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海軍大臣伝 (3)仁礼景範

 歴代の海軍大臣について書いています。今回は仁礼景範です。
 前回の記事は以下になります。

揺籃期の海軍で

 仁礼にれ景範かげのりは薩摩藩士の出身で、天保2(1831)年2月24日に生まれた。幕末にはすでに壮年で、倒幕に奔走したが慶応2(1866)年に藩命でアメリカに留学したため戊辰戦争には参戦していない。明治元(1868)年に帰国、新政府に出仕してはじめ兵部省、のち海軍省に勤務した。明治7(1874)年海軍大佐に任用され武官に転じる。その後朝鮮釜山に駐在した時期もあったが、西南戦争では長崎に派遣されて西郷さいごう軍と戦う海軍部隊の支援にあたった。
 明治11(1878)年には海軍兵学校長として海軍将校の養成にあたり、明治13(1880)年には海軍少将に昇進した。明治14(1881)年、横浜の東海鎮守府司令長官に就任し東日本の防衛を任されることになる。明治15(1882)年に機動運用をめざした中艦隊が編成されると初代司令官に任命された。

海軍軍事部

 この少し前、陸軍では陸軍省から作戦指揮をつかさどる参謀本部が独立していた。プロイセン参謀本部に範をとったものだろう。海軍では作戦指揮は海軍省で担当していたが、独立させるかどうかはともかくとしても作戦指揮に専従する組織をもうけるべきという意見もあらわれ、明治17(1884)年2月13日、海軍省の外局として海軍軍事部が設立され、初代の部長に仁礼が就任した。7月7日には維新以来の功績により子爵を授けられて華族に列せられ、明治18(1885)年6月29日には海軍中将に昇進した。
 陸軍の参謀本部では、戦時の大作戦は統一された指揮系統のもとで実施されるべきという意見が強く、陸海軍の作戦指導組織を合同させることが提案された。海軍としても一般論としては反対が難しかったらしく、押しきられる形で明治19(1886)年3月16日、海軍軍事部は参謀本部に組み込まれて参謀本部海軍部に改編され、既存の参謀本部陸軍部と並立して参謀本部長に隷属することになった。仁礼は参謀本部次長に就任した。参謀本部長は陸軍大将有栖川宮ありすがわのみや熾仁たるひと親王しんのう、陸軍側の参謀本部次長は曽我そが祐準すけのり陸軍中将(のち小沢おざわ武雄たけお中将)である。
 皇族とはいえ陸軍の参謀本部長に隷属する形になった海軍は反発した。妥協の産物として明治21(1888)年5月14日、参謀本部陸軍部と海軍部をそれぞれ陸軍参謀本部、海軍参謀本部と改称し、参謀本部次長を陸軍・海軍参謀本部長に格上げした上で、全軍の幕僚長として皇族将官の参軍を置くこととした。形の上では対等となり、参軍の要件は陸軍に限定されなくなったものの、実情は何も変わりがなかった。海軍軍人である皇族としては有栖川宮威仁たけひと親王(熾仁親王の弟)が日清戦争後にようやく海軍少将に達するというありさまで当分は適任者がいなかった。官職の要件として「皇族」に限定するという非合理さ、アナクロニズムも批判され、参軍官制は1年ももたず明治22(1889)年3月8日に廃止された。陸軍参謀本部は旧名の参謀本部に復帰、参謀総長には陸軍大将熾仁親王が、参謀次長には川上かわかみ操六そうろく少将が就いた。海軍参謀本部は海軍参謀部と改称し、海軍大臣に隷属した。参謀本部条例では「帝国全軍の参謀総長」と規定したが海軍参謀部の側には参謀総長の指揮に関する規定は盛り込まれなかった。仁礼は横須賀鎮守府司令長官に移り、海軍参謀部長には伊藤いとう雋吉としよし海軍中将が補職された。

海軍大臣

 仁礼は明治24(1891)6月17日に海軍大学校長に移ったが、明治25(1892)年8月8日に第二次伊藤博文内閣の海軍大臣に親任された。前任の樺山かばやま資紀すけのりは軍備拡張予算をめぐって議会と衝突し、予算は否決されて衆議院の解散をもたらした。内閣の交代にあたって樺山は留任できず、60を越えた仁礼が引っ張り出されることになった。仁礼が背負った喫緊の課題は清国とのあり得べき戦争に備えた軍備増強だったが、民力休養をスローガンとする議会多数派との対立構造は変わっていなかった。
 政府が議会に提出した予算は激しい攻撃をうけた。予算を要求するよりも海軍自身がまず倹約につとめて冗費を削減すべきだとして予算の大幅な削減を主張して、政府との論戦は平行線をたどった。議会も説得できず、かといって海軍が仮想敵国である清国に対して明らかに劣勢である状況は放置できなかった。板挟みにあった仁礼と政府は禁じ手を打つ。明治天皇に懇願して詔勅を出してもらうことにしたのだ。明治26(1893)年2月11日、明治天皇は詔勅により海軍軍備増強のためプライベートな内廷費の一部をあてることを表明した上で、官吏に対して俸給の一部を提供することを求めた。この詔勅で議会の雰囲気は一変し、政府案に近い予算が2月中に議会を通過した。予算の成立をみて3月11日、仁礼海軍大臣は辞任し予備役に編入された。後任は西郷さいごう従道つぐみちの再任となった。

 仁礼は枢密顧問官に親任され、枢密院で天皇の諮問に応えることになる。その直後、5月20日に海軍参謀部は海軍軍令部と改称、海軍省から独立して天皇に直隷する。平時は陸軍の参謀本部と並立するが、戦時には戦時大本営が設置され、参謀総長が全軍の幕僚長に就任しその下で陸軍部の首席幕僚に参謀次長、海軍部の首席幕僚に海軍軍令部長があてられるとされた。戦時だけとはいえ海軍が陸軍の下風に立たされる状況はなおも続く。この不平等が解消されるのは仁礼没後の明治36(1903)年のことである。
 仁礼景範は明治29(1896)年に後備役に編入され、明治33(1900)年11月22日に死去した。満69歳。海軍中将正二位勲一等子爵。

海軍中将 子爵 仁礼景範 (1831-1900)

おわりに

 仁礼景範は歴代海軍大臣のなかでももっとも知られていない部類に入るでしょう。在任期間は自分の計算では下から三番目、海軍大臣経験者では唯一海軍中将にとどまった人物です。しかし日本海軍の歴史を述べるときに外すことができない明治26年の詔勅のときの海軍大臣が仁礼景範だったということに、恥ずかしながら今回はじめて気づきました。

 次回は山本権兵衛になります。ではまた次回お会いしましょう。

(カバー画像は明治26年度予算で建造された戦艦富士)

附録(履歴)

天保 2(1831). 2.24 生
明 4(1871). 9. 7 兵部省六等出仕
明 5(1872). 3. 8 海軍省六等出仕
明 5(1872). 4.18 海軍省会計局分課兼営繕掛
明 5(1872).11. 2 海軍省秘史局分課
明 5(1872).11.14 海軍提督府詰
明 5(1872).11.18 海軍提督府詰/海軍少丞
明 6(1873). 1.27 海軍提督府隔日出勤
明 6(1873). 3.13 免海軍提督府詰
明 6(1873). 6.18 海軍少丞/軍務掛
明 6(1873).11.10 春日乗組
明 7(1874). 6. 5 提督府出勤/海軍水兵本部出勤
明 7(1874). 6.12 海軍大佐 海軍少丞/海軍水兵本部出勤
明 7(1874). 9.24 海軍少丞
明 7(1874).10.23 高雄丸乗組
明 8(1875).12.23 朝鮮国釜山浦在勤
明10(1877). 3.30 長崎臨時海軍事務局長
明11(1878). 3.12 東海水兵本営長
明11(1878). 4. 5 海軍兵学校長
明13(1880). 2. 4 海軍少将
明13(1880).12. 8 免海軍兵学校長
明14(1881). 6.16 東海鎮守府長官
明15(1882). 6.16 東海鎮守府司令長官/海軍機関学校長
明15(1882). 7.31 東海鎮守府司令長官/海軍機関学校長/中艦隊司令官
明15(1882).10.12 中艦隊司令官
明17(1884). 1.21 海軍省軍務局長
明17(1884). 2.13 海軍軍事部長
明17(1884). 7. 7 子爵
明18(1885). 6.29 海軍中将
明19(1886). 2. 4 海軍軍事部長/海軍将官会議議員
明19(1886). 3.16 参謀本部次長
明21(1888). 5.14 海軍参謀本部長/海軍将官会議議員
明22(1889). 3. 8 横須賀鎮守府司令長官/海軍将官会議議員
明24(1891). 6.17 海軍大学校長/海軍将官会議議員
明25(1892). 8. 8 免本職兼職 海軍大臣
明26(1893). 3.11 予備役被仰付 免海軍大臣 枢密顧問官
明29(1896). 2. 1 後備役被仰付
明33(1900).11.22 死去

※明治5年までは旧暦

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