見出し画像

日本海軍の艦隊 全集合(4) 太平洋戦争 前半

 日本海軍の艦隊の変遷について説明しています。今回は太平洋戦争の開戦から昭和18年末まで。
 前回の記事は以下になります。

第一段作戦

 開戦劈頭の真珠湾空襲には第一航空艦隊に第二艦隊から抽出した部隊を付属した機動部隊を臨時編成してあてられた。このように、建制とは別に指揮下(この場合は聯合艦隊の指揮下)の部隊を適宜編合して短期あるいは長期の作戦に充当する部隊編制を軍隊区分と呼ぶ。軍隊区分は指揮官(例えば聯合艦隊司令長官)の指揮権の行使として発令されるため、既存の組織とは一致しないことが珍しくない。この記事では建制となった艦隊編制について述べているので、そのときどきの軍隊区分まではいちいち網羅できないことは了承いただきたい。

 太平洋戦争の第一段作戦の主目標である南方資源地帯の確保は、まずフィリピン方面の第三艦隊と、マレー方面の南遣艦隊が主体となり、基地航空部隊の第十一航空艦隊が支援する形ではじまった。第二艦隊の巡洋艦、駆逐艦部隊や、第一航空艦隊の航空母艦なども投入される。
 年がかわった昭和17(1942)年1月3日、南遣艦隊を第一南遣艦隊(司令長官小沢治三郎中将)と改称し、フィリピンからさらに南下する第三艦隊からフィリピン警備に残留する部隊を分離して第三南遣艦隊を新編した。第三南遣艦隊司令長官には杉山六蔵中将が親補された。第一段作戦の最終目標といえるオランダ領東インド(蘭印)のジャワに東西から迫り、陥落させたのは3月上旬のことである。ここに第一段作戦は完了した。

南西方面艦隊

 3月10日、第三艦隊は第二南遣艦隊(司令長官高橋伊望中将)と改称し、シンガポールの第一南遣艦隊、ジャワの第二南遣艦隊、マニラの第三南遣艦隊が東南アジア占領地域を分担警備することになる。4月10日、聯合艦隊の下に南西方面艦隊司令部が新設され、第一ないし第三南遣艦隊を編入した。南西方面艦隊司令長官は第二南遣艦隊司令長官高橋伊望中将が兼ねた。南西方面艦隊の新設により、聯合艦隊の下に南西方面艦隊、その下に第一、第二、第三南遣艦隊という艦隊の三層構造ができあがった。これまで二層どまりだったことと比べると画期的だったが、太平洋正面の対策に専念したい聯合艦隊の負荷の一部を南西方面艦隊に分担させたいという狙いがあった。この後、他方面にも方面艦隊が編成されていく。

 第一段作戦には潜水艦を主力とする第六艦隊も兵力を派出していた。その司令長官清水光美中将は米軍機の攻撃で負傷し、3月16日小松輝久中将に交代した。

 内南洋を担当する第四艦隊では、第一航空艦隊の増援を得てオーストラリア領ニューギニアのラバウルを占領した。

ミッドウェー

 第一段作戦終了後の4月にはインド洋作戦が行なわれ、第一航空艦隊を主力とする機動部隊がイギリス東洋艦隊をインドからアフリカ東部に後退させた。
 5月、第四艦隊に航空母艦を増援してニューギニア島南部のポートモレスビー攻略をめざしたが、珊瑚海でアメリカ空母部隊に迎撃され中止した。

 本土東方の警戒は第五艦隊の任務だった。4月、指揮下の特設監視艇が東京空襲を狙うアメリカ空母を発見したが、その後の対応が遅れて阻止できなかった。かねて山本長官が構想していたミッドウェー作戦はこの空襲を経て俄然具体化し、6月には聯合艦隊の主力を総動員したミッドウェー作戦が実行されたが空母4隻を失って中止された。この作戦には第一航空艦隊のほか、第一、第二艦隊主力も投入された。
 ミッドウェーと同時に計画された北方アリューシャン諸島の占領は、本来は本土東方を警戒することが任務の第五艦隊(司令長官細萱戊子郎中将)を基幹として一部空母などを増援する形で実施された。日本海軍のほとんど全てが南向きだったのに対し、第五艦隊は本土東方から千島列島北端までを守備範囲としていたためであろう。以後、第五艦隊は軍隊区分で北方部隊と呼ばれるようになる。第五艦隊ではミッドウェーでの敗北を受けてアリューシャン攻略の中止を具申したが、聯合艦隊司令部からの「予定通り攻略せよ」との命令をうけてアッツ、キスカ両島を占領した。

ミッドウェー後の再編

 ミッドウェー海戦から一ヶ月あまりのちの7月14日、艦隊編制が一部変更された。まず第一航空艦隊を廃止して第三艦隊を新編した。第一航空艦隊では空母だけが配属されていて護衛にあたる部隊は適宜第二艦隊などから派出されていたのに対し、第三艦隊では空母と護衛艦艇を編入して建制として機動部隊を編成し、これによって普段から機動部隊としての行動を前提とした訓練や戦術の統一をはかった。司令長官には第一航空艦隊に引き続き南雲忠一中将が親補された。ミッドウェーの雪辱を強く希望した南雲中将の意を汲んだものといわれている。
 あわせて赤道以南の主にオーストラリア領のニュージーランドやソロモン諸島などを担当する第八艦隊が新編されて司令長官には三川軍一中将が親補され、軍隊区分としては外南洋部隊と呼ばれた。
 また負傷が癒えた清水光美中将が第一艦隊司令長官に親補された。

 結果としてこの改編は非常にタイミングが良かったことになる。一か月も経たない8月6日にアメリカ海兵隊がソロモン諸島南部のガダルカナル島に上陸し、半年におよぶ攻防戦が開幕する。
 第八艦隊はただちに出動、アメリカ艦隊に打撃を加える。基地航空部隊である第十一航空艦隊はラバウルに進出して連日空襲を行なった。第二、第三艦隊からなる機動部隊もしばしばソロモン諸島方面に出動してアメリカ艦隊と第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦などを戦った。南太平洋海戦では一応アメリカ艦隊に勝利してミッドウェーの雪辱を果たしたとされたが、機動部隊の指揮官である第三艦隊司令長官南雲忠一中将は、その護衛をつとめるはずの第二艦隊司令長官近藤信竹中将よりも後任で、南雲中将が近藤中将に命令できないことは問題だった。
 10月1日、体調を崩した塚原中将にかわって草鹿任一中将が第十一航空艦隊司令長官に親補された。11月11日には雪辱を果たした南雲中将にかわって小沢治三郎中将が第三艦隊司令長官に親補された。
 12月20日、ラバウルにある第八艦隊と第十一航空艦隊を統一指揮する南東方面艦隊司令部が新編され、草鹿任一第十一航空艦隊司令長官が南東方面艦隊司令長官を兼ねた。

 昭和18(1943)年2月、ガダルカナル島から日本軍が撤退した。

 ガダルカナル関係以外の昭和17年の艦隊の異動をまとめておく。
 4月10日に第三遣支艦隊が廃止され青島方面特別根拠地隊に改編された。
 9月15日、南西方面艦隊司令長官に高須四郎中将が親補された。
 10月26日、内南洋の第四艦隊司令長官に鮫島具重中将が親補された。
 11月20日、支那方面艦隊司令長官に吉田善吾大将が親補された。

長期持久体制

 ガダルカナル島から撤退を余儀なくされた日本軍は絶対国防圏を設定してこの線で連合軍の攻勢を迎え撃つとされた。昭和18(1943)年は南東方面のソロモン諸島、ニューギニア島が主な戦場となる。

 4月1日、第八艦隊司令長官としてガ島戦を指揮した三川軍一中将が激務を解かれ、後任には第四艦隊司令長官の鮫島具重中将が横滑りした。第四艦隊司令長官には小林仁中将が親補された。
 同じ日、北方でアメリカ艦隊と交戦したアッツ沖海戦でその指揮ぶりを批判された細萱戊子郎第五艦隊司令長官が更迭され、河瀬四郎中将が親補された。

 4月18日、南東方面の航空作戦を視察していた山本聯合艦隊司令長官が乗機を撃墜されて戦死した。後任には古賀峯一大将が親補された。

 本来は機動的に運用されるはずだった基地航空部隊の第十一航空艦隊が南東方面に拘束されて動かせなくなってしまった。ひとまず、アリューシャン諸島方面から圧力を加える米軍に対処するために北東方面を担当する基地航空部隊である第十二航空艦隊が5月18日付で新編され、聯合艦隊に編入された。司令長官には戸塚道太郎中将が親補された。

 6月21日、潜水艦部隊である第六艦隊司令長官が高木武雄中将に交代した。

 7月1日、基地航空部隊である第一航空艦隊が新編された。これ以降、航空艦隊はすべて基地航空部隊をあらわすようになる。番号が十番代の航空艦隊は特定の方面に配置されたのに対し、第一航空艦隊は機動的に運用されることを想定しており、練度が十分にあがるまでは前線に投入しないとして聯合艦隊に加えず大本営直轄とした。司令長官には角田覚治中将が親補された。

 8月5日、北東方面艦隊司令部が聯合艦隊の指揮下に新編されて第五艦隊、第十二航空艦隊を編入した。北東方面艦隊司令長官は第十二航空艦隊司令長官戸塚道太郎中将が兼ねた。

 8月9日、第二艦隊司令長官が栗田健男中将に交代した。これにより第三艦隊司令長官小沢治三郎中将が第二艦隊司令長官よりも先任になった。

 8月20日、第一遣支艦隊が廃止されて揚子江方面特別根拠地隊に格下げされた。

 9月20日、南西方面艦隊の下に第十三航空艦隊が新編された。司令長官は南西方面艦隊司令長官高須四郎中将が兼ねた。この新編によりすべての方面艦隊にひとつずつ航空艦隊が配属されることになった。

 10月20日、第一艦隊司令長官清水光美中将が南雲忠一中将に交代した。戦艦陸奥が爆沈した事故の責任をとったといわれる。

 南東方面艦隊はソロモンとニューギニアを担当区域としていたが、地上部隊を指揮する第八艦隊はソロモン諸島で手一杯で、司令部から遠く戦局が深刻さを増すニューギニアまで対応できなかった。そこで11月15日、第九艦隊を南東方面艦隊の下に新編してニューギニア方面の陸上部隊を指揮することとした。司令長官には遠藤喜一中将が親補された。
 この日、大本営直轄の海上護衛総司令部がもうけられ、司令長官には及川古志郎大将が親補された。累積する商船の被害に耐えかね、海上護衛に専従する艦隊レベルの司令部がはじめて編成された。司令長官に聯合艦隊の古賀大将よりも3期上の及川古志郎大将をあてたのはその意欲のあらわれであるが与えられた兵力は充分なものではなかった。

 フィリピンを除く東南アジア島嶼部、ニューギニア以西の広い範囲を第二南遣艦隊が担当していたが、ニューギニア方面の戦況はますます厳しくなり警戒を強める必要があった。11月30日、第二南遣艦隊を東西に二分し、東部を第四南遣艦隊が担当することになった。南西方面艦隊に編入され、司令長官には山縣正郷中将が親補された。

 12月1日、支那方面艦隊司令長官が近藤信竹大将に交代した。

 最後に昭和18年末の艦隊編制を挙げておく。

聯合艦隊(古賀峯一大将)
 第一艦隊(南雲忠一中将)
 第二艦隊(栗田健男中将)
 第三艦隊(小沢治三郎中将)
 第四艦隊(小林仁中将)
 第六艦隊(高木武雄中将)
 南東方面艦隊(草鹿任一中将)
  第八艦隊(鮫島具重中将)
  第九艦隊(遠藤喜一中将)
  第十一航空艦隊(草鹿任一中将)
 南西方面艦隊(高須四郎中将)
  第一南遣艦隊(田結穣中将)
  第二南遣艦隊(三川軍一中将)
  第三南遣艦隊(岡新中将)
  第四南遣艦隊(山縣正郷中将)
  第十三航空艦隊(高須四郎中将)
 北東方面艦隊(戸塚道太郎中将)
  第五艦隊(河瀬四郎中将)
  第十二航空艦隊(戸塚道太郎中将)
第一航空艦隊(角田覚治中将)
支那方面艦隊(吉田善吾大将)
 第二遣支艦隊(副島大助中将)
海上護衛総司令部(及川古志郎大将)

おわりに

 ずっと昔にまとめた資料をもとにまとめたので、文字数のわりに時間はかかっていません。まあその代わり昔時間を使ったわけですが。
 昭和18年末というのはアメリカ軍の中部太平洋方面からの本格反攻がはじまる前で切っています。厳密に言うと年内からギルバート作戦が始まっていたのですけどね。

 次回はたぶん終戦までいけると思います。たぶん。

 ではまた次回お会いしましょう。

(カバー画像は太平洋戦争開戦時の聯合艦隊旗艦である戦艦長門)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?