見出し画像

カンボジア現代史② 前史 現代カンボジアに至るまで

ポル・ポトの話を始める前にカンボジアの歴史について解説する。
カンボジアという国がどのように始まり、どのような歴史を歩んできたのかを知ることで、なぜポル・ポトのような人間がカンボジアに生まれたのか、なぜ国民の25%が犠牲になる悲劇が起こってしまったのか深く理解できるようになる。この章ではまだポル・ポトは出てこない。現代カンボジア王国に繋がる国が成立するまでを書いていく。

第1章 前史 現代カンボジアに至るまで

1−1.クメール王国の衰退

 インドシナ半島中央部を流れるメコン川流域で暮らしていたクメール人は早くから王国を築いた。その起源は1世紀まで遡り、インド中国間交易の中継地として栄えたという。

FOU-NAN(扶南)がクメール人の最初の王国と言われている

 何度かの王朝の交代を経験しながらも、クメール人の王国は拡大を続けた。周辺民族を支配下に置き、10世紀から12世紀にかけて最盛期を迎え、インドシナ半島全域を支配下に置いた。この頃トンレサップ湖北部に王都や多くの寺院が建造され、アンコール遺跡群として現在に伝わっている。また、かつて東南アジア大陸部の覇権国家であった事実は現代のカンボジア人の誇りであり、ナショナリズムの源泉とも言える。

最盛期のクメール人の王国
アンコールワット
スールヤヴァルマン2世 王国の最盛期を築いた

 しかし13世紀以降になると、度重なる戦争や寺院建立による財政難のため国力が衰退し始める。モンゴルの侵攻、タイ系民族の独立、王位継承争いを経てクメール王国の勢力は徐々に縮小していく。
 14世紀後半、クメール人の王国から独立したタイ系民族の王国であるアユタヤ朝による侵略を受ける。1431 年に王都アンコールトムが陥落し、王国の中心はトンレサップ湖南部へと移る。
 メコン川下流域(メコンデルタ)は元々クメール人の王国の貿易の窓口であった。現在のホーチミンシティはプレイノコールという名前で呼ばれていた。17世紀になると南進してくるベトナム人の勢力に占領され、メコンデルタの地域を失ってしまう。クメール人の王国はトンレサップ湖北部をタイ人に支配され、メコンデルタ地域をベトナムに奪われ、メコン川下流域の一部を支配する小さな農業国家となってしまった。

16世紀カンボジア 後にメコンデルタも失う

1−2.フランス植民地支配

 19世紀にメコンデルタへ進出したフランスはベトナム南部にコーチシナ植民地を築く。これがフランスによるインドシナ支配の始まりであった。
当時カンボジアはタイの属国のような存在であった。カンボジアはタイ、 ベトナムからの干渉やチャム人の反乱に悩まされていた。
 1863年、カンボジアのノロドム王はフランスと保護国条約を結ぶ。その結果国王の権力は名目的なものとなり、フランスはカンボジアを完全に乗っ取った。しかしフランスによる介入のおかげでカンボジアはタイに支配されていたトンレサップ湖北部の領土を取り戻すことができた。ノロドム王の行動はタイ、ベトナムの侵略からカンボジアを守るためのものだったと国民には信じられている。 カンボジアはフランスの保護領となったが、この時の領土が現代のカンボジアに受け継がれることになる。

仏領インドシナ形成の過程 
メコンデルタから始まり北上してベトナムを支配、後に内陸へと拡大していく


 20世紀までに現在のベトナム、ラオス、カンボジアにあたる領域を植民地化したフランスは、仏領インドシナ植民地の支配を完成させる。植民地総督府は「文明国の使命」として、教育の普及、産業の振興、インフラの整備、医療制度の拡充を推進した。
 しかしその実態は鉱山やプランテーションの経営による原料、食糧供給源の確保と、フランス製工業製品輸出先の確保にあり、対等な関係とは言い難かった。また、植民地開発もベトナム側に偏っており、保護国であるカンボジアやラオスの開発は後回しにされた。 
 フランスはベトナム人を公務員として採用し、カンボジアとラオスを間接統治するための手足として利用した。ベトナム人の役人はカンボジア人から法外な税金を取り立てるなど不正が多く、植民地支配を通してカンボジア人は反ベトナム感情を持つようになった。

1−3.カンボジア王国の独立

 1940年6月、ドイツのフランス侵攻によってパリが陥落し、ヴィシー政権が成立した。日本軍はヴィシー政権に仏領インドシナ北部への軍駐留を認めさせる。タイは以前からカンボジアのシェムリアップ、バッタンバン(トンレサップ湖北部のかつてタイが支配していた地域)両州の返還をフランスに求めていた。タイは日本が仏印を占領してしまったらかつての支配地を取り戻せなくなると思いラオス、カンボジアに侵攻した。最終的に日本の仲介により、タイはラオスとカンボジアの一部を手に入れた。

たいがカンボジアから奪った領土

 タイとの紛争のあと、日本はコーチシナに軍を駐留させることをフランスに求めた。フランスはインドシナにおける日本の主権を認めたが、これにより米英との対立は決定的なものとなり、のちに太平洋戦争へとつながった。
 日本はカンボジアを占領したが、8000人規模の軍隊を駐留させるのみで、本格的な支配は行わなかった。日本にとっての当時のカンボジアはタイへ向かう通り道でしかなかったため、他の東南アジア諸国の民間人が経験したような残虐行為から逃れることはできた。のちに繰り広げられる戦乱を思うと、この期間は束の間の平和な時代であったとも言える。

日本による仏領インドシナ進駐

 1945年3月9日、太平洋戦争の戦況が不利になると日本はインドシナに残っていたフランスの植民地行政を解体し、フランス軍を武装解除させ、フランスによる支配を完全に終わらせた。ベトナム、ラオス、カンボジアに独立を促し、協力と同盟を求めた。3月13日、国王のノロドム・シハヌークのもとカンボジア王国は独立を果たす。日本の占領下での名目上の独立であったが、このときシハヌークはこれまでカンボジアが結んできたフランスとの条約を全て破棄した。これにより仏領インドシナ植民地に組み込まれて以来およそ80年ぶりの独立を経験する。
 1945年8月、日本の敗戦により連合軍の部隊がカンボジアに入り、日本軍を武装解除する。再びフランスの保護国となるが、独立運動は続きシハヌークは積極的に諸外国を訪問し国際世論に独立を訴えつつ、国内で政治運動を主導した。1949年、カンボジアはフランス連合内での自治を獲得した。当時フランスは第一次インドシナ戦争のさなかにあり、ベトナム独立同盟(ベトミン)の猛攻に押されていた。ベトミンは日本の降伏後、ハノイで八月革命を起こしベトナム民主共和国の独立を宣言していた。当初フランスの再占領を許してしまったものの、ベトミンは農村部から遊撃戦を展開し、徐々に解放区を広げていった。

旧日本軍の武装解除
1950年における抗仏反政府活動

 ベトナム民主共和国に対抗するためフランスはラオス、カンボジアを自治国として独立させた。また、ベトナム南部にフランスの傀儡政権を建ててベトナム人を味方に引き入れようとした。あくまで自治国という形ではあるが、フランスによるインドシナ支配は終わりを迎えつつあった。
 ベトミンとの戦争が泥沼化する中、同年10月には中華人民共和国が中国大陸を統一した。中華人民共和国、ソ連はベトミン軍への援助を強化する。当時両国は朝鮮戦争でも軍を展開しており、共産主義勢力拡大のための戦いの真っただ中にあった。1953年、もはや植民地の維持を続けることができなくなったフランスはカンボジアの独立を認める。シハヌークは独立の父として国民の尊敬を集め、カンボジア王国の国王として即位した。
 一方でベトミンとフランスの戦いは続いていた。ベトミン軍は1954年のディエンビエンフーの戦いでフランス軍を撃破する。同年7月21日、フランスはジュネーブ休戦協定を結ぶ。これにより、停戦と停戦監視団の派遣、ベトナムを17度線で南北に分離すること、ベトミン軍の南ベトナムからの撤退とフランス軍の北ベトナム、カンボジア、ラオスからの撤退が決定した。この協定によりカンボジア王国は完全な独立を達成したのであった。

1954年ジュネーブ休戦協定後のインドシナ半島

1−4.独立後のカンボジアの政治体制

 1955年、シハヌークは国王の位を父親に譲り渡して政治団体サンクムを結成した。同年の選挙でサンクムは圧勝し国会の全議席を獲得する。シハヌークはサンクムの総裁として国家元首に就任し、独裁体制を確立させた。フランスからの独立後、野心に燃えるシハヌークは自らの理想の国を実現するために強大な権力を手に入れたのだ。
 シハヌークの政策は「王制社会主義」と称されるもので、君主制の下で仏教の保護と社会主義政策を進展させようとした。外交面では非同盟諸国として中立を守り、東西両陣営から支援を引き出すことに成功するなど一定の成果を見せた。
 隣国のラオスやベトナムが戦火に巻き込まれるなかで平和を維持することができたが、一方で国内は農村と都市部の格差が拡大し、また政界でも左派と右派の対立が絶えず、政治経済状況はシハヌークの力業による不安定な均衡の上に成り立っていた。

 ここまでが現代のカンボジア国家が成立するまでの過程だ。クメールルージュとは何か、ポル・ポトとは何者で、カンボジア史においてどのような意義があるのか理解するためには最低限ここまでは前提知識として抑えておく必要がある。
 簡単にまとめると次のような流れになる。かつてインドシナ半島の覇権国家だったカンボジアはタイ、ベトナムの侵略により勢力を縮小していき、17世紀には双方に飲み込まれる寸前となってしまう。ちょうどアジアに進出してきたフランスに保護を求めることで辛うじて独立は保ったが、フランス植民地支配に組み込まれて、ベトナム人の役人によって苦しめられる。日本の侵攻によって一度独立を果たしたカンボジアはフランスによる再占領後も独立運動を続けて、1953年に独立を果たす。独立運動を指揮したシハヌーク国王は王座を退き政治家となり、選挙で独裁体制を敷いて彼の思い描く理想の国づくりに邁進していく。最低限にまとめたがそれでもそこそこのボリュームだ。クメールルージュの台頭にはこれだけの歴史的背景が詰まっているのだ。次回はクメールルージュが台頭していく過程を書いていく。

参考文献

・『東南アジア史〈1〉大陸部 (新版 世界各国史)』
画像はフリー素材、wikipediaのパブリックドメインを使用しています



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?