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(5) 【ベッシー・ヘッドとは誰か】アイデンティティを探して(ボツワナ編①):「難民」としてボツワナへ

1964年3月、26歳だったベッシー・ヘッドは2歳にもならない幼い息子ハワードを連れて、初めてボツワナへと足を踏み入れる。南アフリカへの帰国を許さない出国許可証を手に、これが彼女の人生にとって最大の転機となる旅であった。独立直前のボツワナ(当時は英国保護領ベチュアナランド)では難民となり、セロウェ村での教師生活を始めることとなる。しかし村の生活に馴染めないベッシー・ヘッドは人々との間に多くのトラブルを起こし、苦労を味わうこととなる。その一方で、農業開発やその後の人生に重要な役割を担う人々との出会いややりとりが、やがて作家となって描く作品の基礎となっていく。

1. ベチュアナランドでの新しい日々

セロウェ村は、ボツワナの東側を通っている幹線道路と鉄道から内陸へ48キロほど進んだ場所にある。ボツワナは国土のほとんどが半乾燥地帯で平坦な地形が続く。ベッシーが長い列車の旅を経て(最寄りの鉄道駅からは48キロの道のりだ)辿り着いたセロウェは、村と呼ぶには人口が多く1964年当時でも約3万人もの人口を抱える巨大なコミュニティであった。ツワナのチーフ(首長)カーマ一族の村であり、チーフの力が強かった当時は、王国の中心地的位置づけの村であった。ボツワナの人口は約79%をツワナ人が占めており約11%はカランガ人、約3%はサン人(当時ブッシュマンと呼ばれた人々)である。そのうちほとんどの人々がツワナ語を話す。ツワナ人の中でも、エスニックグループが8つに分かれており、最大のグループであるバマングワトの人々の村となっているのがセロウェであった。(ツワナ人の歴史については、のちにベッシーがライフワークとして詳しく調査し歴史小説ともいえる”A Bewitched Crossroad”として発表している)

英国保護領ではあったが、ベチュアナランドではチーフの権力の影響は大きく、機能的であった。英国的な文化と「部族的」な文化が共存する特殊な政治体制でもあった。1950年代に独立の機運が高まると英国はベチュアナランドの独立に向けての民主化の準備段階に入り、1959年と1960年に初の政党が設立されている。ベッシーがこの国にたどり着いた1964年は、1966年の独立に向けてまさに民主化への移行が進む変化の時期であった。

2. セロウェ村と首長カーマ

それまで南アフリカではずっと都市部に暮らしていたベッシーにとって、乾燥地帯にある広大でなだらかに連なる丘が続くセロウェという村への移住はは、間違いなく彼女の人生の中で最もドラマチックで大きな変化であった。

円形の泥壁に草葺きの屋根がついた伝統的な建物が数軒ずつ集まり、一世帯の住居を形成している。有刺低木が広い敷地の周囲に巡らされ、敷地内には鶏やヤギなどが放し飼いにされているような典型的な農村の風景が、連なるなだらかな丘の上に点々と存在していた。
人々は、半乾燥の大地でメイズ(トウモロコシ)やソルガム(モロコシ/イネ科の雑穀。タカキビ、コーリャン)を育て、男性や少年は家畜を育てるため村から遠く離れた放牧地に家畜を連れ、数か月にわたって家を留守にした。1960年代のボツワナは、自給自足農業から食肉の輸出を中心とした経済構造に変化していく時期でもあった。ただ、干ばつが厳しい時期がしばしばあり、ちょうどベッシーがボツワナにやってきた年も、ひどい干ばつがあり牧畜業には大きな打撃を与えていた。

ボツワナには伝統的にコトラ(Kgotla)と呼ばれる公開会議のシステムが存在している。コトラとは、村における評議会であり法廷でもある。村のチーフ(首長)が指揮をとり、集まった人々の意見を聞き判断が下されるという形式のもので、早くからの民主主義とも解釈できるこの形式がボツワナには存在していたのは特徴的である。
ツワナ人社会における最大グループであるバマングワトの人々の住む中心地であるセロウェ村は、首長カーマ一族の土地であった。19世紀末から20世紀初頭にかけてセロウェに移動してきたバマングワトの人々はここを拠点として村を築いていった。
ベッシーが亡命する直前の1962年にボツワナ民主党が設立され、バマングワトの首長後継者であるセレツェ・カーマが主導者となっていた。セレツェ・カーマは、英国保護領ベチュアナランドの独立後、ボツワナ共和国の初代大統領となった人物である。英国人女性のルース・ウィリアムスとの結婚は国中に大きな反響をもたらした出来事となり、2016年にはセレツェとルースを描いた映画"A United Kingdom"が公開されている。カーマ一族とボツワナ独立までの人種問題とアパルトヘイトとのかかわり、特に有力な産業のなかった国を守るセレツェの叔父にあたるThekedi Khamaとセレツェの確執などは、そのころの社会的背景を色濃く表しボツワナの歴史の中でもっともドラマティックな時期であったといえる。さらに、伝統的な首長制と民主的な政党政治が深くリンクしていくボツワナの歴史の特徴的な時期でもあった。

さて、そのような激動の時代にセロウェへとたどり着いたベッシーとハワードは、部族管理事務所(Tribal Administration Office)(*)にて教職員用の宿舎をあてがわれることとなった。新しい場所での生活は、この古い図書館を再利用した細長い間取りの宿舎で始まった。その後、ベッシーたちは間も無く別の場所に移ることになるが、この印象的な図書館の話は、のちにベッシーが発表する小説Maru(1971)でも、マーガレットがベッシーと同じように教師として村へ赴任してきた時の宿舎として登場する。

*現在では、「部族」という表現は差別的意味を含む恐れがあるために使用を避ける傾向にあるが、ここでは固有名詞も含めて当時ボツワナで使われていた用語を使用し、適宜必要に応じて注釈を入れる。また、ベッシーもこの言葉を使用しているが、同様に原則としてそのまま使用する。

3. セロウェで教壇に立つ

ベッシーの教師生活は、セロウェのTshekedi Memorial Schoolで始まった。当時の政府は、ベチュアナランドの教育の質の向上と教師不足解消のため、他国からの教師も募集していた。首長Tshekedi Khamaの時代、セロウェでも教育は重視され、学校が作られていった。だが、校舎は建設されていても教材などが充実しておらず、教師は苦労していた。6年ぶりに教壇に立ったベッシーは、そのような新しい環境の中で困難な仕事に直面することになったのである。

南アフリカのダーバンのカラードコミュニティで教師をしていた頃、生徒たちは貧しかったが最低限の生活はできている状態だった。しかしここでは、そのころの干ばつの影響も重なりもともと貧しかった人々の生活はますます苦しく、子どもたちは満足な食事もとれずに痩せこけていた。さらに、男の子たちは家族の家畜の世話を手伝い学校に通うことができず放牧地にいたせいで、女の子たちよりも数歳年上であった。

そして、ベッシーは必ずしも教師に向いているわけではなかった。

4. Patrick van Rensburgとの出会い

ベッシーがセロウェにやってきて6ヵ月後、「元」夫のハロルド・ヘッドがセロウェにやってきた。南アフリカで政治活動を理由にバン(活動禁止。定期的に警察に出頭し、人との交流や移動が厳しく制限される)を受けたハロルドは、北米へ亡命するつもりで南アフリカを出てきたのだ。G.S.Eilersenによると、このときハロルドはベッシーと夫婦関係をやり直し息子のハワードとともに亡命しようと考えていたという。しかし、ベッシーの中で二人の関係はすでに終わっていた。
結局ハロルドは、カナダに亡命しそこで暮らすことになり、1966年にベッシーとハワードにカナダへ来るように持ち掛けたというが、二人はそのままボツワナに残ることとなった。

もうひとり、ベッシー・ヘッドの人生に重要な影響をもたらしたのは南アフリカから亡命してきていた元外交官のPatrick van Rensburgだった。南アフリカ自由党(Liberal Party)のメンバーで、反アパルトヘイトの姿勢を貫き外交官の職を辞した人物で、亡命後はしばらくロンドンに滞在したのち、妻とともにセロウェに暮らしていた。セロウェでは、セカンダリスクール(中等学校)の設立ニーズが深刻であり、Rensburgは当局に土地を割り当ててもらい中学校の設立に尽力していた。セロウェの中心地から数キロ郊外にSwaneng Hill Schoolが誕生することになる。何もなかったところから学校を建設するために、まず生徒たちが学校の建設そのものから手伝うための実務的な技術を習得させるところからプロジェクトは開始された。
Rensburgは、セカンダリスクールを誰でも通うことができ、皆が生産的で国の「飢え、貧困、無知」と戦うことができる生徒を育成する場所にしたいと望んでいた。そこで、カリキュラムには国の発展に寄与できる実務的な人材を育成するための開発学(development studies)を導入していた。生徒たちには身に着けた技術で村の課題を解決していくことが望まれていた。また、ちょうどベッシーがセロウェにやってきたころ、Rensburgは村人たちが家畜の販売を管理できるようにマーケティング組合の設立に着手していた時期でもあった。
村では、海外ボランティアがすでに活躍してこの活動を手伝っていた。多くの若者がセカンダリスクールに入学できる教育レベルに達していないことを認識していたRensburgは、二年間の職業訓練を受けることができるBrigade(団、組合)を発足させ、最初にBuilders' Brigadeを設立している。これがやがてセロウェ村の教育と発展に大きく寄与するものになっていった。

この時期のベッシーは、村の慣習にも馴染めず人々とトラブルを起こすことも少なくなかったようだ。これをベッシーの繊細さゆえのことと捉えるか、彼女独特の感性が理解されづらかったか、村のコミュニティとの繋がりと彼女の内面の変化は、安易な言葉で解釈することは適切ではないと感じる。この複雑な内面とその社会との関係性の変化が、その後も作品世界に現れて行くからである。そしてそれは、ベッシー・ヘッドという人物の頭の中で常に変化している不協和音のようなものであった。この不協和音がベッシーの中で積み重なり、やがてある決定的な事件へと発展してしまう。

5. 「母親のように頭がおかしくならないよう」という強迫観念

学校での教師生活も村での生活でも、少しずつ心の中に蓄積されていったネガティブなものが、やがて爆発する時がやってくる。1965年10月、ベッシーとセックスできるものだと思い込んでいた校長によるセクシュアル・ハラスメントが起きたのだ。ベッシーが拒絶すると、校長は彼女の腕を捻り上げようとした。彼女は咄嗟に校長の腕に噛みつき、叫びながら学校を走り出ていったという。しかもこのとき、大勢の生徒の前でこの事件が起きた。校長は警察を呼び、彼女の気が狂ったと訴えたという。
このようにして、村ではベッシーに対する反発が強まってしまうこととなった。

学校側は、彼女に精神鑑定を受けるよう要請した。これこそが、ベッシーが幼き日から恐れていたことでもあった。13歳の時、教師に言われた言葉が、ずっと強迫観念として彼女の中にあり続けていた。「あなたも母親のようにおかしくならないように気をつけなければなりません」ベッシーは、精神鑑定を強く拒絶し続けた。

同時に、学校をそのような形で去ったことでベッシー・ヘッドはBamangwato Tribal Administrationから教師としてブラックリストに載せられたという。職を失ったベッシーにとっては、ますます原稿を書くことが重要かつ唯一の収入源の可能性を残すものとなってしまったのである。

この頃、南アフリカ時代に世話になっていた詩人で作家のPatrick Cullinanや活動家のRandolph Vigneの二人が、ベッシーにとって精神面でも実質的にも支えとなった。ひとりお金もなく生活も危うい中で、昔の知り合いに助けを求める手紙を書いたのだ。この二人は、その後のベッシーの人生の中で大きな助けとなる大切な人物となっていく。

6. 原稿を書き始める

ベッシーは、ボツワナに着いた頃から少しずつ原稿を書き溜めていた。タイプライターさえも持っていなかったベッシーは、書いた原稿を南アフリカのPatrick Cullinanに送り、Cullinanはタイプしてベッシーに送り返していた。また、Randolph Vigneはベッシーの原稿を掲載してくれる媒体を探していた。最初に掲載された原稿は"Green Tea"というタイトルの短編で、1964年9月にTransition誌に掲載されている。この時期に書かれた主な短編には、"For 'Napoleon Bonaparte'"、 "Where is the Hour of the Beautiful Dancing of Birds in the Sun-Wind?"、"The Women from America"などがあるが、彼女が亡くなって時間が経ったあとに出版されたものも少なくない。短い物語は、村の中にやってきた新来者と村の社会での関係性と村の人物との愛について複雑に描かれたモチーフが多く、これはのちの彼女の長編小説に繋がっていくテーマの前振りであったとも言えるであろう。
1965年12月、"For Serowe: A Village in Africa"がNew African誌に掲載される。この短いエッセイは、セロウェ村の情景についてとりわけ詳細かつ繊細に書かれた美しい原稿である。(一部引用は、マガジン「雨雲のタイプライター」に掲載した)多くの短編フィクションやエッセイの中で、特に"The Woman from America"は1966年8月、英国のNew Statesman紙に掲載され多くの人に読まれることとなり評判が良かったという。

しかしながら、教師をやめて収入を無くしたベッシーにとって、この原稿で得られる収入で生活を賄うには遠く及ばず、VigneやCullinanへ金銭的な支援を求めている。また、この時期、ボツワナを出たいと願っていたベッシーは、奨学金の獲得を試みている。

ベッシーは1965年のクリスマスを、セロウェ村でSwaneng Hill Schoolを設立し、Brigadeを通じた技術訓練校を始めていたPatrick van Rensburgらと過ごしている。
南アフリカでの外交官の地位を手放したRensburgは、強い意思をもってボツワナの村へやってきて、真に人々のためになる国の発展を熱く望み、その夢に向かって非常に実務的な仕事を行なっている人物だ。村の生活に馴染めず、教師の職を最悪な形で辞することとなって精神的に病んでいたベッシーにとって、Rensburgの存在は強烈だった。ときにそれは、現実社会に実務的に馴染めない彼女にとっては逆に気持ちを沈ませるような打撃となることもあった。
そんなベッシーに、Rensburgは自分のタイプライターを使うように申し出てくれている。彼女はこれをありがたく受け取った。

セロウェの社会で伝統に馴染めずトラブルを起こし続けていたベッシーに対して、村人の反感とネガティブな感情はとても苦しいものであったと同時に、この時期の著作や言動に大きな影響を与えた非常に重要な出来事であった。そして、この先の彼女の作品も、この時に形成された伝統社会への感情や、言語(現地で話されているツワナ語)もできずにコミュニティから誤解された経験が、色濃く描かれることになる。
ここで非常に興味深く象徴的であるのが、G.S.Eilersenによる伝統的ツワナ社会における"dikgaba"(妬み、嫉妬、羨望と解釈できる)に関する記述である。Eilersenはベッシー・ヘッドの伝記の中で以下のように記述している。

村人たちの妬みと報復は、行動規範が強制される田舎の社会において、おそらく過小評価されていたのであろう。南部アフリカ地域のツワナ人社会における自己認識(self-identity)に関する社会学的研究においてHoyt Alversonは、社会における「不当な嫉妬」の存在を認識し、インフォーマント(情報提供者)の多くが指摘したdikgabaについて言及している。dikgabaは、邪心(evil)による呪いそのものというよりも、「ある人間が別の人間の才芸(attainment)に対する嫉妬や不快を抱いた時に望む邪心」なのである。ボツワナで3年過ごしメンタルヘルスプログラムに従事していた精神科医David Ben-Tovimは、こうコメントしている。「小さなコミュニティでの生活規範において、嫉妬の役割は過小評価されてきたといつも感じている。我々は、嫉妬をいつも専門的観点から取り扱うようにしている。

G.S.Eilersen, "Thunder Behind Her Ears"より

このことは、作家としてのベッシー・ヘッドという人物の心理的な変遷と作品の特徴に色濃く影を落としていることは間違いないと言える。

7. セロウェを出て、農業開発の世界へ飛び込む

1964年、南アフリカ政府からパスポートをもらえず国に戻ることを許されない出国許可証のみでボツワナにたどり着いたベッシー・ヘッド。1965年のPatrick van Rensburgのクリスマスの集まりでの農業専門家Vernon Gibberdとの出会いが、彼女の人生に次の展開を導くことになった。Gibberdは、セロウェから首都ハボロネ方向へ70キロほどのところにあるRadiseleで、Radisele Development Association 農場を運営していた。初代大統領のセレツェ・カーマの叔父にあたるTshekedi Khamaによって人々の農業技術向上のために設立された農場である。ベッシーは、Patrick van RensburgのSwanengプロジェクトで活動していた人らの協力とVernon Gibberdの支援を経て、1月にはBamangwato Tribal Authorityの許可を得ることができ、Radiseleへと向かうことが早々に決まった。

さらに、ここでもRensburgはベッシーに対して多大な資金的支援を行なっていたという。こうしてベッシーは、1965年2月、セロウェを去りRadiseleの農場へと向かうことになった。当然、このことがベッシーの農業開発への知見と関心を深め、その後書かれた小説When Rain Clouds Gatherでは、多くの部分がこの農場をモデルにしたと考えれらる。

G.S. Eilersenが伝記に引用しているこのときのRandolph Vigne宛の1965年の手紙は、その後の作家ベッシー・ヘッドとしての作品の予言的な言葉が書かれている。

(農場からは)多くを学ぶことができると思います。ベチュアナランドは完全に農業国です。私にはそういうバックグラウンドが必要なのです。全ては厳しい自然との戦いで、人々は他とは違うのです。この圧倒的に勝算のないとてつもない戦いを生き残るために、彼らの身勝手、強欲、憎しみは、変則的で他と違うのです。わたしは農場で必要なことを密度濃く学ぶことができるでしょう……良い本を一冊、出版することができれば、それはさらに創造的で建設的な執筆への扉を開く(open sesame)ことになるでしょう。
A Gesture of Belonging (*引用元確認)

(Vernon Gibberdは自らのアフリカにおける50年以上に渡る農業開発活動をまとめたウェブサイトを開設している)

やがてベッシー・ヘッドは農業開発の世界に足を踏み入れ、この後、最初に作家としての彼女の名前が知られるようになる農業をテーマにした小説When Rain Cloudsを執筆することになる。


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