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日本海軍の艦隊 全集合(3) 日中戦争

 日本海軍の艦隊の変遷について説明しています。今回は日中戦争の開始から太平洋戦争の直前まで。
 前回の記事は以下になります。

日中の衝突

 昭和12(1937)年7月7日、盧溝橋事件で日中戦争が始まった。はじめ戦局の中心は華北地方で北支事変と呼ばれ海軍の関与は限定的だったが、8月9日上海特別陸戦隊の大山大尉が殺害された大山事件をきっかけに華中でも衝突が起こった。日中の全面戦争の様相を呈し支那事変と呼ばれるようになる。10月20日、従来から中国全般を担当していた第三艦隊は揚子江作戦に専念することとなり、中国沿岸警備を担当する第四艦隊が新編され豊田副武中将が司令長官に親補された。第三、第四両艦隊を指揮下に置く支那方面艦隊司令部が新編され、第三艦隊司令長官長谷川清中将が支那方面艦隊司令長官を兼ねた。11月20日には大本営が編成された。
 昭和13(1938)年2月1日に塩沢幸一中将を司令長官とする第五艦隊が新編されて支那方面艦隊に編入された。5月に予定されていた南支作戦の支援にあたり、軍隊区分では南支部隊とされた。第三艦隊を中支部隊、第四艦隊を北支部隊として、支那方面艦隊はこれらの部隊を統轄するとともに直属部隊をもって上海・南京地区を警備する体制が整った。

 一方で聯合艦隊は内地にあって引き続き訓練に励んでいた。昭和13(1938)年度の聯合艦隊司令長官には第二艦隊司令長官だった吉田善吾中将が横滑りした。後任の第二艦隊司令長官には同期生の嶋田繁太郎中将が就いた。

 昭和13(1938)年4月25日、支那方面艦隊司令長官兼第三艦隊司令長官が長谷川中将から中国通でしられた及川古志郎中将に代わった。

 昭和14(1939)年度の聯合艦隊司令長官は吉田中将が留任したが第二艦隊司令長官には豊田副武中将が親補された。第四艦隊司令長官には日比野正治中将が就いた。南支では広東攻略作戦が進行中だったが、年度がわりの人事異動に遅れて12月15日に近藤信竹中将が司令長官に親補される。第五艦隊は翌年海南島を占領する。

 昭和14(1939)年8月30日、独ソ不可侵条約の電撃的な調印を受けて内閣が総辞職する。新内閣では吉田聯合艦隊司令長官が海軍大臣として入閣することになり、後任には同期生で海軍次官の山本五十六中将が親補された。

体制の再編

 昭和14(1939)年はじめの海南島占領で中国大陸沿岸部の要地は日本の手に落ちた。海軍は引き続き航空部隊による内陸部空襲、砲艦による揚子江警備、陸戦隊による要地警備にあたったが、艦船部隊を海軍の本来の主敵であるアメリカに備えようという動きが起きた。

 昭和14年11月15日、支那方面艦隊の編制を大きく縮小し第三艦隊を第一遣支艦隊、第五艦隊を第二遣支艦隊、第四艦隊を第三遣支艦隊とそれぞれ改称した。
 同じ日、委任統治領南洋諸島を担当する第四艦隊が改めて編成され、片桐英吉中将が司令長官に親補された。軍隊区分を内南洋部隊とよび、連合艦隊には編入されず大本営直轄とされた。
 昭和15(1940)年度の聯合艦隊司令長官は引き続き山本中将がつとめ、第二艦隊司令長官には古賀峯一中将が親補された。

聯合艦隊の拡大

 昭和15年度の艦隊には大きな動きは少なく、5月1日に支那方面艦隊司令長官が嶋田繁太郎中将に代わったことが目立つくらいである。嶋田長官は「自分の任期中に支那事変を片付ける」と所信を示したが実現できなかった。北部仏印進駐では第二遣支艦隊が支援にあたったが、あくまで平和進駐を堅持する海軍側と、武力行使も辞さない陸軍側で意見がまとまらず、海軍が陸軍部隊を置き去りにして引き上げるという事件が起こった。
 年度終わりに近い9月には長年候補生の遠洋航海にあたっていた練習艦隊の編制が解かれ、事実上廃止された。

 昭和16(1941)年度に入ると艦隊が続々と編成され聯合艦隊に編入されるようになる。聯合艦隊司令長官は山本大将(昭和15年11月15日昇進)が異例の3期目をつとめることになる。第二艦隊司令長官の古賀中将も留任した。
 第四艦隊(内南洋部隊)司令長官が高須四郎中将にかわり、大本営直轄から聯合艦隊に編入された。同時に、潜水艦を主力とする第六艦隊が聯合艦隊下に新編された。第六艦隊司令長官は平田昇中将である。

 年が改まった昭和16年1月15日、基地航空部隊を集約した第十一航空艦隊が編成されて連合艦隊に編入された。軍艦を持たない艦隊のはじめである。司令長官には片桐英吉中将が親補された。
 4月10日、第三艦隊第一航空艦隊が新編されて聯合艦隊に編入された。第三艦隊は日米開戦の際にはフィリピン攻略にあたることを予定されていたが、当面は第二遣支艦隊の指揮で南支の封鎖作戦や南部仏印進駐にあたった。司令長官には高橋伊望中将が親補された。
 第一航空艦隊はこれまで各艦隊に分散配備されていた航空母艦を集約運用しようというものであって、潜水艦を集約した第六艦隊や、基地航空部隊を集約した第十一航空艦隊と同じような考えかただった。しかし航空母艦はそれだけを集めても戦力にはならない。直接護衛にあたる艦船は他部隊に頼ることになり、任務部隊としては欠陥があった。司令長官には南雲忠一中将が親補された。
 7月21日には第六艦隊司令長官が清水光美中将にかわり、7月25日には本土東方海上の警戒を担当する第五艦隊が新編されて細萱戊子郎中将が司令長官に親補された。

 7月31日、南部仏印の警備にあたる南遣艦隊が大本営直轄として新編され、平田昇中将が司令長官に親補された。

 8月11日、これまで聯合艦隊司令長官が兼ねていた第一艦隊司令長官に高須四郎中将(第四艦隊司令長官)を親補し、独立した第一艦隊司令部を編成した。後任の第四艦隊司令長官には井上成美中将が親補された。

 9月1日、第二艦隊司令長官古賀峯一中将が支那方面艦隊司令長官に移り、近藤信竹中将が第二艦隊司令長官に親補された。

 9月10日、第十一航空艦隊司令長官が塚原二四三中将にかわり、10月18日には南遣艦隊司令長官が小沢治三郎中将にかわった。南遣艦隊はマレー半島攻略を担当することとなり、10月21日に聯合艦隊に編入された。

 昭和15年度には第一、第二の2個艦隊で構成されていた聯合艦隊だが、昭和16年度が終わろうとするころには第一、第二、第三、第四、第五、第六、第一航空、第十一航空、南遣の9個艦隊を隷下にもつに至った。

おわりに

 日中戦争で泥縄式に拡大した艦隊がいったん縮小整理され、それが開戦を控えてあれよというまに膨張していくさまは目を見張ります。

 次回は太平洋戦争前半、米軍の本格的な反攻が開始されるまでくらいかと考えていますが実際に書いてみないことには読めません。

 ではまた次回お会いしましょう。

(カバー画像は上海に停泊する支那方面艦隊旗艦 一等海防艦出雲)

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