言葉の選択☆その人が見ているもの
「犬の笑顔」と言われてどんなものか想像できるだろうか。なんとか想像できるような想像できないような。確かに犬は全般的に優しそうな雰囲気を醸し出しているから、笑いそうといえば笑いそうな感じもするわけで、猫の笑顔より想像はしやすそうである。
何を思って犬の笑顔を想像しているかというと、娘の今日あった話の中にこの言葉が出てきたからである。娘曰く、バイトに向かう道すがら病院の前に大きな白い犬がつながれて座っていたというのだ。犬は非常に大きく、犬の頭のてっぺんは身長153センチの娘の腰ほどまできていたという。さらに病院前の歩道を通るには、その大きな犬の至近距離を通る必要があったというのだ。犬が苦手な人にとっては拷問のような話だが、娘によればその犬は優しそうで「笑顔」だったので近づきやすかったというのである。さて、ここで犬の笑顔というものが出てくるわけだが、娘が犬の表情を笑顔と表現したところに私は面白さを感じた。私なら犬がいくら笑っていたように見えても「笑顔だった」なんていう言葉のチョイスはしない。犬が笑うなんて思ってもみないし、その言葉の選択は不正解のような気がするからである。「笑っているみたいだった」という言葉なら選んだかもしれない。しかし娘は犬と笑顔をセットにして使うことになんのためらいもないようだった。犬が笑うと思っているのだろうか。娘の言葉の使い方になんだか彼女のやんわりとした自由さを感じた。そんなこんなで私は彼女の言う、犬の笑顔というものを想像してみた。まあなんとなくなら想像ができた。人間のように口角を上げ目を細めている犬の表情。彼女の言う犬の笑顔とはこういうことなのだろう。
想像してみて理解したことがある。当然のことだが、私の言う「笑顔のように見える」表情と、娘の言う「笑顔」は同じ表情を表現していることになる。しかしそれは表現する者によって違うものになるということだ。私の表現は世間から習得した概念が組み込まれた表現。一方で娘の表現は素直に彼女の感動とか想いがのっている。彼女の口から「犬の笑顔」と聞いた時にやんわりとした自由さや優しさを感じたのは、つまりはそういうことなのだろう。
結局のところ、私たちは同じものを見ているようで違うものを見ているんだな。そういうことを感じた一日だった。
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