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百年前の「イラク戦争」

 3月20日はイラク戦争の開戦から二十周年だそうですが、今から百年ちょっと前にも第一次大戦の一部としてイラク地域で大規模な戦闘がありました。

開戦とバスラ

 現在のイラクの領域は、第一次大戦まではオスマントルコ帝国領でメソポタミア地方と呼ばれていた。一方で東に隣接するペルシャ(自称イラン)では、イギリスとロシアのあいだで勢力圏に関する協定が成立しており南部ではイギリスが石油開発を始めていた。当時イギリス海軍では艦船の燃料として石油の利用が始まったころで、その供給の大部分を中東に依存していた。ペルシャ南部で産出した原油はパイプラインで精製所に送られ、ペルシャ湾に面した港から運び出された。
 1914年夏に第一次大戦が始まり、秋にはトルコがドイツ側で参戦する可能性が高まると、石油搬出ルートの安全が懸念されるようになる。当時、イギリスで中東政策を担当していたのはインド政府だった。インド軍は中東への派遣を準備する。10月29日トルコ艦隊がロシア沿岸を砲撃し、11月2日ロシアがトルコに宣戦布告する。11月5日にイギリスもトルコに宣戦布告すると翌日にはイギリス軍がペルシャ湾岸トルコ領ファオに上陸する。

1914年のメソポタミア


 「インド派遣軍D Indian Expeditionary Force ‘D’ (IEFD)」と呼ばれる部隊はインド第6師団 6th (Poona) Division を基幹としていた。22日にはこの地方の中心都市であるバスラを占領、さらに北上して年内にはチグリス川とユーフラテス川の合流点であるクルナを確保し両川の合流点から河口までのシャト・アル・アラブ川を管制する。イラク南部のペルシャ湾岸地方はイギリス軍の支配するところとなり、石油搬出ルートの安全という戦略目的は満たされた。

バグダッドをめざして

 1915年春、タウンゼント中将 Charles Townshend (1861-1924) が第6師団長として、ニクソン中将 John Nixon (1857-1921) が IEFD 指揮官としてほぼ時を同じくして着任した。ニクソンは積極的な攻勢を望み、防御線をチグリス川方面ではアマラまで、ユーフラテス川方面ではナシリヤまで前進させることを命じた。タウンゼント自身は、石油搬出ルートを確保するという戦略目的はすでに満たされており、さらに前進するのは補給の負荷を増やして戦争資源の浪費にあたるという考えだったが、その一方で当人はヨーロッパ大陸西部戦線での勤務を熱望しておりそのためにも目立った功績を立てたいとも考えていた。6月、コリンジ George Corringe (1868-1945) 率いる第12師団がナシリヤを、タウンゼント率いる第6師団はアマラをめざして前進を開始した。

イギリス陸軍中将ニクソン

 砂漠と湿地が入り混じる地形のため、部隊が前進路かつ補給路として頼らざるを得なかったのが浅瀬や乱流があちこちに存在するチグリス川だった。それでもトルコ軍の抵抗そのものは微弱で、6月のうちにアマラを、7月にはナシリヤを占領した。

1915年夏のメソポタミア


 ニクソンはタウンゼントに「アマラをとったらクートに前進し、可能であればバグダッドをめざせ」と命令していた。しかしアマラでは衛生状態の悪さから伝染病が流行しておりタウンゼントも罹患する。ようやく体調が回復して前進が可能になったのは夏の終わりだった。9月、クートを占領したことは大勝利として大きく報道された。地中海で展開されていたダーダネルス作戦は手詰まりに陥っておりトルコに対する勝利は朗報と受け止められた。メソポタミアの中心都市であるバグダッドを奪取できればイギリスの威信は大いに高まる。そうした期待もあった。
 トルコ側もバグダッドの本格的な防衛に乗り出した。これまでメソポタミア方面に配置されていた第35師団に加えて第45師団と第51師団を増援し、第35師団長であるヌレッディン Nureddin (1873-1932) の指揮下に入れた。ドイツは作戦指揮のためにゴルツ元帥 Colmar von der Goltz (1843-1916) を派遣する。ゴルツは作戦計画に関する書籍も執筆した著名な戦略家で、明治時代の日本陸軍がドイツからの軍事顧問として希望していたのはゴルツだったともいわれる(実際にはメッケル Jakob Meckel (1842-1905) が派遣される)。

ドイツ陸軍元帥ゴルツ


トルコ軍指揮官ヌレッディン


 バグダッド前面に防衛戦を敷いたヌレッディンとタウンゼントは激突する。3日にわたる激戦では決着がつかず、双方が撤退して戦いそのものは終結した。しかしトルコ軍がバグダッドを背にしていたのに対して、イギリス軍はもっとも近い拠点であるクートから400マイルも離れていた。体勢を立て直したヌレッディンはクートめざして撤退するイギリス軍の追撃を始める。

1915年秋
イギリス軍のバグダッド攻撃と撤退

クートの包囲

 イギリス軍がクートにたどり着いたのは12月3日だった。トルコ軍は12月7日にクートを包囲する。タウンゼントはこの時にクートも撤退するべきだったという意見もあるが、タウンゼントはクートを保持して救援を待つことを選んだ。しかし当時イギリスの補給地点となっていたバスラの港は貧弱な地方の港にすぎなかった。荷役が間に合わないため物資を搭載した貨物船が港外に滞留していた。保管倉庫も足りず物資が屋外に積み上げられていた。それでもエルマー Fenton Aylmer (1862-1935) が指揮する第7師団が救出に派遣されるがアマラとクートの中間で前進を阻止された。
 1916年1月20日、ヌレッディンはゴルツと衝突して解任されハリル Halil Pasha (1881-1957) が後任となる。2月にはトルコ軍にさらに一個師団が増援され包囲は強化される。食糧は底をつき、病人も急増した。一方で包囲している側のトルコ軍でも4月19日にゴルツがコレラで死亡するなどの犠牲を出したが、4月29日にタウンゼントは1万3000名の兵士とともに降伏した。

イギリス陸軍中将タウンゼント

立て直し

 イギリス陸軍で一個師団がまるごと降伏したのは絶えて無いことだった。前年の占領が大きく報道されていただけに衝撃は大きかった。この年のはじめにはダーダネルス作戦が最終的に失敗で終わっており、度重なるトルコへの敗北はイギリスの威信をひどく傷つけた。もはや当初の石油搬出ルートの安全確保という目的を遥かにこえて、メソポタミア前線の根本的な立て直しがはかられた。現地部隊の指揮官の顔ぶれは一新された。バスラ港は全面的に改修されて面目を一新した。新しく道路が建設され、それまで皆無だった鉄道が敷設された。
 メソポタミア戦域の指揮官にはモード中将 Stanley Maude (1964-1917) が就任した。彼の指揮下には二個軍団、四個師団が編入され作戦については完全な自由委任を与えられた。本国のロバートソン参謀総長 William Robertson (1860-1933) からは、バグダッド以北への前進については本国の承認がないかぎり行なってはいけないと指示されていたが、モードはもともと追加の支援がないかぎり不可能だと考えていた。

イギリス陸軍中将モード

バグダッド占領

 1916年12月、モードは満を持して前進を開始した。モードの計画は補給を維持しながら着実に前進するという堅実なものだった。対するトルコ軍はパレスチナ戦線(アラビアのロレンスで知られる)や、ロシアと対するコーカサス戦線で劣勢にあり、メソポタミア戦線から戦力が抽出されていた。ハリルはクート付近に防衛戦を敷いたがモードはチグリス川を渡って対岸を進みトルコ軍の後ろに出た。トルコ軍は装備の大半を遺棄して退却した。イギリス軍はクートを占領する。

チグリス川を行くイギリス砲艦

 トルコ軍の抵抗を排除して、モードは3月11日にバグダッドに入城する。モードは「我々は征服者でも敵でもなく解放者としてやってきた」とステートメントを発表した。トルコの支配からアラブ人を解放した、というのだ。ハリルはイラク北部モスルに移って抵抗を続ける。

トルコ軍指揮官ハリル

 モードは当初の予定通りバグダッドにとどまり、これ以上前進しなかった。ロバートソンの指示もあったが、増援が得られない状況での前進は自殺行為だと考えていたらしい。彼が本国に要求した増援は拒否されていた。11月8日、モードはバグダッドでコレラのため死去する。その時に住んでいた家はゴルツが住んでいた家だという。

北上と休戦

 モードの後任として第3軍団長だったマーシャル William Marshall (1865-1939) が就任した。地域の実情をよく知るマーシャルはモードの方針を踏襲してバグダッドにとどまる。しかしその方針は春になって変更を余儀なくされる。コーカサス戦線でトルコ軍が前進を続けた結果、イラク北部のモスルがロシア軍の手に落ちる可能性が懸念されるようになったのだ。
 猛暑の季節に入る前にいったん前進は停止する。10月に入るとトルコとイギリスのあいだで休戦交渉が始まった。交渉を有利に進めるため、できるだけ多くの地域を占領するよう本国から指示され、前進を再開する。2日間で120キロ前進するなどの快進撃を続けたが、10月30日に休戦が発効したときにはイギリス軍はまだモスルには入っていなかった。しかしマーシャルは前進をとめなかった。トルコ軍の抗議を無視してモスルに入ったのは 11月14日のことである。

イギリス軍の北上

 休戦によって解放されたタウンゼントはイギリスに帰国したが陸軍では彼に新たなポストを与えず、陸軍軍人としてのキャリアは終わった。1920年には下院議員に当選し軍事問題や中東問題について発言したが、かつての部下の多くがクートでのタウンゼントの判断を批判したため信頼を失い1922年の選挙には立候補しなかった。その後もトルコとイギリスの仲介に動いたがガンのため1924年訪問先のパリで死去する。

 戦後、メソポタミア地域はオスマントルコ帝国から切り離され、一時イギリスの委任統治領となるがイラク王国として独立する。イラク王に就任したのは預言者ムハンマドの子孫とされるファイサル Faisal I (1885-1933) である。聖地てあり根拠地であるへジャズ地方をサウド家に奪われ、シリアがフランスに割り当てられたために替わりにイラク王の地位が提供されたのだ。しかし1958年、軍のクーデターにより国王と一族は惨殺され共和国となりバース党による政権が誕生する。

おわりに

 依然として混迷した状況にあるイラクですが、その直接の原因がアメリカによるイラク戦争であることは間違いないにしても、その前にも色々な前史があることを知っておくともう少し事態が立体的に見ることができるのではないでしょうか。百年以上前にこの地域で何があったかというのもその一部です。
 あえて評価は述べません。評価は読んだ方がそれぞれ考えていただければと思います。

 あと、本文のなかには書ききれませんでしたが、タウンゼントは侯爵家の分家の出になります。名字で気づいた人もいたかもしれません。タウンゼント家についてはいずれまた。

 参考文献になります。

 画像はウィキペディアの他に一部ネットで拾ったものも使用しています。

 ではもし機会がありましたらまた次にお会いしましょう。

(カバー画像は塹壕のイギリス軍インド兵)

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