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日本海軍の艦隊 全集合(5) 太平洋戦争 後半

 日本海軍の艦隊の変遷について説明しています。今回が最終回になります。
 前回の記事は以下になります。

中部太平洋

 昭和18(1943)年11月21日、アメリカ軍がギルバート諸島に上陸する。ニミッツ提督が指揮するいわゆる中部太平洋ルートによる反攻のはじまりだった。この地域の防衛は第四艦隊の担任だったが要地防御以上のことはできず、アメリカの機動部隊に対抗できるのは聯合艦隊主力の第二、第三艦隊だったが、燃料の問題で出撃できなかった。翌昭和19(1944)年1月には日本海軍が長年決戦水域として想定していたマーシャル諸島が襲われたがやはり聯合艦隊は動けず、ギルバート同様に第四艦隊の陸上部隊だけが孤軍奮闘して玉砕した。
 この状勢をうけて2月15日、大本営直轄で錬成に励んでいた第一航空艦隊が聯合艦隊に編入された。背に腹は変えられないということだろう。同日、第五艦隊司令長官が志摩清英中将に交代した。
 しかしアメリカ軍は日本軍に対応のいとまを与えなかった。2月17日、内南洋中部のカロリン諸島を襲撃する。トラック環礁は南東方面への策源地であり艦隊の根拠地隊として「太平洋のジブラルタル」と呼ばれた重要拠点だったが、一方的に攻撃されて大損害を被り基地機能は停止した。この責任を負って第四艦隊司令長官小林仁中将は更迭され、2月19日に原忠一中将が親補された。

 2月25日、日露戦争直前の明治36(1903)年にはじめて編成され、その後いちども中絶することなく編成され続けてきた第一艦隊が廃止された。かつては海軍の主兵と考えられていた戦艦部隊は太平洋戦争ではほとんど出動せず、特に旧式戦艦は内地にあって練習艦の役割を果たすぐらいでお荷物扱いされていた。ほとんど出番がない第一艦隊に戦艦はともかくとしても巡洋艦や駆逐艦を所属させておくのはもったいないとして、第二艦隊に編入された。

 3月1日、第二艦隊と第三艦隊をともに指揮下に置く第一機動艦隊司令部が新編され、司令長官は第三艦隊司令長官小沢治三郎中将が兼ねた。両艦隊は聯合艦隊の機動部隊に位置付けられ、きたるべきアメリカ機動部隊との決戦においては、第三艦隊が主隊、第二艦隊が前衛部隊をつとめるとされていた。第三艦隊と第二艦隊の指揮関係については、前年6月に第二艦隊司令長官が更迭されて第三艦隊司令長官よりも後任となったことで一応の解決はされたが、明確に指揮関係を定めるべきと判断されてこうした措置がとられた。
 その直後の3月4日、内南洋の防衛を担当する中部太平洋方面艦隊司令部が新設され、南雲忠一中将が司令長官に親補された。第四艦隊を編入し、基地航空部隊である第十四航空艦隊を新編した。第十四航空艦隊司令長官は中部太平洋方面艦隊司令長官南雲中将が兼ねた。
 これにより、地域防衛部隊である中部太平洋方面艦隊と、基地航空部隊である第一航空艦隊、機動部隊である第一機動艦隊という、アメリカ軍を中部太平洋で迎え撃つ体制が形の上では整えられた。なおこれまでの各地での作戦と同様に、潜水艦部隊の第六艦隊も参加する。

 ところがその矢先の3月31日、南洋群島西部のパラオ諸島をアメリカ軍が空襲した。ちょうど同地にあった古賀聯合艦隊司令長官はフィリピンに退避したがその道中に行方不明になる。軍令承行令にしたがい、聯合艦隊で長官に次で先任となる南西方面艦隊司令長官高須四郎大将(3月1日昇進)が一時的に聯合艦隊の指揮をとることになった。しかし高須大将が位置した蘭印ジャワ島は戦局の焦点である中部太平洋からはるかに遠く、ちょうどニューギニア方面にも米軍が圧力を加えつつあることもあって、航空戦力を中部太平洋からニューギニア方面に抽出しようとするなど少なからぬ混乱をきたした。古賀長官が殉職と判定され、聯合艦隊司令長官の後任に豊田副武大将が親補されたのは5月3日のことである。

 6月15日、もうひとつの基地航空部隊である第二航空艦隊がやはり大本営直轄で新編された。司令長官には福留繁中将が親補された。

 これに先立つ6月11日、アメリカ機動部隊がサイパンやグアム、テニアンといったマリアナ諸島を襲った。これを想定していなかった日本軍は奇襲をうけ、基地航空部隊は壊滅した。第一機動艦隊は急ぎ救援に向かったがアメリカ機動部隊に破れ、喪失艦船は多くなかったが母艦航空隊は事実上全滅した。
 アメリカ軍の目標を誤認していた日本海軍では艦隊司令部を後方と考えていたマリアナ諸島に置いていた。テニアンの第一航空艦隊司令部、サイパンの中部太平洋方面艦隊司令部と第六艦隊司令部が玉砕した。中部太平洋方面艦隊、第十四航空艦隊、第一航空艦隊は解隊され、第四艦隊は聯合艦隊直轄に戻った。第六艦隊司令部は内地で再建され、7月10日に三輪茂義中将が司令長官に親補された。

南東方面

 ニミッツ提督の太平洋艦隊が中部太平洋に襲いかかっているあいだも、マッカーサー率いる南西太平洋軍はその手を緩めなかった。日本軍の防御拠点を直接攻撃することなく迂回して後方に進出し、防御拠点を立ち枯れさせる「蛙飛び」作戦を基本として、多くの日本軍を無力化して前進を続けた。トラック環礁の壊滅でラバウルの航空隊は引き揚げ、日本軍は攻勢がとれなくなった。第十一航空艦隊はラバウルで、第八艦隊はブインで補給を絶たれながらかろうじて自活をはかっている状態だった。

 前年に新編されたばかりの第九艦隊はニューギニアで後退を強いられウエワクからホーランジアに司令部を移していた。上級部隊であるはずのラバウルの南東方面艦隊との連絡も困難になり、3月25日南西方面艦隊の指揮下に移った。それからひと月ほど後、司令部のあるホーランジアにアメリカ軍が上陸をはじめた。典型的な「蛙飛び」だった。不意をつかれた司令部は背後のジャングルに退避し、そのまま消息を絶った。5月3日付で玉砕と認定され、第九艦隊は解隊された。残存部隊は南西方面艦隊直轄とされた。

 古賀聯合艦隊司令長官が殉職した時の混乱については先に述べたが、実はこのときすでに南西方面艦隊の高須長官は体調を崩していた。6月18日、司令長官に三川軍一中将が親補されて高須大将は帰国する。高須大将は9月に戦病死した。

フィリピン

 マリアナ失陥で東條内閣は退陣に追い込まれる。日本海軍は母艦航空隊の再建を断念し、基地航空部隊の増強、錬成に邁進する。

 7月10日、吉良俊一中将を司令長官とする第三航空艦隊が聯合艦隊指揮下に新編された。本土にあって防空と訓練に従事した。
 7月20日には第二航空艦隊が聯合艦隊に編入される。

 8月2日、及川古志郎大将が軍令部総長に移り、代わって野村直邦大将が海上護衛司令長官に親補された。

 8月7日、第一航空艦隊が再編成されて寺岡謹平中将が司令長官に親補された。直後の8月10日、南西方面艦隊に編入される。

 次の決戦場がフィリピンになると(今度は正しく)判断した日本では、南西方面艦隊司令部をジャワからフィリピンに移すとともに、三川軍一司令長官がフィリピンを担当する第三南遣艦隊司令長官を兼ねることとした。

 9月15日、北東方面艦隊司令長官兼第十二航空艦隊司令長官が後藤英次中将に交代した。

 アメリカ軍の攻撃が切迫していた10月20日、ダバオ誤報事件を起こした第一航空艦隊の寺岡長官が更迭され、大西瀧治郎中将にかわった。

 アメリカ軍がフィリピンに襲来した10月下旬、日本海軍はもてる戦力のすべてを動員して迎え撃った。蘭印スマトラで比較的豊富な石油を使って訓練を行っていた第二艦隊は、西方からフィリピンに向かった。第三艦隊は囮となって本土方面からフィリピンに南下した。北東方面艦隊の第五艦隊も南方に投入されて第二艦隊の後を追った。第一航空艦隊の大西長官は体当たりの特別攻撃隊という非常手段を採用した。第二航空艦隊もフィリピンに投入された。しかしアメリカ軍を阻止することはできなかった。
 比島戦のさなかの11月1日に、南西方面艦隊司令長官が大川内伝七中将に交代した。大川内中将は上海陸戦隊で名を知られた陸戦の専門家である。年末にはアメリカ軍がルソン島に上陸し、マニラで激しい市街戦を繰り広げた後、南西方面艦隊司令部はルソン島の山中に退避した。

 11月11日、第三航空艦隊司令長官の吉良中将が病気のため寺岡謹平中将に交代する。

 11月15日、わずかに残った母艦航空隊も失なわれ、第三艦隊が解隊されるとともに第一機動艦隊も廃止された。第二艦隊は聯合艦隊直轄に戻り、第三艦隊の残存艦艇を編入した。

 12月5日、南方に抽出された第五艦隊は南西方面艦隊に移され、麾下の艦隊を奪われた北東方面艦隊は廃止された。第十二航空艦隊は聯合艦隊直轄とされた。

 12月10日、海上護衛総司令部麾下の第一海上護衛隊が格上げされて第一護衛艦隊と改称した。司令長官には岸福治中将が親補された。

 12月23日、第二艦隊司令長官が伊藤整一中将に交代した。

 年がかわって昭和20(1945)年1月8日、フィリピンで消耗した第二航空艦隊は解隊されて残存兵力は第一航空艦隊に編入された。

南西方面の孤立

 フィリピンの戦闘は続いたが、周辺の制空権と制海権を失ない本土と南西方面の資源部隊の連絡はとれなくなったことに加えて、大川内中将の南西方面艦隊司令部はルソン島の山中を彷徨しており麾下部隊の指揮が難しくなった。そこでシンガポールに新しく方面艦隊司令部を置き、南西方面艦隊の一部を指揮させることになる。はじめ(第九艦隊に続けて)第十艦隊の名称で計画されたが、複数の艦隊を指揮下に置くため第十方面艦隊として新編され、昭和20(1945)年2月5日に福留繁中将が親補された。第一、第二南遣艦隊、第十三航空艦隊を編入した。第五艦隊は廃止された。

 南西方面艦隊の下に残った第四南遣艦隊は3月10日に廃止された。第一航空艦隊も組織図の上では南西方面艦隊に属していたが、実際には台湾から特攻作戦を継続していた。第一航空艦隊は5月8日に聯合艦隊直轄に移され、最終的に南西方面艦隊に残ったのは第三南遣艦隊だけとなった。

 第十方面艦隊は本土から切り離され、西はビルマやスマトラ、東はボルネオに迫る連合軍を防ぎながら終戦まで持ち堪えた。

最後の年

 3月1日、九州地方に第五航空艦隊が新編され宇垣纏中将が司令長官に親補された。同日、練習聯合航空総隊を実戦部隊に改編して第十航空艦隊が編成され、前田稔中将が司令長官に親補された。

 3月15日、第十二航空艦隊司令長官が宇垣莞爾中将に交代した。

 沖縄戦がはじまると、九州にあった第五航空艦隊が主力となって特攻攻撃を加える。南方の台湾からも第一航空艦隊が特攻を行なった。
 第二艦隊の戦艦大和を主力とする部隊は沖縄をめざしたが撃沈され、第二艦隊司令長官伊藤整一中将は戦死した。第二艦隊はそのまま廃止され、わずかな残存艦艇はもはや編入するべき艦隊もなく、多くは鎮守府の警備艦などにあてられた。

 4月10日、朝鮮海峡方面の防御にあたる第七艦隊が新編されて聯合艦隊の指揮下に置かれた。司令長官は第一護衛艦隊司令長官岸福治中将の兼務であり、実際には海上護衛総隊と聯合艦隊の両属に近かったと思われる。本土周辺まで連合軍の潜水艦が跳梁している実情を反映している。

 4月25日、聯合艦隊、支那方面艦隊、海上護衛総司令部、各鎮守府、各警備府をあわせ指揮する海軍総隊司令部が新編された。海軍の全実力部隊を一手に指揮する組織が、この段階に至ってはじめて設置された。海軍総司令長官に聯合艦隊司令長官豊田副武大将が親補されたのをはじめ、総司令部の職員は聯合艦隊司令部職員の兼務で、実際には聯合艦隊に指揮権を統一したのに等しい。
 5月1日には豊田海軍総司令長官が海上護衛司令長官をも兼ねた。同日、第六艦隊司令長官が醍醐忠重中将に交代した。

 既述のとおり、第一航空艦隊が5月8日付で南西方面艦隊から聯合艦隊直轄に移され、5月10日に司令長官が志摩清英中将に交代した。

 5月15日、支那方面艦隊司令長官が福田良三中将に交代した。

 5月29日、豊田海軍総司令長官が軍令部総長に転出し、小沢治三郎中将が海軍総司令長官兼聯合艦隊司令長官・海上護衛司令長官に親補されることになった。これに先立つ24日、南東方面艦隊と南西方面艦隊が海軍総司令部の指揮から外れ大本営直轄となった。草鹿南東方面艦隊司令長官と大川内南西方面艦隊司令長官は小沢中将と同期であるが卒業順位が上のため先任になる。下位者が上位者を指揮しないように指揮系統から外されたが、遠隔地に孤立していて実際には支障はなかった。

 6月15日、第一航空艦隊が解隊された。

 7月10日には第一護衛艦隊司令長官に田結穣中将が親補され、第七艦隊司令長官との兼務を解消した。

 このころ、複数の航空艦隊をあわせ指揮する聯合航空艦隊の編成が検討されており、第五航空艦隊司令長官の宇垣纏中将が聯合航空艦隊司令長官に内定していたといわれるが、終戦で実現しなかった。

 8月15日、終戦の日。第五航空艦隊の宇垣纏中将が自ら特攻機に搭乗して沖縄に向かったが、隊員を道連れにしたその行動は批判された。第三航空艦隊司令長官寺岡謹平中将は終戦を知りながら特攻を命じたとしてやはり批判された。
 8月17日には第五航空艦隊司令長官に草鹿龍之介中将が親補されて復員処理にあたった。8月26日には表向き厚木航空隊反乱の責任をとるとして第三航空艦隊の寺岡中将が更迭され山田定義中将が司令長官に親補されたが、終戦の日の命令が影響したともいわれる。小沢海軍総司令長官は批判的だったらしい。
 8月20日、第七艦隊司令長官が大森仙太郎中将に交代した。

 海軍総司令部と聯合艦隊司令部は10月10日に解散した。艦隊令は11月いっぱいで廃止されたが、外地の復員にはさらに年月を必要とした。

 終戦後、8月末の艦隊編制を挙げておく。

海軍総司令部(小沢治三郎中将)
 聯合艦隊(小沢治三郎中将)
  第四艦隊(原忠一中将)
  第六艦隊(醍醐忠重中将)
  第七艦隊(大森仙太郎中将)
  第三航空艦隊(山田定義中将)
  第五航空艦隊(草鹿龍之介中将)
  第十航空艦隊(前田稔中将)
  第十二航空艦隊(宇垣莞爾中将)
  第十方面艦隊(福留繁中将)
   第一南遣艦隊(福留繁中将)
   第二南遣艦隊(柴田弥一郎中将)
   第十三航空艦隊(福留繁中将)
 支那方面艦隊(福田良三中将)
  第二遣支艦隊(藤田類太郎中将)
 海上護衛総司令部(小沢治三郎中将)
  第一護衛艦隊(田結穣中将)
 鎮守府・警備府(略)
南西方面艦隊(大川内伝七中将)
 第三南遣艦隊(大川内伝七中将)
南東方面艦隊(草鹿任一中将)
 第八艦隊(鮫島具重中将)
 第十一航空艦隊(草鹿任一中将)

おわりに

 昭和19年に入ると艦隊は次々にすり潰されていきました。新設にもつとめましたが追いつきませんでした。艦隊司令長官クラスにも戦死者が続出します。
 昭和20年にはもはや艦隊の体をなさなくなっていました。わかっていたことではありますが、書いていて悲哀を禁じ得ません。

 さて次回は何を書きましょうか。

 ではもし機会がありましたらまたお会いしましょう。

(カバー画像は最後の聯合艦隊旗艦をつとめた軽巡洋艦大淀)

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