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#026 『白人がアジア人を見下しても、彼らは微笑むー少なくともアフリカ人ではないからだ』|ベッシー・ヘッドの言葉|Novel

Before the white man became universally disliked for his mental outlook, it was there. The white man found only too many people who looked different. That was all that outraged the receivers of his discrimination, that he applied the technique of the wild jiggling dance and the rattling tin cans to anyone who was not a white man. And if the white man thought that Asians were a low, filthy nation, Asians could still smile with reliefe - at least, they were not Africans. And if the white man thought Africans were a low, filthy nation, Africans in Southern Africa could still smile - at least, they were not Bushmen. They all have their monsters.

MARU, 1971

白人がその心理的見地から普遍的に嫌われるようになる以前から、それはあったのだ。白人は、異なる外見を持つ人々をあまりに多く発見したのだ。そんな差別の受け手が憤慨したのはたったそれだけ、白人でない人間には誰でも野蛮な揺れ動く踊りとガタガタいうブリキ缶のような技を使ったことである。
そして、もし白人がアジア人を低俗で汚らわしい民族だと思ったとしても、アジア人は安堵の笑みを浮かべることができたー少なくとも、彼らはアフリカ人ではなかったからだ。さらに、もし白人がアフリカ人を低俗で汚らわしい民族だと思っても、南部アフリカのアフリカ人は微笑むことができたー少なくとも、彼らはブッシュマンではなかったからだ。
誰もがモンスターを飼っているのだ。

『MARU』という作品はベッシー・ヘッドが発表した二作目の長編小説だ。1971年アパルトヘイト時代に南アフリカ人としてのベッシーは、ボツワナの農村を舞台にした小説を書いた。これは、多数派であるバンツー系のツワナ人と、彼らが差別してきた南部アフリカのサンの人々(ブッシュマンは蔑称)について描いた物語だ。

プロットとしては、美しい恋愛物語にも捉えられないこともないが、やはり強烈なのは奴隷として差別されてきたサン(現地語でマサルワ)の子どもが教育を受けて成長後に教師となり、さらに伝統的首長の息子と恋愛をするというストーリーだ。この時代にこれはセンセーショナルだった。
つまり、人種差別というのはアパルトヘイトだけではなく誰の心にも住む悪魔であることを物語を通して伝えた。ボツワナでのそのことを鋭く指摘したフィクションは話題をさらった。
ちなみに、マサルワというのはボツワナにおける「ブッシュマン」への蔑称だ。ベッシーは、この少女にわざと「わたしはマサルワなの」と言わせている。

作家ベッシー・ヘッドについてはこちらのマガジンをご参照

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