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(6) 【ベッシー・ヘッドとは誰か】アイデンティティを探して(ボツワナ編②):農村開発の物語が作家としての道を拓く「雨雲のあつまるとき」

セロウェから首都ハボロネへ80キロほど戻った場所に位置するRadiseleにあるBamangwato Development Association(バマングワト開発委員会)の農場へ移ったベッシー・ヘッド。ベチュアナランドは農業国で、農業についての知見を深めるのは不可欠だという考えから農場での仕事を始めるようになる。この経験が、最初に発表する小説"When Rain Clouds Gather"にリアリティを持って詳細に描かれる農業と農村開発の基礎となっていく。

1. Radiseleの農場で生活が始まる

村とは呼べないほどの大きな人口を抱えているセロウェとは違い、Radiseleは近隣に商店すらない田舎の集落であった。ここで英国人農業専門家のVernon Gibberdは灌漑整備を中心とした農業開発に従事していた。1950年代から60年代にかけての干ばつが厳しい時代に、Gibberdは乾燥地帯でも水を引いて育てられる牧草の育成に力を注いでいた。

ベッシーとハワードは、ゲスト用のrondavel(土壁と草葺き屋根の円筒形の小屋)に滞在し、ベッシーは農場でタイピストの仕事をもらった。同時に、当時Gibberdが換金作物の生産を目指して農場で展開していたトルコタバコの試験栽培で、ノンスモーカーのGibberdの代わりにタバコのテストを担当することになった。このことがきっかけで、作家ベッシー・ヘッドには喫煙習慣がついたことが想像できる。筆者の知る範囲では、彼女の喫煙習慣に関する正確な情報はない。しかし、農村女性から見ればタバコを吸う女性はかなりの異色であったであろうことは想像に難くなく、小説にもタバコを吸う女性が白い目で見られるという表現が登場する。また、このタバコ栽培の試験農場は、最初に発表される小説「When Rain Clouds Gather(雨雲のあつまるとき)」にも農村女性による生計向上プロジェクトとして具体的かつリアル描かれている。

子どもの頃から、養母のネリー・ヒースコートの畑やセント・モニカでのガーデニングに興味を持っていたこともあり、ベッシーは農業に高い関心を持っていた。この頃、International University Exchange Fund (IUEF)のディレクターでスウェーデン人のLars-Gunnar Erikssonと知り合い、農場で2年間の農業コースを受けるための奨学金を申請しようとしていた。IUEFは、1961年に設立されたジュネーブを拠点とする非営利団体であり、多くの途上国における奨学金や教育プログラムを実施していた。南アフリカの反アパルトヘイト闘争に共感し、人々の解放と自由のための教育活動を行い、政治犯として受刑している人のための「Prison Education Programme」もあったという。このような政治的な背景も、ベッシー・ヘッド自身の反アパルトヘイト闘争の経験から共感する部分があったのかもしれない。
しかし、彼女が南アフリカで受けていた教育はジュニア資格(Junior Certificate)レベルにとどまっていたため、高等教育へ進学する要件が満たされていないかった。英国だと彼女の資格では教師の職に就くことができなかった。さらに、ダーバン時代から関心を持っていたインドであったが、その奨学金も受けることができなかったという。いずれにせよ、進学するにはまず2年間の教育を受けてシニア資格(Senior Certificate)を取得する必要があったのである。

この頃、ボツワナ(当時は英国保護領ベチュアナランド)で難民として生活しているベッシーは、せめて社会的な安定性を求めて国を出ようと考えていた。他に候補に挙がっていたのは、タンザニアやザンビアだった。そのために、進学や亡命など知人の伝手を活用して突破口を探し続けていたのである。

2. Vernon Gibberdの農業プロジェクト

村での生活で完全に孤立していたベッシー・ヘッドにとって、Vernon Gibberdの聡明さと献身は強烈なインパクトであり、理解をしあえる重要な仲間でもあった。信念を実務に結びつけるVernon Gibberdは、世界を一夜にして変えることができると信じさせてくれる力があった。一方でベッシーは、純粋で理想主義者であるGibberdからは、どこか距離をとっている面もあった。When Rain Clouds Gatherの主要登場人物であるギルバート・バルフォアは、このVernon Gibberdを連想させる部分が多く、多かれ少なかれGibberdはギルバートのモデルになったといっても良いだろう。

1960年代当時のセロウェも、中心部はすっかり都会的で綺麗な街となった現在に比べれば、独立前の貧しい国のもとで舗装道路もないような田舎の村であった。しかし、農場があるRadiseleはさらに上をいく商店もないような集落で、そのような孤立した厳しい環境に暮らすということは、ベッシーにとってメンタル的な大きな変化を味わうことでもあった。
この変化とは決してポジティブなものではなく、伝統的社会からの孤立と貧困、そして気候的に厳しい環境であった遠い土地で暮らすことは、やはりベッシーにとっては楽しいことばかりではなく、社会的安定性もなく帰属するところもないまま苦しい時期でもあった。この苦しさは、この後も継続してボツワナで暮らしていくベッシーに降りかかっていく重圧であった。このRadiseleでは、本当に「何もない」環境で、多くのことを考える時間もあっただろう。そして、その苦しさや重圧、孤立が、土地の環境や文化社会をある意味客観的に見る力を養うことにもつながったともいえる。これが、作家ベッシー・ヘッドが創作活動を執拗に続けていくようになった大きな原動力のひとつである。それは決して、論理的で客観的、冷静な分析にのみ止まらず、極めて個人的な社会を映し出すマインドの中身が、やがて言葉や文章として現れていったということかもしれない。
この頃、ベッシーはRandolph Vigneにこう書いている。

先を見通す力があって、空から巨大な光が降り注ぐのが見える人というのはまともではいられないけれど、わたしはそれでとても嬉しいのです。幸せで頭がおかしい方が、不幸せでまともであるよりずっといい。
(letter to Randolph Vigne, 14 May 1966, Randolph Vigne編"A Gesture of Belonging: Letters from Bessie Head, 1965-1979", SA Writers/Heinemann Educational Books 1991に収録)

この後、長い年月の間、精神の不安定さに悩まされ、多くの苦難を乗り越えていくことになるベッシー・ヘッドの人生における新しいボツワナの章の兆しが、セロウェからRadiseleでの作品や友人などに宛てた書簡に現れている。このような中で、ベッシーはますます作品の世界へと没頭していくことになる。そして、長編小説の執筆を考え始めることになる。

3. Radiseleの農場を追い出される

この新しい農場での生活も長く続くことはなかった。村人たちは、新しくやってきたベッシーが、白人であるVernon Gibberdではなく自分たちのことを助けてくれると考えていたというが、実際ベッシーが共感したのはGibberdの方であった。小さな村社会の中で、結局のところベッシーは受け入れられることもなく、徐々に周囲の反感を買っていったという。

やがて、バマングワト開発委員会はベッシーとハワードがゲスト用の小屋に滞在していることに異議を示し、2人は追い出されるように荷物をまとめて農場を出ざるを得なくなってしまった。1966年6月、農場に来て5ヶ月後のことだった。

ボツワナの東側にある幹線道路沿いの町Palapyeへとバスで移動した2人であったが、今度こそ頼る相手もおらず行くあてがなくなってしまった。G.S.Eilersenによると、このとき彼女は友人のRandolph Vigneらに助けを求める手紙を書いたが届くのに時間がかかり、その時、Palapyeの小さな郵便局の階段に座り込んでいる2人を見かけた地元電話局に勤める女性が、部屋を提供してくれたという。
間も無く地元の建設会社でタイピストの職を得たベッシーは、それから2ヶ月の間この会社で働くことになる。建設会社は、幹線道路沿いのPalapyeの町からセロウェへの50キロあまりの道の舗装工事を行なっていた。ボツワナの独立は、この年の9月に迫っていた秒読み段階であり、各地でインフラの整備が進んでいた時期である。給与は月に30ランド(1966年当時。現在のレートでは18,000円程度と考えられる)と低かったが、収入があることが彼女に取ってどれだけの精神安定剤であったかということは想像できる。

4. 亡命者が集まるフランシスタウンでボツワナ脱出を目指す

そのころ、ヨハネスブルグ時代にPACの政治活動をともにした活動家Matthew Nkoanaがボツワナ北部でジンバブエとの国境に近いフランシスタウンにおり、ベッシー・ヘッドに連絡を取ってきたという。彼女がベチュアナランドにいる間の就労許可を取得し、さらに国を出てザンビアに行けるように手助けできるとの申し出だった。

同時期に、ベッシーが書いたエッセイ"The Woman from America"が英国の政治文化誌New Statesmanに掲載され、原稿料として30ポンドが手に入った。タイピストの月給の2ヶ月分であった。これがその後作家としてベッシーが躍進していくきっかけとなっていく。

程なくしてタイピストの仕事を辞め、当時PAC代表を引き継いでいたSolly Ndlovuにコンタクトを取り、ベッシーはハワードを連れてフランシスタウンへ行くことにした。そこで、非政治的亡命者(non-political refugee)として登録されることになる。フランシスタウンへ行くことは、また彼女にとっても新しい人生が展開するきっかけとなることであった。

ボツワナ北部のジンバブエ(当時は南ローデシア)国境に近い街フランシスタウンは、各地からの亡命者が多く滞在している町であった。当時のボツワナは、亡命者を特定の町などに集めていたという。南アフリカのアパルトヘイト闘争を遠隔で戦う人々や、英国植民地であったローデシアの解放を求めるフリーダム・ファイターと呼ばれる人々の多くは、刑務所入りや実刑判決を逃れてきた政治的亡命者で、それ以外にベッシーのように南アフリカや周辺国の厳しい政治社会情勢から逃れてきた非政治的亡命者もいた。多くの場合、教育を受けていて都市部からやってきたような亡命者たちは、現地の村人とのバックグラウンドの違いが顕著であり、村社会からは一線を画した存在であったという。
当時、フランシスタウンを経由して、ザンビアなど他国への亡命を計画している亡命者が少なくなかった。その後、1966年9月に英国保護領ベチュアナランドは独立しボツワナ共和国となった。

*当時のボツワナにおける周辺国からの亡命者についてはNeil Parsons, "The pipeline: Botswana’s reception of refugees, 1956–68"に詳しい。Bessie Headの名も見られる。

5.市民権のないひと

作家ベッシー・ヘッドは、非政治的亡命者という状態のまま何年もの間ボツワナの市民権を得ることもできず、不安定な立場で生きてきた。知人の伝手やUNHCR(国連高等難民弁務官事務所)の助けを借りて他国へ逃れる術を探してきたが、いずれも実現せずに終わっている。ボツワナでは、毎週月曜朝に必ず警察署に報告をしなくてはならなかったが、結果としてベッシーはこの後これをさらに13年もの期間にわたり継続することとなる。そして亡命者は正規のルートで雇用されることができなかった。このことで、彼女の気持ちはより執筆活動へと向いていくことになる。
月々40ランド程度の難民手当を受け取っていたとのことだが、ベッシーとハワードの生活は経済的に非常に苦しかった。執筆活動を続けていたが、彼女にはタイプライターもなかった。

New Statesmanに掲載した記事が反響を呼び、作家のNini Ettlingerとの書簡のやり取りが始まった。ベッシーが自らの窮状を訴え創作活動への意欲を手紙で伝えると、すぐさまタイプライターを購入するための50ランドの小切手が送られてきたという。ベッシーはそのおかげでタイプライターを入手した。(Ettlingerとはのちに彼女がベッシーの作品についてアドバイスをしたことで仲違いをしている)

この頃、ベッシーのその後の人生で長い付き合いをしていくスコットランド出身の作家Naomi Mitchisonと書簡のやり取りが始まり、ボツワナに滞在していたMitchisonと交流するようになった。Mitchisonは活動家で、ボツワナ初代大統領Seretse Khamaの友人でありBakgatlaの人々のアドバイザーでもあり、多分野に渡って活躍している人物である。ベッシーは、特にボツワナでの農業や農作物について彼女と議論を交わしていたという。Michisonはその後、最初に出版された小説When Rain Clouds Gatherの献辞にベッシーがその名を記載するほど、彼女にとっては重要な人物であったことがわかる。

6. 小説「When Rain Clouds Gather(雨雲のあつまるとき)」を出版する

New Statesmanに掲載した"The Woman from America"は、思わぬ大きな扉を開くこととなった。初めて小説を出版するきっかけにつながっていったのである。
記事を読んだニューヨークの出版社Simon&Schuster社の編集者Jean Highlandが、ベッシーに似たような記事を書いてくれないかと手紙で依頼してきた。それに対してベッシーは、今持っているアイディアを書きたいのだが、経済的に困窮している自分は鉛筆や紙を買うお金すらないということを返信したという。するとそれに対してHighlandはすぐさま大量の紙の束を送り、さらにベッシーの才能に投資するよう会社を説得して、80ドルの小切手を小説の前金として送った。このことが彼女の作家としての道を拓くことになる。

新しい小説の執筆に取り掛かかると、1967年の1月半ばまでには最初の2章まで書きあがっていた。作品は、南アフリカのジャーナリストの青年マカヤが反アパルトヘイト闘争の政治活動によって投獄されたのち出所し、自由な生活を求めて国境のフェンスを越え隣国のボツワナに亡命するところから始まる。青年マカヤが村にたどり着き、そこで農業開発に力を注いでいた英国人青年とともに村の開発に携わることになるストーリーである。アパルトヘイト闘争を離れ、小さくとも平和で自由な人生のユートピアを求めてやってきたマカヤは、初めて人との触れ合いの中にこれまで求めていた「ユートピア」を見出すのである。

この小説は、同じく南アフリカで活動していた作家ベッシー・ヘッドの「自伝的小説」の最初の作品であると言われる。(その後、1971年「Maru(マル)」1973年「A Question of Power(力の問題)」と続き三部作と呼ばれるようになるこれらの作品は、いずれもベッシー・ヘッド本人の境遇をモデルとしている部分が大きい)

この作品で特筆すべきは、ベッシーがより現実に即した農業開発を描き、リアリティを持たせたことであろう。単なるフィクションではなく、農業の知識やリアルな農村開発の実情を描くことにより、作品の登場人物がより生き生きと描かれている。それぞれの登場人物の心情が明らかにされ、それぞれの関係性が少しずつわかってくると、ベッシー・ヘッドという作家の人々への関心の高さや愛情が見て取れる。
農村開発の部分は、自らが関わったRadiseleの農場での経験や、度重なる調査に基づいている。おそらく重要な登場人物のひとりであるギルバートは、まさに同様の農業開発のプロジェクトに従事していた英国人農業研究者のVernon Gibberdであろう。また農業分野の詳細については、当時飢餓対策の活動を行なっていたOxfamの農業オフィサーを通じて得たものと言われる。

ニューヨークの編集者Jean HighlandとSimon&Schuster社の編集者とともに、ベッシーは密なやり取りと作品の内容に関する議論を通して、1967年いっぱいをかけ同年11月に「When Rain Cloud Gather」が仕上がった。そして、翌年1968年に出版されることになる。

長年のベッシー・ヘッド研究者であるMary Ledererは、この作品が最も最初にベッシー・ヘッドという作家の「アイディア」をストーリーという形に落とし込み重要なものであると述べている。人種差別、政治、ジェンダー、貧困、農村開発など多岐にわたり慎重に考えが述べられ、イデオロギーに固執するわけでもない。フィクションという形をとったその語り口調がよりストレートにリアリティを持って読者に響くものである。さらに、人物それぞれが多様で複雑な内面を持ち、読者にとっても単にボツワナという遠い国の話ではなく、身近に感じられる魅力を持つ作品である。

この作品は大きな反響を呼び、出版後、ベッシー・ヘッドは作家として知られその才能が世界中で認められることになった。現在でも、この最初に出版されたWhen Rain Clouds Gather(雨雲のあつまるとき)は多くの国で翻訳され、版を重ね続けている。

作家として最初の小説を発表したベッシーであったが、その後もボツワナで暮らしていく上で孤独と精神的不安定さに悩まされ、そのことが徐々に深刻化していく苦しい時期を迎えることになる。

このことについて、事項で述べることとしたい。




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