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三十一提督の軍艦小話(さわ)

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海軍・軍艦に関する記事をまとめました
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2023年5月の記事一覧

海軍大臣伝 (5)斎藤実

海軍大臣伝 (5)斎藤実

 歴代の海軍大臣について書いています。今回は斎藤実です。
 前回の記事は以下になります。

海軍士官として 斎藤実は安政5(1858)年10月27日、仙台藩伊達家の一門水沢伊達氏に代々仕える家系に生まれた。水沢伊達氏家臣としては高い家格ではあったが、仙台藩主からみれば陪臣ということになる。維新の後、明治6(1873)年に海軍兵学寮(のち海軍兵学校)に入寮して海軍士官の道を選んだ。当時の日本海軍は薩

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海軍大臣伝 (4)山本権兵衛

海軍大臣伝 (4)山本権兵衛

 歴代の海軍大臣について書いています。今回は山本権兵衛です。
 前回の記事は以下になります。

海軍兵学寮生徒 山本権兵衛は嘉永5(1852)年10月15日に生まれる。父は薩摩藩の祐筆だった。薩英戦争には年齢をいつわって砲弾運びに加わり、戊辰戦争に従軍した。維新後は東京で勝海舟の薫陶をうけ、これからは海軍の時代だという勝の勧めに従って築地の海軍兵学寮(のち海軍兵学校)に入寮する。当時の生徒の中には

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海軍大臣伝 (3)仁礼景範

海軍大臣伝 (3)仁礼景範

 歴代の海軍大臣について書いています。今回は仁礼景範です。
 前回の記事は以下になります。

揺籃期の海軍で 仁礼景範は薩摩藩士の出身で、天保2(1831)年2月24日に生まれた。幕末にはすでに壮年で、倒幕に奔走したが慶応2(1866)年に藩命でアメリカに留学したため戊辰戦争には参戦していない。明治元(1868)年に帰国、新政府に出仕してはじめ兵部省、のち海軍省に勤務した。明治7(1874)年海軍

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海軍大臣伝 (2)樺山資紀

海軍大臣伝 (2)樺山資紀

 歴代の海軍大臣について書いています。今回は樺山資紀です。
 前回の記事は以下になります。

陸軍軍人として 樺山資紀は天保8(1837)年11月20日、薩摩藩士の家に生まれた。幼名は覚之進。同僚の樺山家の養子となる。戊辰戦争に従軍したあと、新政府の陸軍に出仕して明治4(1871)年には陸軍少佐に任官。明治7(1874)年には陸軍中佐に進み、西南戦争では熊本鎮台参謀長の職にあり、司令官の谷干城中将

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海軍大臣伝 (1)西郷従道

海軍大臣伝 (1)西郷従道

 初代海軍大臣の西郷従道はその直前まで陸軍卿で、陸軍中将の階級を持っていました。そうした人物が突然海軍大臣に就任できたのはそうした時代だったからとも言えますが、実はそれでも海軍大臣は勤まるという証拠でもあります。
 前回の記事は以下になります。

陸軍時代 西郷従道は薩摩藩の出身で天保14(1843)年5月4日生まれ、有名な西郷隆盛の弟で、兄を大西郷と呼ぶのに対し小西郷とも呼ばれた。通称を慎吾とい

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海軍大臣伝 (ゼロ)総説

海軍大臣伝 (ゼロ)総説

 日本海軍の海軍大臣についてとりあげていきたいと思います。
 以下は参考記事です。

海軍大臣とは 海軍大臣は明治18(1885)年の内閣官制で設置された。明治憲法では国務大臣のひとりとして天皇を輔弼し所管の行政の責に任じるとされた。その点では内閣のほかの閣僚と差はない。
 しかし軍については憲法に特別の規定があって、第11条「天皇は陸海軍を統帥す」(原文カタカナをひらがなにした。以下同様)、第1

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日本海軍の艦隊 全集合(5) 太平洋戦争 後半

日本海軍の艦隊 全集合(5) 太平洋戦争 後半

 日本海軍の艦隊の変遷について説明しています。今回が最終回になります。
 前回の記事は以下になります。

中部太平洋 昭和18(1943)年11月21日、アメリカ軍がギルバート諸島に上陸する。ニミッツ提督が指揮するいわゆる中部太平洋ルートによる反攻のはじまりだった。この地域の防衛は第四艦隊の担任だったが要地防御以上のことはできず、アメリカの機動部隊に対抗できるのは聯合艦隊主力の第二、第三艦隊だった

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日本海軍の艦隊 全集合(4) 太平洋戦争 前半

日本海軍の艦隊 全集合(4) 太平洋戦争 前半

 日本海軍の艦隊の変遷について説明しています。今回は太平洋戦争の開戦から昭和18年末まで。
 前回の記事は以下になります。

第一段作戦 開戦劈頭の真珠湾空襲には第一航空艦隊に第二艦隊から抽出した部隊を付属した機動部隊を臨時編成してあてられた。このように、建制とは別に指揮下(この場合は聯合艦隊の指揮下)の部隊を適宜編合して短期あるいは長期の作戦に充当する部隊編制を軍隊区分と呼ぶ。軍隊区分は指揮官(

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日本海軍の艦隊 全集合(3) 日中戦争

日本海軍の艦隊 全集合(3) 日中戦争

 日本海軍の艦隊の変遷について説明しています。今回は日中戦争の開始から太平洋戦争の直前まで。
 前回の記事は以下になります。

日中の衝突 昭和12(1937)年7月7日、盧溝橋事件で日中戦争が始まった。はじめ戦局の中心は華北地方で北支事変と呼ばれ海軍の関与は限定的だったが、8月9日上海特別陸戦隊の大山大尉が殺害された大山事件をきっかけに華中でも衝突が起こった。日中の全面戦争の様相を呈し支那事変と

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日本海軍の艦隊 全集合(2) 日中戦争以前

日本海軍の艦隊 全集合(2) 日中戦争以前

 日本海軍の艦隊の変遷について説明しています。今回は日露戦争の後から日中戦争がはじまるまで。
 前回の記事は以下になります。

明治から大正にかけて 日露戦争が終わった明治38(1905)年12月20日、戦時編制が解かれて平時体制に復帰したが戦前そのままでというわけではなかった。第一艦隊と第二艦隊が併存した上で、南清艦隊と練習艦隊が編成された。戦力は大幅に縮小され、戦艦はすべて艦隊からはずれ、第一

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日本海軍の艦隊 全集合(1) 日露戦争まで

日本海軍の艦隊 全集合(1) 日露戦争まで

 日本海軍の艦隊の変遷を追ってみようと思います。初回は明治初期から日露戦争まで。

初期の艦隊 日本海軍ではじめに艦隊が編成されたのは明治3(1870)年7月28日(旧暦)に普仏戦争の勃発にともなって中立維持のため小艦隊を編成して横浜、兵庫、長崎、函館各港に警備のための軍艦を配備したときのことである。小艦隊は明治5(1872)年5月18日に中艦隊と改称したが明治8(1875)年10月28日に解散し

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陸海軍大臣は親補職?

陸海軍大臣は親補職?

 先日、以下のような記事を書きました。

 そのために参照したウィキペディアで疑問に思うような記述を見つけました。以下は「親任官」の項目のセクション「親補職」からの引用です。

 陸海軍大臣が親任官であるというのはいろいろな書籍に記述があるので知っていたのですが、同時に親補職であるというのは初めて見ました。出典を見ると奥宮正武氏の戦後の著作で、法制の解説書といえるようなものではないようです。ウィキ

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爵位を得て華族になった日本海軍軍人

爵位を得て華族になった日本海軍軍人

 明治17(1884)年から昭和22(1947)年まで60年にあまり、日本には爵位制度が存在しました。海軍軍人で爵位を得た者を挙げていきます。なお家柄や相続など本人の功績以外の理由での叙爵は除きます。

華族と爵位 明治のはじめ、堂上貴族と大名諸侯をあわせて華族とし、皇室の藩屏と位置付けた。しかし華族に関する法整備は遅れた。明治17(1884)年7月7日に華族令が制定され、この中で公侯伯子男の五等

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海防艦 新高 遭難記

海防艦 新高 遭難記

 数年前に集中的に調べたことがあるのですが、改めてまとめてみました。見やすくするために軍艦名を太字にしています。

三等巡洋艦 新高 日清戦争後に海軍が計画した軍備拡張計画のうち第二期拡張計画は明治29(1896)年に帝国議会に提出され可決された。この計画に含まれていた三等巡洋艦が新高級として国内で建造されることになった。
 明治34(1901)年1月7日に横須賀海軍造船廠(翌年、横須賀海軍工廠造

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