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【長編小説】 抑留者 1

  薄暗い土間に入っていくと、上がりがまちのところに決まってじいちゃんは座っていた。入り口とは反対側の左手に、自分の体に隠すように、焼酎の一升瓶を抱えている。
「じいちゃん」
 と涼太は声をかける。焼酎の瓶のことについては何も言わない。じいちゃんが暗がりのなかで顔を上げるのを待って、続ける。
「母ちゃんが、芋持っていけって」
 ――涼太はじいちゃんの曾孫であるが、いちいち〝ひいじいちゃん〟と呼ぶのは面倒なので、便宜上〝じいちゃん〟と呼ぶことにしている。実際の祖父、本来〝じいちゃん〟と呼ぶべき存在がいないというのも理由のひとつだった。涼太の家には、祖父祖母の世代が丸ごと欠けている。〝じいちゃん〟のひとり息子であったたけるは涼太が生まれる前に、妻と一緒に漁に出て、夫婦ともども帰らぬ人となっていた。
 薄暗がりのなかに声をかけながら、涼太は少し怖じ気づいている。じいちゃんの機嫌が今日はどうかとうかがっているのだ。その日その日によって、じいちゃんの気分は違った。天気にも影響されたし、潮の満ち引きとも関係があった。その日の浦の空気の澄み具合にも左右されたし、あとは風向きやその日のじいちゃんの夢見なども絡んでくるので、確かにそれは予測不能であった。梅雨どきの太陽の光に恵まれない時期や、冬の朝のあまりにも寒い時間帯は、じいちゃんは特に機嫌が悪かった。長年の船乗りや何かで痛めた神経痛が痛むからである。そしてそんなときは自然と酒の量が増えているので、母親も子どもを近寄らせないのだった。
 どうやら今日はじいちゃんの機嫌が悪いらしいと見て取った涼太は、ふかした芋を板間の端に置くと、あとずさるようにして小屋から出ていった。気分のいいときは穏やかでことのほか優しいじいちゃんだが、こんな様子の日は相手が誰だろうと口をききたがらないということをよく知っているからだった。
 小屋を出ると、涼太は母屋に向かって走った。その建物は、背ノ平山を後ろに背負った藪に囲まれた土地にあるじいちゃんの掘っ立て小屋から歩いて一分ほどの、県道沿いにある。昔ながらの木造の日本家屋で、大きな屋根の二階建ての本棟と、あとから建て増しした平屋の分棟に分かれている。本棟には涼太と両親が、分棟には父親の弟が暮らしていた。本棟と分棟は、屋根付きの内廊下で繋がっていた。
 涼太の父親の名は鉄雄てつお、その弟は尚文なおふみといった。二人兄弟で、兄のほうは生粋の長男気質で小柄な瘠せ形、海の男らしいあっさりした性格で、だがやはり海の男らしく酔うと気が大きくなって大風呂敷を広げたり喧嘩っぱやくなったりする一面もあった。戸井田水産のキンチャク、、、、、に雇われていて、妻と子ひとり――つまり涼太のことだが――を養うのには十分な給金をもらっていた。
 弟はどちらかといえば物静かなほうで、兄よりも身長が高く、山出しそのものといった(ここは海辺の集落なので〝海上がり〟とでも言い替えたほうが適切かもしれないが)ずんぐりとした風体は、スナメリかジュゴンのような水生生物、もしくは気のいい大型犬のようなものを連想させた。学校の成績はよかったので東京の有名大学へ行ったが、浦の人々は皆「あの尚文が東京で通用するんじゃろうか」と心配した。何をするにも一テンポ遅く、人と会話をしても気の利いた返事もできないうすのろと思われていたからだった。その尚文が東京の大学に合格したというだけでも浦では結構なニュースだった。
 ところがその尚文が、社会人になってからものの数年で、自身にはおよそ似つかわしくない女を連れて帰ってきて家族を仰天させた。独楽子こまこという冗談みたいな名前で、絵に描いたような水商売風のその女は、滞在中、、、は何かと浦の人々を落ち着かない気分にさせたものだった。宇宙人、と当時浦の人々が呼んだ独楽子は周囲の度肝を抜くようなチェリーピンクに髪を染め、毎日のようにきゃらきゃらと大きな声で笑っては、ところ構わず煙草を吹かし、ピカピカ光る生地の、浦の人々はついぞ見たこともないデザインのドレスを翻して通りを闊歩しては衆目を集めた。「あらコレ、、か」と近隣の年寄りたちは、人差し指をこめかみの横でぐるぐる回す仕草をしながら、声をひそめて噂したものだった。確かに浦の人々には、その女がまともな人間とはとうてい思えなかった。そして、ああやっぱり尚文がな、あのぼんくらが都会で妙な女に引っかかった、それ見たことか、と噂し合った。
 そんな絶望的な〝ぼんくら〟のせいで、東京で就職した会社では、確かに尚文は苦労した。主に空調設備を扱う中小企業だったが、新卒ということで営業担当に回された尚文は、気の利かない奴、応用力に欠ける使えない人材として早々に目をつけられ、段々と周囲に雑に扱われ始めた。
 その会社で三年ほど頑張ったが、そんな生活に疲弊し切ったころ、独楽子と出会った。大学時代の友人に誘われて参加した合コンでのことだった。女の子たちのなかで独楽子はひと際美人で明るく、そして情が細やかだった。
 独楽子は積極的に尚文に近づき、しきりに尚文の故郷の話を聞きたがった。そして、付き合い始めて数週間が過ぎるころには、「あなたのふるさとで暮らしてみたい」と言い始めた。ちょうど東京を引き上げることを考えていた尚文は、何だか人生の巡り合わせのような気がして、ひとつ返事で独楽子を連れてこの浦に帰ることを決めたのだった。
 大学では機械工学を専攻した尚文だったから、機械全般には詳しかった。実家に帰ってからは、車やバイクなどの修理を頼まれ、細々と収入を得た。その収入を全部、月に一度、独楽子と二人分の食費として家に入れた。到底足りる金額ではなかったが、兄夫婦は取り立てて何も言わず、むしろ温かい目で弟を保護するように家に置いていた。独楽子が積極的に家のなかのことを手伝ったのも助けになっていたのかもしれない。独楽子は料理をしたり家じゅうを掃除したり、面倒な仕事をどんどん片づけていった。
 故郷に戻ってきた尚文には、機械と接しているほうが心安かった。機械は単純で分かりやすい。機械には嘘も駆け引きもない。叩けば素直にいつも決まった音を出す、金属の無機質で率直な性質が好きだった。
 が、それとは裏腹に、尚文は独楽子の性質を愛していた。金属の率直さとは正反対に、複雑でとらえどころのない独楽子は、尚文にとっては制御不能の謎の塊だった。けれど、それと同時に揺るぎない魅力を持っていて、むしろ尚文という人間に決定的に欠けている、情緒という部分を補完してくれる得がたい存在のように思われるのだった。
 母屋の前には、県道を挟んで高浜岸たかはまぎしと呼ばれる海岸があった。一面重たく黒い砂で覆われた砂浜で、ここには昔からなぜか人が近寄らなかった。けれど独楽子はそんなことはお構いなしに、ときどき尚文を二人が暮らす分棟の部屋から引っ張り出しては砂の上を歩いた。それは決まって晴れた日で、海から吹きつける風は強かった。
 ――ワタクシはね、ここに本日このように立って、あなたと海を眺めております。
 独楽子は海原に降り注ぐ光の反射に目を細めながらこう言った。尚文を楽しませるとき、独楽子はいつもおどけてこういう芝居がかった大仰な言葉遣いをするのだった。
 ――ワタクシは、もう二度と来ないかもしれないこのトクベツな時間を、まさに今、このココロに刻んでおこうと思うのでございます。
 そして尚文の目の前でスカートをはためかせてくるりと回った。 
 ――いい女だった、と尚文は思う。出会ったときからその行状ははなはだ胡散臭く、ときにその場しのぎの見え見えの嘘をつくこともある女だったが、いかに人を騙そうと、いかにだらしなくいい加減であろうと不実であろうと、独楽子は尚文の心を捉えて放さないのだった。
 その独楽子が二年間の〝滞在〟を終えて、突然東京へ去っていってしまってから、もう五年になる。独楽子が去ったとき、「それ見よ、捨てられた」と言った浦の人々は、ようやくほっと息をついたものだった。それ以来、尚文はずっと母屋の分棟で暮らし続けている。

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