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(4) 【ベッシー・ヘッドとは誰か】アパルトヘイト下に生まれて(南アフリカ編③):ジャーナリズムと政治活動、そしてボツワナへ

ダーバンでの教職の仕事を辞め、あてもなく単身ケープタウンへ向かった若干21歳のベッシー・アメリア・エメリー(ベッシー・ヘッド)。このケープタウンへの旅は、彼女の人生で次のフェーズとつながっていく大きな意味のあるものであった。やがてベッシーはジャーナリストになり、同じジャーナリストのハロルド・ヘッドと出会って結婚する。しかしその後、幼い息子と二人で南アフリカへの帰国が二度と許されない出国許可証のみを手にボツワナに亡命する。この旅こそが、ベッシー・ヘッドの人生の中でもっともドラマティックであり最大の転機であった。ベッシー・ヘッドは、亡くなるまで南アフリカへ足を踏み入れることはなかった。

1. ひとり、ケープタウンへ

頼る先もお金もないままにケープタウンにやってきた若き日のベッシー・エメリー。ケープタウンは東海岸のダーバンと違い、最初の白人による開拓地として古きヨーロッパの雰囲気を残す都会であった。1652年にオランダ系移民による入植がはじまり、オランダ船の東インド航路(インドネシア、日本)の中継地点の供給地となる。その後、ケープは定住地としても拡大し、定住者は現在のオランダ系白人(アフリカーナー)の祖先となっていく。

ベッシー・ヘッドの伝記の著者であるG.S.アイラーセンによると、1958年ケープタウンに到着したベッシー・アメリア・エメリー(ベッシー・ヘッド)は、District SixのStakesby Lewis Hostelに滞在したとされている。1867年にDistrict Sixと名付けられたその地域は、解放奴隷や移民、多様な職人などが集うコミュニティで、第二次世界大戦後は主にカラードやケープ・マレーと呼ばれるマレー系移民、イスラム系カラード等の人口を多く抱えていた一大コミュニティであった。しかし、1950年の集団地域法(Group Areas Act)に基づき、居住地域が人種別に分けられるようになると、その後1966年にDistrict Sixは白人居住地域と指定され1968年からそれまでの非白人系住民は強制退去をさせられることになってしまう。

これまでダーバンでカラードとして生きてきたベッシーにとって、まるで環境が違うケープタウンでの生活が、彼女にとって初めてこれまでよりもリアルな政治性に目覚めるきっかけに繋がっていったといえる。アパルトヘイト社会の中で特権はいつも白人とともにあり、東海岸のダーバンでカラードは「白人に近い人々」としての立場をある意味守ろうとしていた。しかし、ケープタウンではもともとのケープカラードの人口が多く、人々はより政治的でより権利を求めて戦っている状態だったといわれる。このことで、ベッシーはこれまで以上に深くアパルトヘイトの荒波に巻き込まれていくようになる。この環境がさらに彼女の中の政治観の形成に強い影響を与えていったことは当然のことであった。

Stakesby Lewis Hostelの管理人に、レポーターとしての仕事が欲しいのならDrum(エンターテインメント誌)とGolden City Post*(黒人向けタブロイド紙)へ行くように言われたベッシーは、ケープタウンに到着した翌日すぐにGolden City Postの編集長Dennis Kileyに会いに行った。Kileyはベッシーに、フリーランスレポーターとして裁判所へ通い人間的興味の観点から記事を書く仕事を与えている。こうして初めてのレポーターとしての一歩を踏み出したベッシーであったが、経済的には依然として厳しく編集長のKileyに支援してもらったり、滞在先の支払いを待ってもらったりしていたという。養母のネリー・ヒースコートは頼れず、母親代わりのマーガレット・カドモアに手紙で近況を報告し支援を求めたという。その後、カドモアが直接Kileyに手紙を書いたことも手伝い、ベッシーは3ヶ月の試用期間を経てスタッフ・レポーターとしてGolden City Post紙に採用されることになる。

レポーターとして多くの人と出会うことは、ベッシーにとってこれまで知らなかった世界を大きく広げることでもあった。ケープタウンで出会う人々の政治意識や肌の色による階級意識など、多くのことが彼女にとってある意味衝撃的で、人々の生き方を観察する目を養うため、ひいては南アフリカという国のリアリティを見るための貴重な経験となっていった。同時に、多くの壁に直面し苦労をしたこの時期は、ベッシーにとってあまり幸せな時期ではなかったことも事実である。(何年も経ってからこの時期は辛かったと振り返る記述をしている)のちに、ベッシーはジャーナリストとして暮らしたこの時期のことを最初の長編小説The Cardinalsとして書いている。この小説は、のちに発表された長編小説よりもさらにあと、ベッシーが亡くなってから90年代に入ってようやく出版されることになる。

注*Golden City Postは、地域によって対象読者層が違い、ヨハネスブルグではアフリカ人(黒人)向け、ダーバンではインド系向け、ケープタウンではケープカラード向けであった。

2. ヨハネスブルグとパン・アフリカニズムとの関わり

1959年4月ベッシー・エメリーはケープタウンを去りヨハネスブルグへ行くことを決める。ヨハネスブルグのGolden City Postでレポーターとしての仕事のチャンスがあったためだ。反アパルトヘイト運動が激しくなり、各地で多くの命が失われる出来事が起きる激動の時期でもあった。Golden City Postの週末タブロイド紙Home Postに配属されたベッシーは、"Dear Gang"というタイトルのニュースレターと"Hiya Teenagers"というタイトルのアドバイスコラムを担当し始める。読者の反響もよく人気は上々だったようだ。

ヨハネスブルグに移ってからしばらくして、一度ピーターマリッツブルグの養母ネリー・ヒースコートのもとに戻ったベッシーだったが、これが彼女にとって最後の訪問となってしまった。その直後にネリーは亡くなり、姪のベロニカ・サミュエルズとも連絡が取れなくなってしまう。

この時期はアパルトヘイトの歴史における激動の時期でもあった。1950年代から反アパルトヘイト闘争は激化し、南アフリカ各地で多くの命が失われる事件が起きていた。1955年、南アフリカはそこに住む全人種のものであるとする自由憲章(Freedom Charter)がアフリカ民族会議(ANC)、南アフリカ・インド人会議(SAIC)、South African Coloured People's Congress他により採択され、人種を超えたものとしての反アパルトヘイト闘争を求める機運が高まっていた。その一方で、ANC内部では自らをアフリカニストと呼び「アフリカ人のためのアフリカ」を主張する人々が声を上げつつあった。ANCは人種を超えた同盟を主張したが、パンアフリカニスト(*)にとって反アパルトヘイト闘争とは黒人のための黒人による闘争であるという声が強くなっていった。やがてこれが1959年、ANCからのパンアフリカニスト会議(PAC)の分離独立に繋がっていく。PACの代表ロバート・ソブクウェのこの主張は大きな議論を呼び、とりわけ反アパルトヘイトを主張していた白人や「非黒人」層にとっては、素直に受け入れがたいものでもあった。しかし、のちにPACは主張を変え、アフリカを故郷(home)と認めているものはアフリカ人として認めると発表しさらに混乱を招くことになった。

PACの代表ロバート・ソブクウェはベッシーにとってこの時期に出会った重要な人物のひとりである。闘争はアフリカ人(黒人)のものであるとしているPACに何故「カラード」のベッシーが関わっていったのか。このヨハネスブルグにおけるPACとの関係が、ベッシー・エメリーが政治的になっていく大きな転換点であったことは間違いない。

1959年5月、PACは「アフリカ人」の定義にカラードを含めると発表した。カラードもまた白人による抑圧に苦しんできた人々だからということだ。このことが、ベッシーのPACの活動へ参加するきっかけのひとつになったと考えられている。ベッシーにとってPACが主張する内容には共感と重要な意味の両側面があり、この政治活動への関与は彼女がより政治的になっていくきっかけにもなった。ヨハネスブルグに移ったばかりのことであった。

パンアフリカニズムはまた、のちのベッシー・ヘッド作品に大きな影響を与えている。「カラード」とは元来ケープ植民地で女性が少なかったため、オランダ人が奴隷として連れてこられた先住民のコイコイ人やマレー系の女性と結婚して生まれた子どもたちの子孫であり、アパルトヘイト下の南アフリカを構成する人種グループのひとつとされてきたものである。「カラード」として生きてきたベッシーは、厳密に言えばこのグループに入らないことになる。さらに、PACによる「アフリカ人」の定義の揺れに対しても、ベッシーは自らの「属性」(厳密には政治的に作られたグループである)をどう捉えるかを常に考え敏感になっていたであろう。この経験は、彼女の中で常に自らのアイデンティティを問い続ける人生をかけた旅路の出発点ともなっている。

注*アフリカ大陸のアフリカ人および世界中のアフリカ系の人々の連隊を呼びかけるパンアフリカニズムは、アフリカ諸国独立気運の上昇と結びつき南アフリカにとっては反アパルトヘイト活動家によってうたわれることとなった。

3. シャープビルの虐殺事件とソブクウェの逮捕

1960年3月、ベッシーはPAC代表のロバート・ソブクウェと出会っている。

この時期、ANCは1960年3月31日に大規模な「パス法」へのキャンペーンを計画していた。「パス法」とは、南アフリカ政府が1952年に成立させた法律で、国内に居住する18歳以上の黒人男性、のちに女性全員に対し身分証(パス)の携帯を義務付けるものであり、まさに人種隔離政策の強化を図る法律であった。ANCから分離独立し、主義主張の不一致が明確であったPACは、このキャンペーンが予定されていた10日前である1960年3月21日に抗議行動を実行に移してしまう。この日、ヨハネスブルグ郊外のシャープビル警察署前で数千人がパスを携帯せずに抗議行動を起こすこととなる。これが、シャープビルの虐殺事件に繋がった。

シャープビルのオーランド警察署前での抗議行動に集まった人々に対し、当局は再三に渡り解散を求めたという。だが、解散することのなかった群衆に警察は発砲する。これにより69名が命を落とし180名以上が負傷する事態となってしまった。そして、この事件を境に南アフリカのアパルトヘイトの歴史は新たな局面へと展開していくことになる。この後、ANCとPACが活動禁止となってしまったことに伴い情勢は混乱し、多くの逮捕者が出て政府は複数の地域で非常事態宣言を発出することになる。

ベッシーはこの日、シャープビルにいてソブクウェの逮捕も目撃しているが、ベッシー自身は虐殺事件が起きる前に帰宅していたとされる。PACの中心人物であったソブクウェにとって当時のベッシーとの出会いは印象的だったようで、12年後に彼女がソブクウェに手紙を書いた際も、彼女のことをよく覚えていると返事をしている。以下は、ソブクウェによる返信の抜粋である。時が経ち、当時のことを振り返って自らの活動が「人種主義的」な側面もあったと明確に書かれている。

初めて会ったとき、あなたは聡明で懐疑的でもありました。多くの有識者たちがそうであったように我々が提唱したアフリカ主義(Africanism)に疑念を持っていました。当時のアフリカ主義は、一部人種主義的な含意もあったと認めざるを得ないでしょう。(Letter from Robert Sobukwe, KMM372 BHP, 20.4.1972)

1960年代当時、PACに関わっていたベッシー・エメリーの活動に関する資料は多く残されておらず詳細が不明な部分もある。またこの時期にベッシーの身に起きた様々な事件についても、詳細は断片的であり(筆者が現時点までに入手している資料には限りがある)のちに彼女が書いた文章が示唆することを想像するしかない。

だが、明白なのはこの時期の政治的活動とプライベートでの出来事の数々が彼女の神経にプレッシャーを与えたということであろう。ベッシーは1960年4月に睡眠薬自殺を試みたという。(G.S. アイラーセン"Thunder Behind Her Ears”による)この時期におけるベッシーの心の深い葛藤については、安易な解釈を加えずそのままにしておくことにしたい。

この後、ベッシーはヨハネスブルグを去りケープタウンへと戻っていく。

4. 再びケープタウンへ~ハロルド・ヘッドとの出会い

精神的な多くのプレッシャーを経て、ベッシーはGolden City Postで働くこととなり再びケープタウンへと向かった。District Sixに舞い戻ったベッシーは、唯一のカラード女性ジャーナリストとして名前を知られており、このころアフリカニストを支持する両面ガリ版刷り一枚のペーパー"The Citizen"を自ら製作し、Stakesby Lewis Hostelで配っていたという。Stakesby Lewis Hostelにはのちに名前を広く知られるようになる作家やジャーナリストが集まっていた。1961年7月、ベッシーはそこでプレトリアから到着したばかりの24歳の青年ハロルド・ヘッドと出会うことになる。彼は自由党(Liberal Party)のメンバーで、ちょうどベッシーと同い年の好青年であった。二人はよく顔を合わせるようになった。

当時コミュニティセンターの管理人の仕事をしていたハロルドとベッシーはその後、恋に落ちる。その年の9月に、二人はケープタウン郊外のサイモンズタウンで結婚した。そして翌1962年5月15日に息子のハワード・ヘッドが誕生する。

同時期にハロルド・ヘッドと近しい関係にあった活動家であり南アフリカ自由党メンバーのRandolph Vigneが共同創始者となったジャーナル誌New Africanが創刊され、ハロルドの執筆した記事が掲載されるようになった。

その後、1962年7月にはベッシーの最初の寄稿である"Things I Don't Like"がNew Africanに掲載された。アパルトヘイトの闇に生きる「黒人」の激しく深い怒りと時代の混沌を表した強烈な一編の詩であった。

I am Black.
Okay?
Hot sun and the geographical set-up
Made me Black;
And through my skin
A lot of things happen to me
THAT I DON'T LIKE.
And I wake each morning
Red murder in my eyes
'Cause some crook's robbed me again,
Taken what little I had right out of my hands
With the whole world standing by
And doing nothing...
Okay?
(Head, Bessie "Things I don't like", The New African 1.7 (1962): 10)

なお、この作品については詩のリズムと語調の強さが非常に際立っているため安易に和訳することは控えたい。

上記の詩をはじめ、同時期に書かれたいくつかのエッセイには、当時の彼女の世界に対する内面的な怒りや強い感情がはっきりと表れている。(*)アパルトヘイト下で彼女のアイデンティティや政治観に対して強く暴力的な力が働きかけられ、彼女自身にとって苦しい時期でもあった。同時に、自分が舞い戻ってきたケープタウンのDistrict Sixはベッシーにとって初めてコミュニティ意識を醸成させてくれるような人々とのつながりができた場所でもあった。

それまで生きてきたなかで、血のつながった家族もなく自らのアイデンティティを問い続けてきたベッシーにとって、お互いのプライベートまでよく知るようなDistrict Sixの人々の近さが、コミュニティへの帰属を感じさせる初めての場所でもあったとも考えられるだろう。

1961年から62年にかけて、ベッシーは新聞社で働く若い女性を主人公にした長編小説"The Cardinals"を書いている。ここにベッシーのコミュニティに対する意識やそれまでの人生の中で不在であった父親像にも触れられているが、この作品についてはのちに考察することとしたい。この作品はベッシーの亡くなったあと1993年に出版された。

注*作家ベッシー・ヘッドの残したエッセイには小説よりもビビッドにそれぞれの時期の情勢や人々の感情、彼女自身の解釈が現れている。ベッシーの死後、1990年に出版されたクレイグ・マッケンジーによるベッシーのエッセイ集には多くの美しく秀逸な作品が収録され、現代社会にも重要なメッセージを伝えている。Craig MacKenzie, "BESSIE HEAD, A Woman Alone: Autobiographical writings", 1990を参照されたい。(日本語未訳)

5. ポートエリザベスへ

1962年、ハロルド・ヘッドは日刊Evening Post紙の仕事に就くことになり、ベッシーと幼いハワードとともに東海岸のポートエリザベスに移り住んだ。この時期、ケープタウンでベッシーとハロルドが知り合った詩人のデニス・ブルータスは政治活動のため政府からバン(活動禁止)を受けポートエリザベスの自宅にいた。彼はスポーツにおける人種差別撤廃に心を砕いており、南アフリカオリンピック委員会の長であるアイラ・エメリーと交渉をしている。このエメリーという人物は、もちろんベッシーの生みの母親であるベッシー・アメリア・エメリー(Toby)の元夫であった。この時、ベッシーは奇しくも自分のルーツを知る手がかりとなる生みの母の元夫であり、自分の名をもらったエメリーという人物の近くにいたことになる。しかし、ここで自らの出自のことや母親のことについて、ベッシーはついに知ることがなかった。その後、1964年に南アフリカはオリンピックへの参加が禁止されてしまうこととなる。

そうして1964年、ハロルドがケープタウンのContact紙のエディターになることとなり家族はケープタウンに戻ることとなった。

6. 二度と帰国を許さない出国許可証を手にボツワナへ

ベッシーとハロルドの結婚は、決して幸せなものではなかった。ベッシーは度々このことを書いているが、ハロルドとの関係はこの頃すでに良いものではなく、ベッシーにとっても精神的に沈む時期であっただろう。

わたしの夫ハロルド・ヘッドはわたしの周りに誰もいなかったときに現れました。わたしは、もう結婚したり子どもを産んだりということはないだろうと思い始めていました。ハロルドは、ちょうどわたしがそうしたいと思っていたときに来たのだと思います。彼は本好きに見えました。知的な生き方です。だから結婚を承諾し、それ以来わたしはずっとそのことを後悔しているのです。
(Jean Marquand, London Magazine, 1978/1979, p.51)

1962年8月にはネルソン・マンデラが逮捕される。さらに身近だったデニス・ブルータスや多くの活動家が逮捕され、この時期はベッシーにとって南アフリカという国への嫌悪と悲しみとが重なるもう一つの辛いときとなってしまった。

一時期、プレトリア郊外のAtteridgevilleに住む義母の元に身を寄せたベッシーであったが、義母との仲も次第にうまくいかなくなり、ベッシーはアパルトヘイトでますます非人道的な状況になっていた南アフリカを去ることを考え始めていた。

ベッシーはケープタウンで顔見知りだった詩人のパトリック・カリナン(*)に手紙を書き、どこかアフリカの国で教師の職はないかと尋ねている。それまでハロルドとともに家族で国を出ることを話し合っていたが、結婚についてすでに幸せではなかったこと、そして自由な国で行き自らの執筆活動へのインスピレーションを得たいと願った彼女は、カリナンに助けを求めたのだ。パトリック・カリナンと妻のウェンディはすぐさまベッシーの手紙に返信しベッシーの力になると伝えた。

南アフリカ政府はベッシー・ヘッドのパスポート申請を却下した。大きな理由は彼女が一時期PACの活動に関わっていたことにあった。パスポートが許可されなくとも、出国許可証を得ることができると知ったベッシーは、カリナンの助けを得て出国許可証を入手する。これはつまり、二度と南アフリカへの帰国が許されないということでもあった。

ボツワナ(当時は英国保護領ベチュアナランド)の中東部に位置するセロウェという村に教師の職があると知ったベッシーは、地図帳を取り出して聞いたこともなかった未知なる場所セロウェを調べた。

そしてとうとう1964年3月、出国許可証を手にまだ2歳にもならなかった幼い息子ハワードを連れ、南アフリカを去ったのであった。これが、カリナンに助けを求める手紙を書いてからわずか約1ヶ月半後に起きた人生の大転換となる。ベッシー・ヘッドはこのとき25歳。その後、亡くなるまで自分が生まれた南アフリカという国に二度と足を踏み入れることはなかった。

注*作家ベッシー・ヘッドとパトリック・カリナン、妻のウェンディ・カリナンとの書簡のやり取りは、書籍化されている。(“Imaginative Trespasser:Letters between Bessie Head, Patrick and Wendy Cullinan 1963-1977”)

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