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海軍皇族軍人伝(3) 伏見宮博恭王

 海軍軍人となった皇族をとりあげます。今回は伏見宮博恭王です。
 総説と個別の伝を立てるまでもなさそうな皇族あるいは皇族が臣籍降下した華族出身の海軍軍人は以下の記事にまとめました。

 前回の記事は以下になります。

ドイツ留学

 博恭ひろやす王は明治8(1875)年10月16日に伏見宮ふしみのみや貞愛さだなる親王の長男として誕生した。はじめ愛賢なるかた王と名乗る。父貞愛親王は当時17歳で結婚前だったが女官に子供を生ませたことになる。のち皇族の有栖川宮ありすがわのみやから妃を迎えると愛賢王は庶子として伏見宮の後継者から排除される。貞愛親王の兄博経ひろつね親王は出家していたが維新で還俗し華頂宮かちょうのみやを名乗った。アメリカ海軍兵学校に留学するが病を得て帰国し26歳で夭折する。子息の博厚ひろあつ親王が継承するもやはり少年のうちに亡くなる。当主がいなくなった華頂宮を愛賢王が継承し、博恭王と改名した。伏見宮では妃が生んだ邦芳くにか王が嫡子として継嗣に立てられる。
 ほぼ同世代にあたる皇族のうち久邇宮くにのみや邦彦くによし王と梨本宮なしもとのみや守正もりまさ王は陸軍に進んだ。博恭王は従兄弟の山階宮やましなのみや菊麿きくまろ王とともに海軍に進むことになり築地の海軍兵学校に予科生徒として入校する。兵学校が江田島に移転してまもなく、ふたりは兵学校を退校してドイツに留学する。お付き武官として片岡かたおか七郎しちろうが随行した。ドイツの軍港キールに所在したドイツ帝国海軍アカデミーは兵学校とも大学校とも表現されるが、同じ建物の中に生徒コースと将校コースをあわせもつ日本の海軍兵学校と海軍大学校の両方の機能をもった学校だったようだ。ドイツ留学からアカデミーに通学するまで2年、通学をはじめてから正式に入校するまで半年かかっており慣れないドイツでの苦労がうかがわれる。海軍での先輩にあたる威仁たけひと親王はイギリス、依仁よりひと親王はフランスに留学しており皇族がドイツ海軍に留学するのははじめてだった。明治26(1893)年3月30日に海軍少尉候補生を命じられ、明治27(1894)年4月20日に海軍少尉に任官した。海軍兵学校第18期生の少尉任官の直で、以後第18期生のクラスヘッド(加藤かとう寛治ひろはる)と並んで進級していく。
 少尉任官からまもなく日清戦争がはじまるがそのままドイツにとどまりアカデミーの将校コースに入校する。三国干渉のニュースを当事国のひとつであるドイツで聞くことになる。2年のコースを1年で繰り上げ帰国し、巡洋艦厳島いつくしまに分隊士として配属される。同じ三景艦の松島まつしま乗組のあと砲術練習所で砲術を学び、ついで呉で短期間水雷艇勤務を経験する。明治30(1897)年12月1日に海軍中尉に進級し戦艦富士ふじ分隊長に補せられた。直後の12月27日に海軍大尉に進級している。この年は海軍中尉と海軍中佐の階級が11年ぶりに復活して、通常とは異なる進級がおこなわれていた。日清、日露戦役間の日本海軍で装甲巡洋艦浅間あさま分隊長、砲術練習所教官、装甲巡洋艦出雲いずも分隊長、戦艦朝日あさひ分隊長、海軍大学校選科学生、戦艦三笠みかさ分隊長と皇族とは思えない現場勤務を重ねた。一見して当時の最新鋭艦への配属が多いが、砲術畑という本人の専門によるのと同時に、皇族に配慮したという面も否定できない。本職の海軍軍人と同等の勤務を経験してきたという自負はのちのち博恭王の言動に影響する。

三笠分隊長

 明治36(1903)年7月29日に海軍少佐に進級する。日露戦争を目前にして日本海軍は緊張に包まれていたが、博恭王はそれとは別の問題も抱えていた。実家である伏見宮の後継者とされていた異母弟邦芳王が「不治の病」により継承が困難として廃嫡された。具体的な病名は公表されていないがなんらかの精神疾患だったと伝わる。有栖川宮から入った貞愛親王妃(邦芳王の母)は精神的に不安定だった。博恭王が伏見宮の継嗣として実家に戻ることになり、華頂宮には博恭王の次男でわずか2歳の博忠ひろただ王が残って継承した。戦争準備と、移籍にともなう手続きや儀式、転居作業などを並行しておこなうことを強いられる。
 正式に伏見宮に復帰した直後に東郷とうごう平八郎へいはちろう聯合艦隊長官の旗艦三笠の分隊長として出征する。半年にわたる旅順封鎖を経て、8月10日に脱出をはかったロシア艦隊とのあいだに黄海海戦が起こる。博恭王は砲術科の分隊長として後部砲塔の指揮をとっていた。この海戦で博恭王は負傷する。敵弾によるとされているが、塘発とうはつ(発射された砲弾が砲身内で過早爆発する事故)によるのではないかともいわれている。いずれにせよこのとき着用していた血染めの軍服が永く兵学校の参考館で展示されるなど実戦で負傷したという「実績」は大きかった。
 負傷した博恭王はいったん艦隊をおりる。巡洋艦新高にいたか副長として復帰したときには日本海海戦はもちろん樺太攻略作戦も終わっていた。凱旋のあとは海防艦沖島おきのしま副長、巡洋艦浪速なにわ副長を経て明治39(1906)年9月28日に海軍中佐に進級する。装甲巡洋艦日進にっしん副長を最後にいったん艦隊をおり、海軍大学校選科学生のあとイギリス駐在を命じられる。2年あまり駐在して帰国し、巡洋艦高千穂たかちほ艦長として艦隊に復帰、明治43(1910)年12月1日に海軍大佐に進級して戦艦朝日あさひ、装甲巡洋艦伊吹いぶきの艦長を歴任した。伊吹艦長を最後に艦隊勤務を終える。元号が大正に変わった最初の定期異動で海軍大学校選科学生を命じられる。決まった課程はなく指定の課題について研究するとされているが現実には与える職務がなかったのだろう。

第二艦隊司令長官

 大正2(1913)年8月31日に海軍少将に進級し、依仁親王のあとを継いで横須賀鎮守府艦隊司令官に補せられる。ちょうど1年後に第一次世界大戦が勃発して山屋やまや他人たにんが出征すると空いた海軍大学校長に補せられた。大正5(1916)年は艦隊で第二戦隊司令官として巡洋戦艦鞍馬くらま生駒いこまを率いた。上司にあたる第一艦隊司令長官は吉松よしまつ茂太郎しげたろうだった。1年で艦隊をおりると大正5(1916)年12月1日に海軍中将に進級して海軍軍令部出仕となる。この時期以降は基本的に無任所に置かれながらときどき思い出したかのように役職を与えられるということを繰り返した。階級が上がると政治的な判断を求められるようになり、自分の艦のことだけを考えていればよかった大佐までとは勤務の質が変わってくる。皇族という立場にあっては任せられないことが出てくるのは仕方がなかった。皇族特有の公務が増えていたことも影響しただろう。
 大正9(1920)年度には第二艦隊司令長官に親補された。相方にあたる第一艦隊司令長官は前半は山屋他人、後半は栃内とちない曽次郎そうじろうだった。軍事参議官としてふたたび無任所となり、大正11(1922)年12月1日に海軍大将に親任される。それからまもない大正22(1923)年2月に貞愛親王が薨去し、伏見宮を継承した。大正13(1924)年から翌年にかけて佐世保鎮守府司令長官をつとめている。

 大正11(1922)年に依仁親王が亡くなったため、皇族の海軍軍人としては最先任で最年長となる。ともにドイツに留学した菊麿王は明治末に大佐で亡くなっている。義理の甥にあたる有栖川宮栽仁たねひと王は海軍兵学校在学中に病死した。当時、博恭王の次に位置する皇族の海軍軍人は博恭王の長男で海軍大尉(大正12(1923)年12月1日進級)の博義ひろよし王だった。海軍で「宮」「殿下」といえば博恭王のことを意味するという時代が長く続く。昭和天皇も博恭王には遠慮があったという。井上いのうえ良馨よしか元帥が昭和4(1929)年に亡くなると、「元帥」(東郷平八郎)と「殿下」の権威に誰も太刀打ちできなくなる。

 ロンドン条約問題では末次すえつぐ信正のぶまさに反対論を吹き込まれる。「他の者が言えなくても私なら世間話のついでに陛下に申し上げることができる」として昭和天皇のに拝謁を求めて「今日は軍縮のことについて申し上げたいと思います」と話を切り出したが、天皇は横を向いたまま返事をしなかった。やむを得ず博恭王はそのまま退出した。天皇は側近に「伏見宮が軍縮について意見を言おうとしたが、その任にない者の話を聞かされても困るので聞かなかった」と話したという。

軍令部総長

 昭和6(1931)年、満州事変直後に陸軍で閑院宮かんいんのみや載仁ことひと親王(元帥陸軍大将)が参謀総長に就任する。載仁親王は博恭王の叔父にあたり10歳年長で日露戦争で師団長をつとめた経験がある。皇族の権威を背景に陸軍の影響力を高めようというもくろみだった。海軍でも陸軍に対抗して海軍軍令部長に皇族をあてようという意見が起こる。該当するのは博恭王以外になかった。明治時代に熾仁たるひと親王や彰仁あきひと親王が参謀総長をつとめた前例がある陸軍と違って、海軍では皇族を海軍軍令部長どころか聯合艦隊司令長官にもあてたことはない。天皇に対して輔弼の責任を負うとされている海軍軍令部長に皇族をあてるということは「殿下に陛下に対する責任を負わせることになる」として反対する意見が強かったが、大角おおすみ岑生みねお海軍大臣はそうした筋論よりも陸軍の権威に負けるわけにいかないという政局を優先して博恭王の海軍軍令部長親補を決める。それからまもない昭和7(1932)年5月27日、27回目の海軍記念日に元帥府に列せられた。死去、危篤を除いて生前に元帥の称号を与えられたのは海軍では大正6(1917)年の伊集院いじゅういん五郎ごろう以来15年ぶりだった。
 皇族で海軍ではふたりしかいない元帥のひとり、日露戦争で名誉の負傷を負った英雄である博恭王の威信を背景に、軍令部次長に起用された高橋たかはし三吉さんきちは海軍省の権限の一部を移して軍令部の権限を強化しようと運動する。博恭王は「私の任期のあいだでなければできまい。ぜひやれ」と後押しした。すでに軍令部長人事で譲っていた大角大臣は抗しきれず、権限強化は実現し職名は軍令部総長と変わる。

 前身の海軍軍令部長から通算すると博恭王の在職期間は9年あまりにおよぶ。しかし実務は軍令部次長に任せきりで指導力を発揮した形跡はない。もともと博恭王は軍令部で勤務した経験はほとんどなかった。日本の最高勲章である大勲位頸飾を賜った直後の昭和9(1934)年5月30日に東郷元帥が死去すると海軍でただひとりの元帥となって、権威を一身に集めた。日中戦争がはじまっても次長の嶋田しまだ繁太郎しげたろう、のち古賀こが峯一みねいちに相変わらず任せていたが、長男博義王が駆逐隊司令として戦傷を負ったときには自分と同じく皇族の義務を果たしたとして喜んだ。しかしその翌年、博義王は病死してしまう。博恭王は少なくとも表面上は冷静に受け止めていたという。嫡子には博義王の遺児である博明ひろあき王が立てられた。
 昭和15(1940)年頃には体力も衰え交代を考えはじめる。10月に参謀総長の載仁親王が杉山すぎやまはじめに交代したことも後押しする。昭和16(1941)年4月に永野ながの修身おさみに軍令部総長を譲った。博恭王を除くと永野は現役大将の中では最先任で順当な人事ではあるが、逆にいえば永野以外は現役から外れていたということで、そこには博恭王の意向が反映されている。永野は博恭王のお気に入りであった。重要な人事については博恭王の了承を得るというのが慣例になっていた。10月に東條とうじょう英機ひでき内閣が成立するときに海軍大臣に嶋田繁太郎を推したのも博恭王だといわれる。嶋田も博恭王のお気に入りだった。太平洋戦争中「東條べったり」と海軍部内で評判が悪かった嶋田が大臣に留まれたのには博恭王の支持もあった。昭和19(1944)年2月に嶋田が軍令部総長を兼ねたときも博恭王の同意を得て実行している。
 嶋田が退任すると博恭王の影響力も低下する。70歳近い本人の衰えもあった。昭和18(1943)年8月には四男の伏見博英ひろひで大尉が戦死した。既述の通り長男の博義王は昭和13(1938)年に病死し、次男で華頂宮を継いだ博忠王も中尉で病死している。四人の男子のうち三人に先立たれ生き残ったのは三男の華頂博信ひろのぶ(終戦時大佐)だけだった。

 昭和19(1944)年末に倒れ闘病生活となる。終戦の報せを聞くと「致し方ない、万事巻き直しだ」とつぶやいた。昭和20(1945)年11月末には元帥府条例が廃止され、70歳を越えていた博恭王は退役扱いとなる。昭和21(1946)年6月15日には海軍将校分限令が廃止されて海軍大将の身分も失う。それからまもない昭和21(1946)年8月16日に薨去。享年72、満70歳。元帥海軍大将大勲位功一級。

元帥海軍大将 博恭王 (1875-1946)

 伏見宮は孫の博明王が継承したが日本国憲法施行後の昭和22(1947)年10月14日に皇籍を離脱した。

おわりに

 伏見宮博恭王は昭和海軍史を語る上ではずせない人物であります。威仁親王、依仁親王の記事にならって「博恭王」の表記で通しましたが普通は「伏見宮」で通っており自分で書いていながら途中で後悔しました。

 ウィキペディアの片岡七郎の項目にドイツ留学について誤りがあることは指摘しましたが、博恭王と菊麿王を「伏見宮兄弟」と記載しているのに気づきました。正しくは従兄弟です。

 次回は久邇宮朝融王です。ではまた次回お会いしましょう。

(カバー画像は日露戦争で分隊長をつとめ負傷した戦艦三笠)

付録(履歴)

明 8(1875).10.16 誕生(愛賢王)
明16(1883). 4.23 華頂宮継承(博恭王)
明19(1886). 4. 5 海軍兵学校予科生徒
明22(1889). 9.17 海軍兵学校退校
明22(1889). 9.28 独国留学被仰付
明24(1891).10. 5 独国海軍兵学校通学
明25(1892). 4. 8 独国海軍兵学校入校
明26(1893). 3.30 海軍少尉候補生 独国留学被仰付
明27(1894). 4.20 海軍少尉
明27(1894).10. 3 独国海軍大学校通学
明28(1895). 8.15 独国海軍大学校卒業
明28(1895).10.28 帰朝
明28(1895).10.29 厳島分隊士
明29(1896). 4.20 松島乗組
明30(1897). 3.17 海軍砲術練習所学生
明30(1897). 7.19 呉水雷団水雷艇隊附
明30(1897). 9.14 呉水雷団水雷艇隊艇長心得
明30(1897).12. 1 海軍中尉 富士分隊長心得
明30(1897).12.27 海軍大尉 富士分隊長
明32(1899). 8.26 浅間分隊長
明33(1900).10.13 海軍砲術練習所教官兼分隊長
明34(1901). 6.10 出雲分隊長
明35(1902). 4.22 朝日分隊長
明35(1902). 7. 8 海軍大学校選科学生
明36(1903). 7.24 三笠分隊長
明36(1903). 7.29 海軍少佐
明37(1904). 1.16 伏見宮復帰
明37(1904).10. 5 海軍省軍務局局員/戦時大本営附
明38(1905). 8.20 新高副長
明38(1905).11. 3 大勲位菊花大綬章
明39(1906). 4. 1 功四級金鵄勲章 沖島副長心得
明39(1906). 5.11 浪速副長心得
明39(1906). 9.28 海軍中佐 浪速副長
明39(1906).11. 5 日進副長
明40(1907). 2.15 海軍大学校選科学生
明40(1907).12.18 英国駐在被仰付
明43(1910). 5.23 帰朝被仰付
明43(1910). 7.25 海軍軍令部出仕
明43(1910). 9.26 高千穂艦長心得
明43(1910).12. 1 海軍大佐 朝日艦長
明45(1912). 3. 1 伊吹艦長
大元(1912).12. 1 海軍大学校選科学生
大 2(1913). 8.31 海軍少将 横須賀鎮守府艦隊司令官
大 3(1914). 8.18 海軍大学校長
大 3(1914). 8.29 海軍大学校長/海軍軍令部出仕
大 4(1915).12.13 第二戦隊司令官
大 5(1916).12. 1 海軍中将 海軍将官会議議員/海軍軍令部出仕
大 8(1919).12. 1 第二艦隊司令長官
大 9(1920).12. 1 軍事参議官
大11(1922).12. 1 海軍大将
大13(1924). 2. 5 佐世保鎮守府司令長官
大14(1925). 4.15 軍事参議官
昭 7(1932). 2. 2 海軍軍令部長/海軍将官会議議員
昭 7(1932). 5.27 元帥
昭 8(1933).10. 1 軍令部総長/海軍将官会議議員
昭 9(1934). 4.29 大勲位菊花章頸飾
昭16(1941). 4. 9 免軍令部総長
昭17(1942). 4. 4 功一級金鵄勲章
昭20(1945).11.30 退役被仰付
昭21(1946). 8.16 薨去

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