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龍の鱗、浮遊感、うたうおばけ

巨大な龍の鱗みたいに光を大胆に反射して、夜の海はまるで大きな一つの生き物みたいだった。

そもそも昨日は、ゴールデン・ウィーク中にやろうと思っていた連絡事項とか、考え事だとかにそろそろケリをつける、決戦の日の予定だった。けれど朝から胃痛で起きる。最悪の幸先で、頭も変にいたい。やる事はやるぞ、という気持ちまでを、こんな体調のせいでなくしてしまってはいけないと思って、せめて好きな場所まで行って、そこでやろうじゃないか、と考えた。

最初に思いついたのは、京王多摩センターとか、聖蹟桜ヶ丘とか、そこら辺、多摩市のあたり。できた当時はワクワクしたんだろうな、と考えてワクワクするような駅前の、個性的な形の建築物の窪みにあるような喫茶店。けれどそもそもの最寄り駅に向かうまでのバスがあまりにも長く、いく事自体が面倒になってきた。

「おんなじ格好でおんなじ顔で君のことを探せない 冷たい風と一緒に、吸い込んだ煙が寂しい」

すこし前から虫食い状態で聴いているアルバムを、最初から通しで聴く。穏やかな街並みがゆったりと移り変わる景色に怠惰を覚えながら、感情の抜け道を暖かな水が流れるように、ふとした瞬間に「うわぁ」と感動する。

ふと、友達が海にいきたいと言っていたのを思い出して、そんじゃ鎌倉くらいまで行こうかな、となんとなく思う。「くる?夕暮れでも見て帰ろうかと」と打つと「夕暮れ後ならいける」という事で、わたしは夜までまっていようとなんとなく思った。ここら辺ですでに「今日でケリをつけるぞ」という感覚は明後日の方向へ消えかけていたのだけれど、夜まで時間ができた事で、「そっか、じゃあ、やろう」という気持ちになる。Twitterかなんかで、時間があっても、時間制限がないと動けない、みたいな文言を見かけたけれど、そんな感じだ。

藤沢に向かう途中、知らない名前の駅で降りると、まさに家を出た時に求めていた多摩市って感じの駅で、駅前を彩る(彩っていた)奇妙な形の建築物、中に入れば寂れかけたゲームセンターがあって、あんまりおいしくないイタリアンとかが入っているレストラン街があって、わたしはタリーズに入ってテラス席でようやっとパソコンを開く。お手洗いに向かうと、途中細い道には子供教室の看板や団地の同好会の張り紙があって、個室トイレに入ると拙く張り上げるアイドルの声が妙に大人びた歌詞を歌っているのが聴こえた。

「はしたないなあ」喫煙所で街を眺めているとき、なんとなく思う。わたしの今日の誘い方、それってとてもわがままで、一人っ子丸出しで、でもそういう事って今までにたくさんあって、仲の良い友達はそういう身勝手な誘いにも結構、喜んできてくれる。わたしは結局のところ、友達に恵まれすぎていて、でもだからこそ、こうして時折自分のはしたなさばかりが目についてしまう。

一通りやることを終えて、というか、終える目星がついて、場所を移動する。藤沢。映像作品を監督した時に何度もロケハンで行ったので、すっかり馴染みの土地になっている、というと言い過ぎかもしれないけれど、なんとなく街の配置はわかるようになってきていた。まだかなり時間があって、再び喫茶店に入って連絡事項の続き、それを終えても全然時間はあって、駅のロッカーに荷物を全部預けて、生身の札と携帯だけ持って街を歩いた。旅行中の散歩みたいでなんだか楽しい。カラオケがやっていると気がついて、時間潰しに初めて行ってみるかね、一人カラオケ、と張り切るが、たくさんの若者が受付へ出てきた時、とてつもなく場違いな気がしてヌルッと外にでた。

夕暮れは呆れるほど長く、意味もなく江ノ電に乗って数駅過ごす。わたしは自分の中でかなり良くないと思う癖があって、それが安心すると寝てしまう癖。だからお酒の場とか、親しい人との旅行先とか、「楽しもう!」っていう気持ちよりずっと強烈に、「よかった…」という安堵と眠気が先行して、気がついたらうとうとしている。その時の感じで、夕暮れ時、海へ向かう川とそれ伝いの電灯の明かりをぼんやりと眺めながら、身体の体温があったまっていき、うとうととし始めていた。そろそろ折り返せばちょうど待ち合わせ時刻かな、という所で電車をおり、またホームで夕暮れを眺めながらうとうとする。夕暮れはかわいらしいカクテルみたいに、綺麗に薄オレンジと濃い青で分かれていた。

友達と人混みに逆らって、江ノ島へ。江ノ島のデートは失敗しやすい、という話で一通り盛り上がって楽しい。階段をのぼるのはさすがに面倒で、入り口をすこしみてすぐ折り返す。江ノ島を繋ぐ橋の上は、波打つ音が近くに聴こえて、覗くと飲み込まれそうなほど、波がうねっている。見上げれば遠くには蜃気楼のようにぼやけた街明かりが緩やかに点滅していて、妙な浮遊感のある夜あった。

海辺沿いを眺めながら鎌倉高校前まで歩く。以前来た時より電光掲示板があり、新しくなっていた。決して何があったというわけでもなければ、道中の会話を思い出せるわけでもないけれど、それなりに時間がたっている。夜の海にいくなんて、心中や逃避行みたいだけれど驚くほどにわたしたちはその暗闇に足を踏み入れずに、遠くからうねりを眺めているばかりで、その距離感がいまのわたしにとってはとてもよかった。

ひとりになった後、くどうれいんさんの「うたうおばけ」を電車の中で読んで、何回か泣きながら笑った。この人が文章を書いてくれて本当に嬉しい、と強く思う。全く知らない他人で、わたしみたいな奴が何をえらそうに、って、ほんとうにそうなんだけれど、ありがとう、嬉しい、ってずっと思いながらページをめくっていた。

小説を書いてもままならず、やりたいことを見定めるのを諦めて仕事について、社会の歯車の中でどうにか役割を果たす毎日の中、noteを書こうと思い立ったのもくどうれいんさんのエッセイがきっかけだった。この間75個の記事を書いた記念バッジみたいなのが表示されて、もう75日も書き続けているんだと初めて気が付く。気づけば生活の一部になっていて、書くことが当たり前になっていて、その文章がうまいとか下手だとか、意味がよくわからないとか本当に今はどうでもいい。生活の中にこうして何かを書ける場所を作れたこと、毎日に泣いたり、笑ったり、泣きながら笑ったりする時間を作れたことがどれだけのことか。

最寄り駅まで後数駅というところ、「おもしろかった」と友達からLINEが届いている。Instagramを開くと友達が弾き語りのライブをしている。日中に連絡した人たちから好意的なメールが届いている。「よかった…」と思って急激に眠気が襲ってきた。憂鬱を風が吹き抜けたような、そんな日だった。


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