 昼間から続く不気味なまでのこの静けさとは――。この街には人がいるのだろうか? 城門をくぐって入ってきたときに見た門番や煉瓦作りの男たち、そしてあの休憩所の黒ずくめの女性は……? みんな夢か幻だったのだろうか? 私は少し不安になってきた。
 すると、またあの悪意に満ちた声が戻ってきそうになった。
 それはいつも空気のなかに溶けていて、私が気おくれしたり疲れたりすると、ゆっくりと醸成されて、しかし確実に個体ソリッドなものに変化へんげし、陰湿な匂いのする爪で内側から引っ掻いてくる。
「――お前に構いたい人なんているもんか――。みんな行ってしまったんだょ」
 たまらなくなって私は息を吸った。目を固く閉じて、この見知らぬ街の乾いた空気を、満月の夜の魔法の溶けた蒼い空気を、肺の奥まで吸い込んで、助けを求めた。
 ――駄目です。――守って下さい――。
 それはいつからか自分で編み出した、あの夜露から逃れる方法だった。追い詰められたあげくに苦しまぎれに出てきた文句で、実際誰に助けを求めているのかわからないのだが、不思議なことに、そうすると夜露の凝固するのを止めることができた。夜露はいくらか気まずそうに引き下がり、そぞろに空気中に霧散していくのだった。
 悪意の露が去ってからしばらくして、落ち着くことのできた私は静かに目を開けた。
 目の前にはさっきと同じように、日干し煉瓦でできた高層の建物が犇いていた。そしてあいかわらず街じゅうはシーンと静まり返っている。向かいの窓も、もう少し身を乗り出せば覗けそうなくらいなのに、なかは真っ暗で何も見えない。人がいるという気配さえしない。
 そのときだった。
 静止画のように微動だにしなかった光景のなかで、突然何かが動いた。私はそれを目の端でとらえた。
 正面の建物の右隣の二件、その建物と建物のあいだから、ぬっと黒い物体が出てきた。月明かりが建物を斜めに照らしてちょうど濃い影になった路地から現れたそれは、まるで暗闇の一部が切り取られて分離したかのようだった。
 私は身を乗り出した。目を凝らして見ると、それは女性の人影のように見えた。こちらには気づかない様子で、道を滑るように音もなく歩いてくる。漆黒のマントのような布が、月明かりに照らされてところどころ白く光った。段々とこちらに近づくにつれ、その足取りは取りとめのないものであることがわかってきた。何か目的があって、どこかへ向かって歩いているというのではない。ただ呆然と、魂の抜けたように、体は右に左にかしいで、まるで何かに絶望した人のように、あてもなくうろついているといった感じだった。
 私が見下ろしている窓のあたりまで来ると、その人はふと歩を止めた。私のいるのは遥か上方の五階なのだが、これだけ人気のない、死んだように静まり返った街だ。何か気配を感じたのだろう、その人はいぶかしそうに首をひねりながら顔を上げた。
 ――そのとき目にした光景を、もしかしたら生涯私は忘れないかもしれない。あまりに鮮烈すぎて、そのシーンは、まるで一幅の絵のように、瞬時に脳裏に焼きついてしまった。
 私のほうを見上げたその人の顔は、上からすっぽり被った頭巾で覆われていた。両耳を隠し顎から下も緊密に塞いである黒装束は、唯一晒しているその人の顔を、幻のように夜のなかに浮かび上がらせた。……だが、実際に浮かんだのは顔ではなかった。
 ―――その女性は、漆黒の肌を持っていた。
 いままでの人生で、これほど黒い肌の人を私は見たことがない。それは、彼女の黒装束に溶け込み、一瞬顔の部分も影に包まれているのではと見紛みまごうばかりだった。そのせいで彼女は顔のない人間のようにさえ見えるところだったが、しかし、それをかろうじて防いでいたものがあった。
 眼だ。彼女の大きな印象的な眼が、そのときちょうど中空に達した月の明かりを反射して、きらりと光ったのだった。中央の丸い瞳は少しグレーがかって、白目の部分と同様に、月から降り注ぐ滋養を存分に吸った証のような、とろりとした透明な膜がかかっている。闇に沈んだような顔の真んなかで、その二つの眼は明らかな異彩を放っていた。
「何て美しい……」
 思わず私はそう呟いた。むろん、この距離では彼女には聞こえなかっただろうけれど。
 ……月光を浴び続けるにつれ、上層階を見上げる彼女の上に、今度は月から滴り落ちる冷たい陰気がどんどん溜まっていった。彼女の眼のなかには、最初のときにはなかった哀しみのようなものが、段々と滲み始めたように見えた。澄明な膜に覆われていた瞳はやがて陰鬱な青味を帯びるようになり、しまいには泣き出してしまいそうな、それともすがるような、どうにも掴みにくい表情が表れた。
 ――とても長い時間が経ったように感じられたが、実際のところはどうだったのか? 私には計りようもなかった。この、時がその歩みを止めてしまったような不思議な街で、漆黒のプールに浮かぶこの世のものとは思えないほどの美しい眼を、私はただただ見つめていた。
 その女性が顔を戻し、再びまったくの黒のなかに沈み込んでベールをひらめかせながら前の路地を通り過ぎていくのを、私は黙って見送った。
 女性の姿が見えなくなると、私は室内のほうへ振り返った。月光はいまも皓皓と部屋のなかを照らしている。
 突然、私は自分がひどく空腹であることに気がついた。
 低い箪笥の上には、バナナが置いてあった。それは昼間見たときと一ミリもたが)わず、こちらに背を向けて横たわる死人のように、引き続き静寂を担っていた。
 私はその一本に手を伸ばした。大ぶりなバナナで、手に取ってみると意外にずしりと重い。熟れて間もないもののようで、黄色い滑らかな肌の上にはまだ黒い斑点も出ていない。手のひらに果皮の冷たさとその厚みを同時に感じた。
 ゆっくりと皮を剥くと、懐かしい南国の香りがした。なかから現れた白い果肉は、いまだこの部屋に充満する月の光、色、引力といった様々な魔法のせいで、ますます白く妖しい光を放った。
 この幻惑するような果実を、私は少しずつ口に入れた。小さく噛み取られた白い塊は、私の体内へ続く最初の関門である口のなかで、唾液と混じり合い、悦びのダンスを踊った。それらはお互いの出会いに歓喜して、ひと噛みするごとに目には見えない小さな火花が交錯するような勢いで、素晴らしいハーモニーを形作った。
 バナナを食べ終え、水差しからグラスに水を注いで飲むと、少しずつ眠気が訪れた。私は再びベッドに横になり、月明かりを浴びながら眼を閉じた。

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