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飲み会という名のオーディション

◆自意識について

人から自分がどう見られているかを気にすることを「自意識」というが、自意識がつよすぎると、どうしたって人との会話が楽しめない。

たとえば、「仕事の飲み会がたのしくない」という話題に対しても、
・【自意識がよわい人】「どうしたら飲み会が楽しくなるかな~」
・【自意識がつよい人】「どうしたら相手に気に入ってもらえるかな~」
なんて、まったく違う観点から話をしている。

自意識過剰な私は、友人との遊びだって、仕事の飲み会だって、常に ”オーディション” を受けているような感じがする。
まわりの人たちは審査員で、自分の一挙手一投足をジャッジメントされているような感覚。

飲み会も遊びも、4人以上になると、帰るころにはもうぐったりしている。審査員の人数が増えれば増えるほど、緊張感が増すのと同じである。
誰の好みに合わせてパフォーマンスしたらいいのだろう?
いつのまにかそんなことを考えている。

それに対して、自意識がよわい人は、常に主人公のようでうらやましい。
きっとその ”オーディション” すらも、「どんなパフォーマンスをしたら楽しいかな?」なんて考えている。


この違いに気づけなかった自分は、これまでずっと不思議だった。
・どうしてみんな、そんなに人と会いたがるのか?
<<だってオーディションなんて緊張するだけじゃん!>>
・どうしてみんな大人数で会いたがるの?
<<だって審査員ふえるだけじゃん!>>

こんな感覚をずっともっていた。

でも。きっと中には、ほんとうにジャッジメントしているような人もいて。
自分にとって”都合のいい人”を口を大きく開けて待っている人もいる。

純粋に、人と人とのつながりを楽しんでいた過去の自分は、
そんな人に出会うたびに、びっくりしてしまって、
そんな人を見抜けなくなってしまって、
怯えているのかもしれないなって。

オーディションなんだとしたら。
どんなオーディションを受けるのか、自分にだって選択する権利はあると思う。
どんな人にだったら、ジャッジメントされたいか。
憧れの人には、点数をつけてもらえたら、それだけで嬉しいかも。
そんな風に、審査員を選ぶ権利も、きっとある。
オーディションを受けることが目的になって、辛くなって、自分が嫌いになるくらいなら。
受けたいオーディションが開催されるまで、待ってみてもいいんじゃないかな。

そんなことをふと考えた、晴れた日のカフェにて。
昨日はひさびさに大学時代の知り合いたちに合って、嬉しい気持ちもありながら、ちょっぴり疲れてしまった。
残りのGWも無理せず、楽しんでいこ~っと。


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