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日本海軍軍人伝

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日本海軍の軍人について
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#軍令部総長

軍令部総長伝(3) 島村速雄

軍令部総長伝(3) 島村速雄

 歴代の海軍軍令部長・軍令部総長をとりあげます。今回は島村速雄です。
 総説と前回の記事は以下になります。

常備艦隊参謀 島村速雄は安政5(1858)年9月20日に土佐藩の郷士の家計に生まれた。幼名は干支にちなんで午吉。父を早くに亡くし、生活が苦しいなかで学費が不要な海軍兵学寮を選んだ。30名からなる第7期生はのちに4人の海軍大将(うち二人は元帥)を出す希有なクラスだが、その中で島村は入寮から卒

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軍令部総長伝(2) 中牟田倉之助

軍令部総長伝(2) 中牟田倉之助

 歴代の海軍軍令部長・軍令部総長をとりあげます。今回は中牟田倉之助です。
 総説と前回の記事は以下になります。

朝陽船将 中牟田倉之助は天保8(1837)年2月24日に佐賀藩士である真木家に生まれた。同じ佐賀藩の中牟田家に養子に入る。幼名は武臣とされているが実名のように思える。ペリー来航による開国をうけて安政2(1855)年に幕府が長崎海軍伝習所を開設すると、地理的にも近い佐賀藩は諸藩のなかでも

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軍令部総長伝(1) 伊藤雋吉

軍令部総長伝(1) 伊藤雋吉

 歴代の海軍軍令部長・軍令部総長をとりあげます。今回は伊藤雋吉です。
 総説は以下の記事になります。

金剛艦長 伊藤雋吉(「しゅんきち」とも)は天保11(1840)年3月28日に丹後国田辺藩士の家に生まれた。現在の京都府舞鶴市に属するが軍港で知られる東舞鶴ではなく、城下町で商港の西舞鶴になる。戊辰戦争には直接参加せず、維新後に東京に出て大村益次郎に兵学を学んだ。その後兵部省に出仕するがはじめは文

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軍令部総長伝 総説

軍令部総長伝 総説

 歴代の軍令部総長・海軍軍令部長をとりあげていきます。
 まず総説になりますが軍令部の組織については以前に記事を書いているのでそちらをご覧ください。

軍令組織のはじまり 日本陸軍がその範をとったプロイセン参謀本部は普墺戦争でまずその威力を発揮したが、有名になったのは普仏戦争だった。桂太郎はその直後にドイツに留学しており、帰国後に長州の先輩にあたる山縣有朋の支持を得て日本陸軍にドイツ式の参謀本部の

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海軍皇族軍人伝(3) 伏見宮博恭王

海軍皇族軍人伝(3) 伏見宮博恭王

 海軍軍人となった皇族をとりあげます。今回は伏見宮博恭王です。
 総説と個別の伝を立てるまでもなさそうな皇族あるいは皇族が臣籍降下した華族出身の海軍軍人は以下の記事にまとめました。

 前回の記事は以下になります。

ドイツ留学 博恭王は明治8(1875)年10月16日に伏見宮貞愛親王の長男として誕生した。はじめ愛賢王と名乗る。父貞愛親王は当時17歳で結婚前だったが女官に子供を生ませたことになる。

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聯合艦隊司令長官伝 (31)豊田副武

聯合艦隊司令長官伝 (31)豊田副武

 歴代の聯合艦隊司令長官について書いていますが、前身の常備艦隊や聯合艦隊常設化以前の第一艦隊司令長官もとりあげます。今回は豊田副武です。
 総説の記事と、前回の記事は以下になります。

第七潜水隊司令 豊田副武は明治18(1885)年5月22日に大分県杵築に生まれた。父はもと杵築藩に仕える漢学者だった。江田島の海軍兵学校に入校して海軍将校をめざした。在校中に日露戦争がはじまるが豊田たちが卒業したと

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聯合艦隊司令長官伝 (24)谷口尚真

聯合艦隊司令長官伝 (24)谷口尚真

 歴代の聯合艦隊司令長官について書いていますが、前身の常備艦隊や聯合艦隊常設化以前の第一艦隊司令長官もとりあげます。今回は谷口尚真です。
 総説の記事と、前回の記事は以下になります。

常磐艦長 谷口尚真は明治3(1870)年3月17日に広島藩士の家に生まれた。加藤友三郎などと同郷ということになる。海軍将校を志して海軍兵学校に入校し、明治25(1892)年7月26日に第19期生50名のうち5位の成

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イフ - ロンドン軍縮条約問題は避けられたか

イフ - ロンドン軍縮条約問題は避けられたか

 結構前のことですが、太平洋戦争を避けるためには歴史上の事件のなにが変わればよかったか、という思考実験をしたことがありました。いわゆる「イフ戦記」のプロット作りのようなものですが、超兵器の発明とか革新的な戦術の考案とかクーデターで政権ががらっと置き換わるとかの派手な手段ではなく、ちょっとした、しかし現実でもあり得た現象という縛りで太平洋戦争の開戦から遡って考えた結論が

珍田侍従長があと一年長生き

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聯合艦隊司令長官伝 (23)加藤寛治

聯合艦隊司令長官伝 (23)加藤寛治

 歴代の聯合艦隊司令長官について書いていますが、前身の常備艦隊や聯合艦隊常設化以前の第一艦隊司令長官もとりあげます。今回は加藤寛治です。
 総説の記事と、前回の記事は以下になります。

三笠砲術長 加藤寛治は明治3(1870)年11月2日に越前福井藩士であった加藤直吉の長男として生まれた。加藤直吉は戊辰戦争で新政府軍に従軍したあと海軍に出仕し、西南戦争では瀬戸内海の警戒にあたったりしたが、海軍大尉

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聯合艦隊司令長官伝 (22)鈴木貫太郎

聯合艦隊司令長官伝 (22)鈴木貫太郎

 歴代の聯合艦隊司令長官について書いていますが、前身の常備艦隊や聯合艦隊常設化以前の第一艦隊司令長官もとりあげます。今回は鈴木貫太郎です。
 総説の記事と、前回の記事は以下になります。

第四駆逐隊司令 鈴木貫太郎は慶応3(1867)年12月24日に下総関宿藩士の家に生まれた。当時父は和泉にある関宿藩飛び地の代官をつとめており、鈴木も和泉で生まれたが維新後は関宿に帰還する。その後前橋に移り住んだが

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聯合艦隊司令長官伝 (18)山下源太郎

聯合艦隊司令長官伝 (18)山下源太郎

 歴代の聯合艦隊司令長官にについて書いていますが、前身の常備艦隊や聯合艦隊常設化以前の第一艦隊司令長官もとりあげます。今回は山下源太郎です。
 総説の記事と、前回の記事は以下になります。

海軍軍令部第一班長 山下源太郎は文久3(1863)年7月30日に米沢藩士の家に生まれた。米沢藩は戊辰戦争で当初幕府側だったが途中で新政府に恭順している。西南戦争のあとに海軍兵学校に入校して海軍将校をめざした。生

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海軍大臣伝 (2)樺山資紀

海軍大臣伝 (2)樺山資紀

 歴代の海軍大臣について書いています。今回は樺山資紀です。
 前回の記事は以下になります。

陸軍軍人として 樺山資紀は天保8(1837)年11月20日、薩摩藩士の家に生まれた。幼名は覚之進。同僚の樺山家の養子となる。戊辰戦争に従軍したあと、新政府の陸軍に出仕して明治4(1871)年には陸軍少佐に任官。明治7(1874)年には陸軍中佐に進み、西南戦争では熊本鎮台参謀長の職にあり、司令官の谷干城中将

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海軍大臣伝 (3)仁礼景範

海軍大臣伝 (3)仁礼景範

 歴代の海軍大臣について書いています。今回は仁礼景範です。
 前回の記事は以下になります。

揺籃期の海軍で 仁礼景範は薩摩藩士の出身で、天保2(1831)年2月24日に生まれた。幕末にはすでに壮年で、倒幕に奔走したが慶応2(1866)年に藩命でアメリカに留学したため戊辰戦争には参戦していない。明治元(1868)年に帰国、新政府に出仕してはじめ兵部省、のち海軍省に勤務した。明治7(1874)年海軍

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海軍大臣伝 (13)永野修身

海軍大臣伝 (13)永野修身

 歴代の海軍大臣について書いています。今回は永野修身です。
 前回の記事は以下になります。

佐官まで 永野修身は明治13(1880)年6月15日に高知県でもと土佐藩士族の家に生まれた。海南中学を経て明治31(1898)年に海軍兵学校に入校、明治33(1900)年12月13日に卒業して海軍少尉候補生を命じられた。卒業成績は第28期生105名中2位。首席の波多野貞夫が技術方面に進んだ(のち火薬廠長)

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