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それでも私が小説を書く理由

私は小説家に向いていない。

そもそも小説家に向いている人ってどんな人だろう。
文章を書くのが上手い人?
小説が大好きで何万冊も読んでいる人?
創作のアイデアが次から次へと浮かんでくる人?
オリジナリティ溢れる表現ができる人?
人を楽しませるのが好きな人?

そんなのよくわからないけど、
終わりまで書く、それができない人は向いていない。
というのは、間違いないだろうな。

そういう意味で言っても、私は小説家に向いていない。


考えれば考えるほど、向いていないことだらけだ。

文章を書くのが特別上手いわけじゃない。
語彙力だって乏しいから「この言葉の意味、誤用していない?」なんていちいち辞書を引くことになるし、「ここの文章の語感が気になる、リズムが気になる」なんて一言一句に気をとらわれて、一つの文章を書くのにひどく時間が掛かる。

小説は好きだけど、たぶん私は小説を書くアマチュアさんたちのなかでも小説をほとんど読んでいない。読んでいる小説の数でランキングをつくったら、お尻から数えたほうが早いくらいに少ないと思う。
間違いなく映画のほうが好きで、読んでいる小説の数より、観ている映画の数のほうが何倍も多い。

創作のアイデアが湯水のように湧いてくるわけでもない。
まして私の場合は、人が持つ複雑な感情とか、白黒では割り切れないグレーな部分が多いこの世界とか、正解不正解のない想いとか、そういう現実に基づいた世界観を描きがちだ。
テーマを与えられて、ファンタジーな世界を書いてくださいと言われても、たぶん私は登場人物の心にフォーカスしてしまう。

オリジナリティなんて、この文章の世界を知れば知るほど、自分にはないことに気づかされる。
才能のなさを突き付けられるたび、いい経験になったと自分を納得させることばかり上手くなっていく。

比べているのは他の誰でもなくて自分自身だ。
素敵な作品を読んだとき、素敵だな凄いな面白いな、そういう感想よりも劣等感のほうが勝ってしまう。 人が誰かの作品を褒めるとき、自分の作品は良くなかったと言われているようにすら感じてしまう。
好きだと言ってくれる人の言葉より、そんな自分の醜い感情のほうが勝ってしまうとき、作品の不出来よりもそういう思考に陥る自分に対して落ち込んでしまう。なんだか何もかもがズレている気がする。
申し訳ないとか、失礼だとか、拗らせてんな、とは思うけど、まあ、おしなべてそういう時は集中力が散漫しているのだ。自分の作品に集中できていないとき、あるいは書き終えてもう手直しできないときなんかに起こりがちな思考なのだから。

伝えたいこと、何か強いメッセージを持っているわけでもなければ、誰かを楽しませたいなんて気持ちも、正直私の場合は二の次だ。
そもそも誰かに何かを与えようなんて烏滸がましい。幸いにも平凡な人生を歩んできた私の貧弱な経験や知識では、伝えられることなんてたかが知れている。

と思うのに、読み手の目が気になる。
楽しんでもらいたいとか、期待に応えたいとか、結局だんだんとそういう気持ちが生まれる。
極めつけに、そういう作品の外のことを考えては筆が進まなくなって、書きたい作品ほど終わりまで書き切れないことの多さ。

ほんと、私は小説家に向いていない。



それでも私が小説を書くのは、私が自己表現の道を探して小説に辿り着いたからだ。

なんて、そんなふうに言えば聞こえはいいけれど、言ってしまえば、単に憶病なだけである。

言えない言葉が多すぎるのだ。

伝えたい誰かがいる、だけど言えば別の誰かを傷付けてしまうかもしれない言葉。
本心だけど、それはあくまでも一面で、この面だけが本心だと誤解されたら嫌だなと思う言葉。
吐き出してしまいたいけれど、それをそのまま自分の気持ちとして話してしまうと、重くて暗くて気分を害してしまいそうな言葉。
本当はひどく腹が立っていて、勢いのままぶつけたかった乱暴な言葉。
そのまま外に出してしまうには、あまりにも浅はかで短絡的で幼稚、はたまたうっとうしくて窮屈で傲慢な言葉。
それはおかしいと思うけれど、そのまま言えば、正義という刃物を振りかざすだけになってしまう言葉。
いつか私が生きているうちに君に伝わったらいいなと思うけれど、きっとこの先も言えない言葉。

その多くは言ってしまえば、きっと大したことではなかったりもする。
それでも必要以上に憶病な私には、言えない言葉たち。
考えて考えて考えて、それでも言う勇気や覚悟が持てなくて、嫌われる勇気がなくて、言えなかった言葉たち。
それをフィクションの世界に隠していく。



この世界には、人の数だけの正義があって、人の数だけの真実がある。
私の生きる世界の中心は私だし、あなたが生きる世界の中心はあなただから。
事実は一つだったとしても、それをいつどこから、どんな関係性の、どんな人生や経験を経てきた人が、どんなふうに見て、どう捉えるのか。
たぶんそれによって、真実っていうのは必ずしも一つじゃない。

理屈では解っていても、言葉にしてしまうと袋叩きに遭う怖さがある。

自分と違う考えを悪だとは思わない。
苦手な人も嫌いな人も攻撃的な人も犯罪者も、もし悪が存在するとしたら、それは、そう考えることではなくて、それを分別できずに実行してしまうことだ。

けれど、そういう自分にない考えを、直ちに捨て置いてしまうのはもったいないとも思う。
そういう考え方に至るプロセスって何? 君にはどう見えている?
自分では到底選ばないその道を行った先は、いったいどんな景色か見てみたいとも思う。

思ってもいないことを、生身のこの身体で言ったりやったりするのは、どうしたって責任感が邪魔をする。
茨の道を選ぶ勇気も、犯罪に手を染める愚かさも、私は持ち合わせていない。

だけど小説なら、どんなことだってできてしまう。
君の生きる世界の中心に立つことができる。


そうして、私の本音と、君の思いを織り交ぜて、物語を紡いでいく。

何か書きたい物語があるわけではない。
小説を書きたいと思うとき、私は初めに書きたいシーンが浮かぶ。あるいは構成が浮かぶ。書きたいシーンや頭とお尻だけが浮かんで、間はどう繋げるか思い浮かばないまま、はたまた乱雑に配置して念もなくふわっと想像して安易にイケるなんて思って書きはじめては、行き詰まることも多々あったりして。
もともと言葉は好きだから、降ってきた自分にとって印象的なフレーズを活かしたいと思う。
その隙間に、現実世界で言えなかった、憤りや後悔や怖さや愛を、そっと隠していく。



『好かれる為ではなく、胸の内で燻る思いをただそのまま言葉に乗せたい。けれどそれをスキと言ってくれたなら、とても嬉しい。』

この場所で文章を書きはじめた一番初めの頃から、そのコンセプトは今もずっと変わらない。

noteにおいて、小説(特に長編小説)というのは、他の記事と比べて読まれにくい印象がある。
正直ちょうどいいと思っている。
小説だって「文章を書く行為」なのだから、自分をさらけ出すことには変わりない。むしろ「これが自分です」と正面切って言わないぶん、エッセイよりも自分の格好悪い部分や無骨な部分が出てしまうと思うから。
今はまだ、憶病な私の隠れ家であってくれていい。

「自信作ができた」「今までで一番の出来」
そう思っても、人様の目に触れるところに出した瞬間、見え方が180度変わってしまうことは多々ある。正直そんなことばかりだ。
手元で光って見えたソレは、世に放った瞬間、あっという間にくすんでしまう。まん丸に美しく仕上げたと思っていたソレは、実際はまだまだ凸凹で歪で薄汚れていて、よく見えていなかっただけなのだと気付く。
「恥ずかしい」「情けない」「こうすればよかった」
ここにある気持ちが手のひらを返して、一度放った自賛が行き場を失う。

たぶんこの先も、そんなことを何度も何度も繰り返すんだろう。

いつか世に放ったソレが、自分の目で見たその姿そのもので、その場所に居られる日が来たら、その時はもっとたくさんの人に届けばいいなと思う。

私は小説家に向いていない。

小説家に向いているから、小説を書いているわけじゃない。

小説を書くことは、憶病な私の意思表示だ。




(3,311文字)




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