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余白の時間

居場所作りが叫ばれている昨今。

「居場所」とはなんだろう。
そう考えた時に色々思い出したことがある。

小学校の時、疲れて友達に対して笑顔が作れなさそうな時、
私は「保健室に行ってくる」と言って
教材室に隠れていた。

中学校の時、椅子に座るのがしんどくて
図書室で手塚治虫の火の鳥、ブッダを全巻3回読んだ。
図書室の先生は「意外と本を読む人なのね」って静かに見守ってくれた。

高校時代、全てに嫌気がさして保健室登校していた。
1年生の時の保健の先生は「熱がないなら戻りなさい」
って言われたけど2年生になっての先生は何も言わずに
何時間も居させてくれた。

私は一見、活動的に見える。
多分、元気な子というイメージだ。
よく喋るし。


でもどちらかといえば、ひとりで本を読み
こうやってPCに向かって文章を書いている時間の方が自分らしいなと思う。




ここまで文章を読んで
私は居場所がなかった無理してた子に見えますか?




実際は教材室で地球儀や昔の社会資料集を見るのは楽しかったし、
手塚治虫のブッタや火の鳥の哲学には感動したし
保健室でずっとヨットレースのことを考えていて、
それで勝てた時に高揚は今でも覚えている。


しんどいなー
と思って逃げた先に面白いものが結構あった。


「元気で活動的」な私の方が評価されているのはわかっていた。


でも私的にはそれはアウトプットの私であって
教材室で休憩し、
図書室で本を読み、
保健室で想像する時間があったからこその

「アウトプットしている自分」

があるのだ。

「インプット」ばかりでも
「アウトプット」ばかりでも

バランスは取れない

だから
アフタースクールには
余白の時間を作った。



その時には
その効果はわからない


だって
それは数値化もできないし
評価もできない

もはやそれはしたくない。


この加速している時代で

「余白の時間」

がこども時代にあった


と思い出すだけ
きっとこのアフタースクールに通ってきてくれた
大人になったこどもたちは何かに気づくと思う。


私の居場所づくり
それは
「静かな高揚の空間」を守ること。