見出し画像

30代後半、独身、女。後ろめたさが捨てられない

たまたま見つけた日経ARIAの記事。首がもげそうなくらいうなずいた内容だったので、センシティブなテーマだけど思うところを少し書いてみようと思う。

「子どもがほしい」という感情がずっと謎

子どものときから今まで約30年強、心の底から子どもがほしいと思ったことが実は一度もない。本当にない。30歳になったときちょうど当時付き合っていた相手がいて「年齢も年齢だし自分の身体の機能をちゃんと使ってみてもいいんじゃない?」と思ったことはあるけれど、たぶんこの感情は一般的な「子どもがほしい」の発想とは違う。単なる自分の身体への興味にすぎなかった。

今でも忘れられないのが、高校の保健の授業で(←男女別のクラスだった気もする)、今ではたぶんありえない質問だけど、先生が将来子どもがほしいと思う人に挙手を求めた。私は当時から子どもが苦手だったしほしいなんてまったく思っていなかったからぼーっとしていて、でもふと周りを見ると、クラスのほぼ全員の手が挙がっていた。衝撃だった。

まだ付き合った経験なんてほぼないに等しい高校生だ。
なんで相手もいないのに「子どもがほしい」なんて発想になるんだろう?
クラスの大多数の意見が、私には全然理解できなかった。
そしてその疑問は今もずっと解消しないままだ。

そもそも子どもに対してポジティブな感情がない

小学生くらいのときだっただろうか、母から「子どもを生む時に股を裂くのが(会陰切開のこと)死ぬほど痛かった」と何度も聞かされた。「お父さんと結婚する前に付き合ってた人がいたけど、おじいちゃんが倒れたこともあってその人と結婚できなかった。もし結婚してたらもっと余裕のある生活になってたかなぁ」という話もされた。

母のせいだと攻める気持ちはまったくないけれど、そういった話を聞くたびに「じゃあなんで結婚したの?」「なんで子どもを生んだの?」と頭のどこかで思っていたし、毎月ギリギリで生活していることをうっすら理解していたから「お母さんは結婚せず私たちを生まなかった方が幸せだったんじゃないか」と思う気持ちがぬぐえなかった。

もっと小さい時には、親(+祖母)から「あんたは育てるのが本当に大変だった」と言われ続けていた。公園で周りの子どもたちと仲良く遊ぶことができないし、スーパーでも道端でも癇癪を起こすと道に転がって喚き散らしていたらしい。「お母さんじゃなくて別の家の子だったら虐待されててもおかしくなかったかもよ」と冗談交じりによく言われた。

それも影響したのか、小さい頃から「私みたいな子どもが生まれたらすごく嫌だ」と思っていた。後に金原ひとみの『マザーズ』という小説を読んだ時、子どもを虐待してしまう母親の描写に「自分も子どもを生めばこうなってしまいそうで怖い」と背筋が凍った。

だから、中学高校くらいになって結婚や子どもの話になったとき「結婚したい」とか「子どもが○人ほしい」とか言う友達に対して、「なんで自分の遺伝子を残したいなんて思うんだろう(みんな自分に自信があって自分のことが好きなんだな)」と正直少し軽蔑の念を持ったものだった。

出産適齢期を過ぎようとする今、思うこと

物心ついたときから子どもや結婚に対するポジティブなイメージを持っていなかった私は、そろそろ出産適齢期からの脱却が始まるお年頃だ。婚活に一生懸命な友人もいるし、不妊治療を続ける知り合いもいる。私はどうかというと・・・

「もし自分が子どもがほしいと真剣に思っていたなら、今の状況(彼氏なし、出会いなし)は焦りが募って辛いだろうなぁ」と、正直他人事のような感覚だ。幸い(?)子どもがほしいと思ったことがないからそんな焦りはわいてこないし、絶対評価でいえば今の自分は結構幸せだと思っている。仕事面で不満はあるけれど、家族の制約で住む場所を制限されることなく転職先を探せているし、ある程度のお金を好きに使える生活が送れていて、思いついたときに行きたいところへすぐ行けるフットワークもある。

パートナーがいたらさらに豊かな毎日になるのかもしれないけれど、失った時のダメージを思い出すともうあんな目にあいたくないのがホンネ(年取った分心身とも回復に時間がかかるし・・・)。その分いろんなコミュニティで魅力的な人たちと知り合う機会はあって、そのつながりで自分の生活が豊かになっている実感が持てている。

・・・じゃあ、この後ろめたさはいったい何なんだ?

「少子高齢化が進んでいる。昨年の出生数が80万人を割った」というニュースを見ると「あぁ、私が生まなかったせいですね、何かすみません」と思っちゃうし、複数の子どもを育てながら仕事もしている友人の話を聴くと「あぁ、こんな好き勝手に昼から酒呑んだりふらっと旅に出たりして、何かすみません」と思っちゃうし。

人は1人では生きていけない以上、他者との比較を避けることはできない。絶対評価だけでは生きられない。だから、自分だけを見れば今も十分幸せだ、と思えるのに、ふと顔を上げて周りの人たちを認識した瞬間に、その幸福感が揺らいでしまう。

冒頭で上げた記事を、湯山玲子さんはこんな文章で締めている。

「子どもは産んでないけど、働いて自由になるおカネが稼げて、友人にも恵まれ、自分の意思で行動できる自由も手に入った。でも……」という思考から、「でも……」という最後の部分をあえて、意志を持って断絶してみよう。「子どもを産んで、子育てすることこそが女の幸せ」という呪いは、でも……以下の言霊に宿って、生き方や日常の気分を確実に損ねていく。「それで十分私は幸せ」と、これが呪いを消滅させるオラクル(託宣)。簡単だけど、効き目はありますよ!

湯山玲子『子のない人を後ろめたくする「子育てが女の幸せ」の呪い』2023.3.31 日経ARIA

世代でくくってはいけないのかもしれないけれど、私たち(出産適齢期を過ぎようとしている)世代がポジティブなトーンで「でも・・・」の部分を断絶することが、下の世代の心理的な負担を少しでも軽くすることにつながるのかもしれないな、と思う。語弊を恐れずに言えば、私はまず私の幸せのために生きているのであって、国のために、あるいは次の世代のために生きているんじゃない。それは後ろめたく思うことではなく、むしろそれが本来の姿なんだ!とまずは強く思い込むことが大事なんだよね、たぶん。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?