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嘉永七年のクリミア戦争

 クリミア戦争はロシアと英仏の戦争ですがちょうど日本では幕末になります。ヨーロッパだけでなく太平洋でも戦闘がありました。

クリミア戦争

 ペリーが浦賀にやってきた嘉永6(1853)年は、クリミア戦争が始まった年でもあった。ロシアとトルコの間で始まった戦争には、翌年早々にイギリスとフランスがトルコ側に立って参戦し、主に黒海沿岸のクリミア半島で激しく戦い、それがクリミア戦争という呼び名の由来になったのだが、バルト海でも英仏軍とロシア軍のあいだで戦闘があった。そしてそれは太平洋にも飛び火したのである。

 アメリカが日本にペリー Matthew Perry (1794-1858) を派遣することを計画していると知ったロシアは、対抗してプチャーチン Evfimy Putyatin (1803-1883) を派遣した。ペリーが日本を去って一月ほどのち、プチャーチンは長崎に到着した。長崎奉行を通じて外務大臣の親書を江戸に送ったがなかなか返事は得られない。苛立ったプチャーチンは直接江戸に向かうと脅したが、ちょうど将軍家慶が死去したこともあり、翌春に再訪することを言い残していったん長崎を去ることにした。

 プチャーチンは朝鮮半島と沿海州(当時は清国領)沿岸を測量しながら北上していたが、フリゲートディアナ Diana がクリミア戦争に英仏が参戦したというニュースを携えて合流した。プチャーチンは旗艦をディアナに移す。

英仏艦隊

 1854(嘉永7)年はじめ、太平洋にある英仏艦隊の戦力は大きなものではなかった。プライス少将 David Price (1790-1854) 率いるイギリス太平洋戦隊と、フェヴリル=デポワント少将 Auguste Febvrier-Despointes (1796-1855) のフランス艦隊は、ともにペルーのカヤオ港にいるときに本国から命令をうけ、太平洋地域でのロシア海軍による通商破壊戦に対応することになる。

デヴィッド・プライス少将

 当時アラスカはロシア領でノヴォ・アルハンゲルスク(現シトカ)にはロシア海軍の前進基地があった。まず一部をカリフォルニア沖の警戒に派遣したうえで、残る本隊はハワイホノルル港を経てノヴォ・アルハンゲルスクを攻略する。しかしノヴォ・アルハンゲルスクにはロシア軍艦はおらず、英仏艦隊は極東カムチャッカ半島のペトロパブロフスクをめざした。

 イギリス軍艦3隻、フランス軍艦3隻、総兵力1700名の英仏艦隊は8月末にペトロパブロフスク前面に到着した。一方のプチャーチンは、英仏艦隊と外洋で戦闘することも商船を襲撃することも避け、オホーツクから兵士をペトロパブロフスクに輸送して戦力を集中させた。艦隊主力を沿海州に退避させたうえでプチャーチンは再び長崎に向かった。

第一次攻撃

 カムチャッカ半島東岸にあるペトロパブロフスクの街は、アヴァチャ湾の中に飛び出した2本の岬に囲まれた、いわば二重の湾に面していた。8月28日、アヴァチャ湾に侵入した英仏艦隊は蒸気船ヴィラーゴ HMS Virago を街に接近させてロシア軍の配置を偵察する。翌日にかけての威力偵察でロシア軍の戦力と配置をおおむね把握したと考えたプライスは29日夕方、自らの旗艦プレジデント HMS President で作戦立案会議を開く。

 プライスは港口東側の岬の根元にある砲台(第2砲台)が鍵であるとして、西側岬先端の第1砲台を拘束しながら主力で第2砲台とその背後に停泊しているロシアフリゲートオーロラ Aurora を攻撃するという作戦を提案した。フランス側の同意も得たプライスは翌30日から準備にとりかかる。ところがこの日、プライス自身が自室で拳銃自殺してしまう。動機は不明だがフランス軍との共同作戦に困難さを覚えたのではないかといわれる。イギリス軍の指揮はフリゲートピケ HMS Pique 艦長のニコルソン Sir Frederick Nicolson, 10th Bt. (1815-1899) がとることになった。

 攻撃は1日遅れて、しかし計画通りに行なわれた。はじめに周囲の砲台を制圧したうえで第2砲台とオーロラに砲撃を集中する。砲戦は英仏側に有利に進んだ。ヴィラーゴにほロシア軍の砲弾が命中して船体に穴があいたがすぐにふさがれた。ところがフランスフリゲートフォルテ Forte が退避したいと信号を送ってきた。風にかかわらず行動できるのは英仏艦隊で唯一の蒸気船であるヴィラーゴだけである。ヴィラーゴはフォルテを曳航して戦場を離れた。それをきっかけに戦闘は終結する。

上陸

 9月1日、プライスの遺骸を埋葬するためにヴィラーゴはアヴァチャ湾の反対側に向かった。そこで遭遇したのがアメリカ人の捕鯨業者だった。彼らは夏のあいだテント暮らしをしながら近海で捕鯨を行なっているという。ヴィラーゴの乗組員はこのアメリカ人からペトロパブロフスクの街は陸側の防備が弱点で、上陸して背後のニカルスキ丘に大砲を上げて攻めれば簡単に陥落するだろうと聞かされる。

北側からみたペトロパブロフスク。
市街地の西(右)に丘がそびえる。

 ニコルソンとフェヴリル=デポワントは次の策に悩んでいた。フェヴリル=デポワントは撤退を望んだがニコルソンはまだ戦意を失なっていなかった。アメリカ人の情報をもとにニコルソンは上陸作戦を計画して作戦会議に提案する。イギリス軍の艦長は3人全員が賛成した。フランス軍の艦長は2人が反対して1人は棄権し、残るフェヴリル=デポワントがキャスティングヴォートを握ることになった。彼自身は作戦には否定的だったが、前回の戦闘でフランス軍が攻撃を中断させたことを気にしていた。フランス軍が攻撃を恐れているように見られたくないと思ったフェヴリル=デポワントは棄権し、3対2で作戦案は可決された。

 ロシア軍の守備隊は兵士や水兵など1000人ほどで海軍大佐ザヴォイコ Vasily Zavoyko (1809-1898) が指揮していた。英仏軍は700名の部隊を二波にわけて上陸させる計画を立案した。9月5日の朝、英仏混成の海兵隊と、イギリス軍水兵からなる第一波がペトロパヴロフスクの西側に上陸した。街と上陸地点のあいだにはニカルスキ丘が横たわっている。海兵隊はこの丘の頂上を奪取し、イギリス軍水兵は丘の北側を迂回して街を背後から襲う計画だった。両部隊は上陸後ただちに前進をはじめた。続いて、フランス軍水兵と英仏混成の水兵が第二波として上陸した。フランス軍水兵は海兵隊が確保した丘の頂上に大砲を運び上げ、英仏混成の水兵が上陸地点を守ることになっていた。

 しかしフランス軍水兵は砲を運んで丘の頂上に登る道をなかなみつけられず、前進を始められるようになったのは45分後だった。イギリス軍水兵ははじめ順調に前進していたがやがてロシア軍の防衛線に遭遇する。味方の苦戦をみた海兵隊は砲の到着をまたず丘を下って戦闘に加入したがロシア軍の砲撃で大きな損害を出してしまった。味方の艦隊からは丘越しになり支援を受けられない。ようやく丘の頂上にたどりついたフランス軍水兵は赤シャツを着たロシア水兵を攻撃したが、実はそれはイギリス海兵隊の赤い上着だった。

ペトロパブロフスクの攻防戦。
左が北。

 海兵隊は壊滅状態になり、イギリス海兵隊の指揮官は戦死した。連合軍は撤退をはじめる。イギリス軍水兵が後衛をつとめた。フランス軍は丘を下ってボートに乗り込もうとした。イギリス軍水兵は上陸地点を見下ろす丘の尾根をいったんは確保したが、勢いに乗るロシア軍の攻撃をうけて浜辺に追い落とされる。ロシア軍に見下ろされる形となった連合軍は撤退のためにボートに乗り込もうとしているところを狙い撃ちされた。イギリス海兵隊の旗手は戦死し、軍旗は海に落ちた。52人の死者・行方不明を残して連合軍上陸部隊は撤退した。イギリス海兵隊の軍旗は翌日、海岸にうちあげられているのがみつかった。

ロシア軍に捕獲されたイギリス海兵隊軍旗

 連合軍艦隊は、港内にあったスクーナーアナディル Anadyr を焼き捨て、輸送船シトカ Sitka を捕獲して引き上げた。9月7日まで周辺海域にとどまったが、これ以上の攻撃は断念してイギリス艦隊はバンクーバーに、フランス艦隊はサンフランシスコに帰還した。

後日談

 長崎に到着したプチャーチンは、イギリス軍艦が直前まで在泊してロシア艦隊を探していたことを知る。江戸からの返事もまだ届いておらず、長崎にとどまらずに江戸に向かった。結局、幕府がアメリカに対して開港した下田で交渉が行われることになり、翌年はじめに日露和親条約が締結される。交渉中に安政地震で起きた津波にあい、乗艦ディアナが破壊されたために日本ではじめてとなる洋式帆船ヘダ Heda が建造されたのは有名な話である。

 クリミアでもバルト海でも一方的に敗退を続けていたロシアでは、極東でのロシア軍の「大勝利」に熱狂した。その一方で英仏軍を撃退したペトロパヴロフスクでは、予測される次の攻撃にどう備えるか話し合われた。孤立して支援が難しいペトロパヴロフスクに十分な兵力を置き続けるのは得策ではないとされ、一部を残して大部分をアムール川流域にひきあげることになった。ザヴォイコは1855年の厳冬をついて大半の兵力を率いてペトロパヴロフスクを離れた。その年の夏、英仏連合軍は再びペトロパヴロフスクを襲ったがロシア軍の抵抗はまったくなく、肩透かしをくった形で占領することもなく引き上げた。

おわりに

 クリミア戦争というと遠いヨーロッパの出来事のようですが、実は日本からそれほど遠くないカムチャッカ半島で戦闘があり、しかもちょうどその時期に開国を求める列強が来航していたというのを知ったときは驚きました。世界史を縦軸だけではなく横軸でみることは大事だなあと改めて思ったものです。
 クリミア戦争と日本の開国は直接の関連はなさそうですが、下手したら日本の近海で英露の衝突があったかもしれません。

 今回の記事はほぼ全面的にウィキペディアに頼っていますが、英語版の記事には難解な個所があり、参考にと読んだ他言語版ではまったく異なる説明があったりしてなかなか悩ましかったです。ロシア語版は愛国心丸出しである意味興味深かったですが。

 画像はウィキペディアから引用しました。

 ではもし機会がありましたらまた次回にお会いしましょう。

(カバー画像はペトロパブロフスクを攻撃する連合軍艦隊)

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