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経済活動には商売的な「交換」と、損得勘定抜きの「贈与」があるんだけど、このごろ贈与的な部分がちょっと増えてきてませんか、という雑感。

経済活動(というか、物や行為のやりとり全般と表現した方が良いかもしれませんけれど)には、大きく分けて2種類あります。

1つは「交換」。
物とお金を交換する。とか、
サービスとして何かの行為をする代わりにお金をもらう。とか、
基本的に等価と判断できるもの同士を交換する経済活動があります。
いわゆる商売になるもの。
この「交換」で主体になるのは物やサービスやお金や、それらの価値です。価値同士を交換するだけなので、それをやり取りする人同士の感情はさほど問題ではない。もちろん、それが欲しいとかいう感情から始まって交換に至っているわけですが、交換という行為自体にはあまり感情は挟みません。
コンビニで物を買うとき、レジでお金を払って物を受け取れば終わりです。後腐れのないその場限りのものとして機能します。

もう1つは「贈与」。
プレゼントが一番わかりやすいのですが、その他にも、
お隣さんに収穫をおすそわけする。とか、
ボランティアとして街の清掃をする。とか、
基本的には商売にはならない物や行為やお金の流れです。
この「贈与」の場合、物やサービスを贈っているようでいて、実は自分の感情や好意や理想みたいなものを表現して相手に渡していたりします。そして、交換のようにその場で対価を得るわけではない。しばらくしてから今度はプレゼントをもらったり、まわりまわって自分に返ってくるなんてことはありますが、建前としてはそれを期待してはいけないことになっています。

「贈与」が「交換」と違う点は、一方通行で、送る側の感情や思いなどが入っている場合が多く、もらった側は何かお返しをしなければ気持ちがちょっともやもやしたりするところ。その、その場限りで終わらない感じが、贈った側と贈られた側に関係性をつくります。
友達に誕生日プレゼントをもらったときに、あーこれ2000円くらいだよねー、とか言ってお金を払ったら、ちょっと人間関係に支障が出かねません。
つまり、わりと面倒なんです、「贈与」って。
だから、あまり贈与が多いと疲れるので、商売の間柄では「交換」を基本にしたい。特に貨幣経済が発達した現代、匿名性の高い都市部ではさらに、経済活動の主な立ち位置は「交換」にしておくのが基本です。

この辺を整理してくれたのがこちらの本。
松本圭一郎『うしろめたさの人類学』


でも、ときに商売人は「贈与」をテクニックとして使います。例えば、
初回は赤字になってもまずサービスを体験させてあげる。とか、
買い物するごとにその代金の一部をポイントとして返還してあげる。とか。
逆に、今後の取引を期待させて相手から贈与を引き出そうとする、なんていうちょっとずるい人もいます。
もちろんこれらは一見「贈与」には見えますが、その見返りまで含めてきちんと損得勘定がなされています。だから実質は「交換」の一部であり、これらのテクニックが生み出された当初はともかく、今ではこれらに感情がこもっているとか返礼をしなきゃ気が済まないとか感じる顧客や消費者はほとんどいないでしょう。

でも最近、どうもまたさらに「贈与」っぽい経済行為が一般化というか拡大されそうな気配があるように感じられます。
noteのサポート機能もそうかもしれません。ソーシャル・レンディングやソーシャル・ビジネスや、ペイ・フォワード的な思想が前面に出ているサービスも増えました。
評価経済とか、人同士の関係性から生み出される信頼とか、そういうものも「贈与」を立脚点としたもののように感じます。ティール組織なんて考え方も、人格や感情を積極的にビジネスの世界に持ち込もうというのなら、「交換」だけで成り立つ関係ではなくなっていくんでしょう。

スマホが進化してIoTが普及したらプライベート的なものがなくなっていって、なんか生活すべて共有化されちゃうんじゃないかっていう流れと似通ってるのかもしれませんが。
それがどこへ向かうのか。疲れるのか、心地いいのか、ちょっとわかりませんけれど、アレな言い方をするならば、好むと好まざるとにかかわらず、そういう方向にあるような気が。

ビール代になります。