故郷の風が吹いているのか?

電車に飛び乗る。

私は昔予備校に通っていたのだが、いかんせん地元にはそのような場所がないので、2時間ほど近鉄に揺られて名古屋まで行っていた。

日によって乗る時間が違うとは言えど、帰りは大体帰宅ラッシュである午後5時ごろが多い。電車に乗るころには所狭しと人が詰め込まれており、入り口が塞がれていることもあった。「すいません」と言いながら乗り込み、身を寄せれるような場所を探る。

このときである。

私の眼にはあふれんばかりの人間が映っているはずなのに、どうしてか一人の人間に意識がいくのである。この人間というのは何か派手な服を着ているわけでもなく、何か突出した身体的特徴があったわけでもない、なんなら今風のおしゃれな格好をしている時もある。

今これを読んでいる人たちは「恋の予感?」と思うかもしれない。
だが、少し待ってほしい。この人間というのは、電車に乗るたびに毎回違うのである。

ある時は同年代くらいの青年、ある時は妙齢の女性、またある時はおじいちゃん…。老若男女は関係ない。社会人?学生?これもバラバラ。何に私の眼が惹かれるのか。理由はわからないが、理由があることは確かだった。思い返すと予備校に通い始めて1週間がたち電車通学にも慣れ始めたころから、このようなことが続いていた。

電車は走り続ける。車窓から見えた駅は一瞬で見えなくなる。

私の乗っている電車は急行である。そのため主要駅にしか停車しないわけなのだが、それでも降車駅までに18駅も停車するのである。これだけ長い時間乗っていると、着く頃には車内は寂寞としている。田舎といえば田舎なのだが、人口は10万人ほど。勿論同じ駅で降りる人もちらほらいる。

この同じ駅で降りる人たちというのが先ほど言った、「意識してしまった」人なのだ。もちろん見た瞬間に「あ、この人は自分と同じ駅で降りるな」と確信しているわけではなく、ただなんとなく意識の端に引っかかっている感覚になるのだ。

このことから一つの結論を導き出す。おそらく私は、同じ街に住んでいる人間に自然と目がいっているのではないか。その人がどこで降りるかを当てるということは、終点までの21駅、つまり21分の1を当てなければならないというわけだ。偶然に頼るにしては大きすぎる数字だ。4択問題のマークシートとはわけが違う。

毎回当てることができている理由はいったい何なのか。
あくまで仮設ではあるのだが、「シンパシー」を感じているのではないか、というのが私の考えだ。

慣れない土地の新生活に振り回されている間はほかのことを考える余地がない。周囲を気にかける余裕がない。
しかしその土地にいったん慣れてしまえば他者に意識をむけられる。恐らく私は育ってきた土地の雰囲気、つまり同じ土地に住む人を無意識のうちに察知しているのではないか。使い古したグローブと新品のグローブが瞬時に見分けがつくように。もしかしたら電車の中で、私は懐かしさを探しているのかもしれない。

東京の大学に進学した友人にも似たようなことがあったらしい。大学の入学式の間ずっと気になる学生がいたという。式が終わった後話しかけてみると、どうやら福島から来たとのこと。お互いの地元の様子を話していると、大体同じくらいの田舎具合。これを機に仲良くなったらしいが、これも一種の「シンパシー」だと思われる。おそらくその学生から、無意識のうちに地元に似たなつかしさを感じ取っていたのだろう。

地元から離れて暮らしている方は、一度自分の周りを見回してはどうだろうか。電車でも、学校でも、なんならまちを歩いている時でもいい。きっとあなたの視界には、声をかけたくなるような雰囲気の人が映し出されているはずだ。

そうこうしているうちに二時間の旅は終わる。

やっぱり、あの人もここで降りるようだ。

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