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対価~エピソード②~

私がバリスタとして働いた中で、二度、大きな壁にぶち当たった事があります。今回はその内の、二度目のお話です。バリスタとして勤めて1年ほど経ったある日の朝、後輩から聞いた一言からはじまります。

予期せぬ一言

バリスタとして勤め始めて1年程経った、ある日の朝のことでした。出勤するなり後輩から「聞いて下さいよ!昨日、Xさんが『〇(先輩バリスタ)さん以外と話してても、ちっとも楽しくない!つまんないんだよ』って言ったんですよ。珍しく酔っていたとはいえ、酷くないですか!?」と報告してくれました。

後輩の言葉を聞いた瞬間「......え?」と、言葉を失いました。Xさんは週に2~3日は来て下さる、以前からのご常連様で、私も何度もカウンターでお話していました。沢山の知識を持つXさんとの会話は、私だけでなく他のお客様も惹き込み、皆笑顔で楽しんでいた、ずっとそう思っていたからです。

私が無言のまま、表情も強張ったのを見た後輩は「酔っていらっしゃったから、気にしなくて良いですよ!」と焦る様にフォローしてくれましたが、私の中では「酔っていた時の言葉」だからこそ、ショックが大きかったのです。酔った時の言葉は、その人の本音であり本性。「お客様であるXさんに、ずっと『偽りの笑顔』をさせてしまっていたのか、私は...。それに気付きもしなかった...」

後から来た支配人も私の様子に気付いて「...聞いた?珍しく酔われて仰った言葉だけど、気にしないで。」と言ってくれましたが、そんな言葉は受け止める間もなく一瞬で通過して行きました。

カウンターに立てない

頭の中で朝聞いた言葉が、ずっと重く広がった私は開店直前、支配人に「すみません、今日誰かとバリスタ交代してもらえませんか。私は、立てません...」と申し出ます。

「お客様に嘘の笑顔を作らせ、気を遣わせるバリスタなんて、カウンターに立ってはいけません。私はやはり未だ駄目でした、少し持てた自信なんて過信に過ぎません。」そう支配人に続けて話すと、「貴方だけの責任ではない。でも、今日は分かりました。休憩回す時は代わってね」そう了承してくれました。

その日はXさんのご来店はありませんでしたが、他のご常連様がいらしても「この方も、もしかしたら気を遣って笑っていてくれているのかも...」という不安が尽きなくなりました。会話も、どうやって繋いでいたのかすら思い浮かばない程。一日中気持ちがザワザワしていました。

命令です

翌日、ランチにXさんがいらっしゃいました。いつもなら、直ぐにXさんの元へ行きご挨拶するのですが、数メートル先で見つけて瞬間、足が止まります。笑顔で挨拶出来る自信がなかったのです。

そして私がとった行動は、急ぎ足でカウンターに水を取りに行く仕草でXさんの方へ向かい一瞬顔を見て「こんにちは」とお辞儀し、急ぎ足で去るというものでした。Xさんも誰かから情報を聞いたようで「あ...こんにちは」と会釈のみで応えてくれました。

Xさんに、お客様に気を遣わせている、その自覚はあったものの、自信を無くした私は、カウンターに立つのが怖くなっていました。私が話している時のお客様の表情が本当はつまらないんじゃないか、それが頭に住み着き、私はカウンターに休憩を回す以外は、立つのを拒み続けました。

カウンターに立つを拒んで1週間が過ぎた頃、支配人から「二番手のあなたに立ってもらわないと、カウンターがさばけないの。今日からカウンターに戻って下さい。これは『命令』です。」と言われました。縦社会で生きてきた私にとって「命令」は絶対的な言葉。その一言で、不安を抱えたままカウンターに戻ることになりました。

今まで以上

カウンターに戻って以降も、頭の中では常に不安でした。でも私の行動で更にお客様に気を遣わせてはいけない、カウンターに立つ以上はお店の顔として、しっかり立ち居振る舞いしなければ、と自分を奮い立たせながら過ごしました。

Xさんも変わらずいらして下さり、変わらず色々な話をしてくれました。ただ、Xさんがいらっしゃる際は先輩バリスタが常に、会話のサポートに入ってくれました。多分、私の表情がぎこちなかったのだと思います。

その状況を変えたくて、私は今まで以上に休日を「話題のネタ探し」に明け暮れました。様々な美術館やデザイン展へ行き、近くの飲食店を食べ歩き。それ以外にデザイン系の雑誌を読み漁り、お客様へ色んな方向から話題が振れる様に、必死に動きまわりました。

そこから徐々にですが、以前の様に会話が楽しめる様になっていきました。そして、カクテルを作りながら会話を振るなど、本来のバリスタとしての立ち居振る舞いも、何とか笑顔でこなせるまで戻っていった頃でした。

5時間の1対1

その日は珍しく夕方5時頃からXさんが来店されました。「この時間は、珍しいですね」とお声をかけると「今日は早く仕事終わったからね、ゆっくり飲めると思って」そうにこやかに答えてくれました。

その日先輩は休みで、一日私がカウンターに立つ日でした。サポートに入る先輩がいない....、ほんの少し、不安がよぎります。

正面に立ったXさんは、いつものようにビールから始まりました。次に白ワインか赤ワイン、滞在時間や気分により、提案するワインを考える私は「今日はどの辺りから参りましょうか?」と伺うと「軽めの白から」とのXさんの要望で、一番軽いワインから提案していきます。それに合う料理は私から幾つか提案し、Xさんが好みで選びます。その日のXさんは、ゆっくりと時間を過ごす様な印象でした。時間もどんどん過ぎ、ワインも次々に飲んでいきます。

Xさんが来店されてから、3時間が経ちました。その日は珍しく他の常連様が来店されず、私とXさんとの1対1での会話が続きます。

対価だから

徐々に、私は話題のキャパシティーに限界が近づくのを感じていました。お客様と1対1での会話はこれまでもありましたが、2時間以上の1対1は初めてだったからです。今まで行った所からの話題は尽き、Xさんご夫妻のお話へ話題を持っていく事にしました。1対1で、他の人に聞かれず話せるということもあり、プライベートの雑談も話が広がります。

そして気付けば、Xさんが来店されてから5時間が過ぎていました。あと30分でラストオーダーの時間となった頃、Xさんから「そろそろお会計に」と言われます。レジ打ちし、金額を見た私は驚きます。いつものXさんのお食事代金の倍額だったためです。5時間という長い時間でしたし、ワインも一通り召し上がり、食事もされたとはいえ、イタリアンバールのバンコ(カウンター)価格帯では無い料金に、私は「しまった...。こんなに払わせてしまう」と一気に不安が押し寄せます。

Xさんの前に戻った私は、「Xさん、...申し訳ありません、お代金がいつもよりかなり高くなってしまいまして...。」そう前置きし、明細を差し出します。提示された額を見たXさんは、穏やかな表情で「いいよ、『対価』だから。この金額以上に、十分楽しませてもらったし。ありがとう。」と私に笑顔を向けてくれました。

対価...。後にも先にも、その言葉の重みと、その言葉を聞けた安堵と嬉しさは、上回るものがありませんでした。色んな感情で胸いっぱいになり、「こちらこそ、有難うございます...。」その一言を言うのがやっとでした。

その一言でやっと、私の中にあった不安は拭えて「カウンターに立っても良いんだ」と思えるようになりました。そして、バリスタとしての在籍の中で唯一だった、この1対1の5時間は、私にカウンターに立つ自信を取り戻すためにもらえた、貴重な機会であり、忘れられない時間となりました。



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