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小沢治三郎中将の聯合艦隊司令長官就任 - 昭和20年5月29日

 終戦間際に聯合艦隊司令長官の更迭があり、それに伴って多少のゴタゴタがあったことはその筋では知られていますが、あえてまとめてみました。

昭和20年の日本海軍

 昭和19年秋、比島決戦に惨敗した日本海軍は、いよいよ本土を背にして迫り来る聯合軍を迎え撃つしかなくなった。昭和20年1月1日に出された大海令第36号で、聯合艦隊司令長官が作戦に関して支那方面艦隊・海上護衛総司令部・鎮守府部隊・警備府部隊を指揮する、とされたのはその現れだろう。聯合艦隊が内地部隊も含むすべての海軍部隊を統一指揮することになった。
 しかし4月、内閣も交代し、沖縄作戦でも日本の退勢が明らかになると、本土決戦が現実的に不可避になってきた。聯合艦隊による統一指揮についても「作戦に関して」などという中途半端なものではなく明確に指揮下に置くべきだとされるようになり、聯合艦隊の上に海軍総司令部を新設し、聯合艦隊以下警備府までのすべての海軍部隊を指揮下に置くこととした。海軍総司令長官は、豊田副武聯合艦隊司令長官が兼ねることになる。

小沢治三郎

 5月後半、豊田海軍総司令長官を軍令部総長に移し、後任には小沢治三郎軍令部次長をあてるという人事がもちあがる。豊田は「敗軍の将が出世するなんて」と抵抗したが米内光政海軍大臣が押しきったという。一方の小沢はこの機に米内大臣から大将昇進を勧められたが本人が拒否した。
 小沢治三郎中将はかねてから将来を期待され、開戦時には南遣艦隊司令長官として東南アジアの占領を指揮した。その後は第三艦隊司令長官として空母機動部隊を指揮し、機動部隊が壊滅した後は軍令部次長として全般作戦を指導した。満を持しての登板とも言えるのだが、小沢が手にした戦力は潜水艦と航空・水上・水中の特攻隊だけだった。

人事異動

 この前後、海軍では大きな人事異動が起きていた。まず海軍次官であった井上成美が更迭された。表向きは大将昇進に伴うものだったが海軍省の中枢からはずされてしまう。横須賀鎮守府司令長官の塚原二四三、呉鎮守府司令長官の野村直邦がそれぞれ戸塚道太郎、金沢正夫に交代した。支那方面艦隊司令長官の近藤信竹は福田良三に代わった。
 この人事異動は小沢の海軍総司令長官(兼聯合艦隊司令長官)就任に伴うものと言われている。交代したのはいずれも小沢から見ると先輩にあたる。後任になったのは小沢の後輩である。現在でも官庁では同期生の誰かが事務次官に出世すると自分は退職する慣例だというが、指揮権の上下が死活的に重要な軍隊では階級の差についで年期の差が公式な序列を構成するとされていたから、単純に無意味な慣習と笑い飛ばすわけにはいかない。なお米英などでは恒久的な階級とは別に臨時に階級を昇進させるという運用をしていたが、ひとりにひとつだけの階級を与える日本ではできない話だった。米内大臣が大将昇進を勧めたのにはそういう背景があったかもしれないが、小沢自身が拒否してしまった。米内も強くは押さなかった。

大本営直轄

 もうひとつの厄介ごとは、小沢と同期だが兵学校卒業成績が高い、つまり順位では小沢より上にいた大川内伝七と草鹿任一が司令長官をつとめる南西方面艦隊と南東方面艦隊だった。いずれも聯合艦隊の指揮下にあったが、草鹿の南東方面艦隊は外南洋ラバウルで孤立したまま自活生活を送っており、大川内の南西方面艦隊司令部は米軍の攻撃をうけて比島ルソン島の山中をさまよっていた。
 本来であれば彼らも交代させるべきだったが、もはや交代要員を送る術もなく、またいずれも南方の遠隔地に孤立して実効戦力としては実体もなくなっていた。そこでこの両方面艦隊は聯合艦隊の指揮下から外して大本営直轄とされた。

敗戦

 8月15日、敗戦。小沢に与えられた時間は3ヶ月に満たなかった。この間、小沢は九州や関東を中心に聯合軍の本土上陸を妨害するための特攻部隊の編成・配置・戦力化に尽力したが、日本にとって幸いなことに無駄な努力に終わった。勝ち目がない状況を誰よりもわかっていた小沢は敗戦を受け入れ、徹底抗戦を求める厚木航空隊の小園大佐の説得に自らあたるつもりだったともいう(実際には軍医が麻酔を打って拘束された)。
 軍令部では総長の豊田副武、次長の大西瀧治郎がいずれも終戦に反対したが、実戦部隊の責任者である小沢が冷静に受け入れたことで、海軍部隊の武装解除は比較的混乱なく終わった。聯合艦隊と海軍総司令部は10月10日に解散した。

おわりに

 小沢の聯合艦隊司令長官就任に伴う一連の人事異動は一般に「終戦まぎわの末期になっても軍令承行令に縛られていたため起きたドタバタ」と評されていますが、もしかしたらこれは海軍上層部を一気に若返りさせる米内大臣の策略ではないかとも思いました。結果的に米内は自ら昇格させた豊田についてのちに「見損なった」と嘆くことになりますが、この一連の人事によって米内は海軍部内で揺るぎない優位を確保しました。かろうじて対抗できるとすれば伏見宮くらいでしょうが、このときすでに病床にありました。
 この時点ですでに米内のなかでは終戦をめざすことで気持ちが固まっていたとするならば、必要なのは支持者ではなく追従者だったかもしれません。
 もちろんこれは推測でしかありませんし、米内本人は昭和23年に亡くなってしまったので確認しようがありません。単なるひとつの考え方にすぎません。

 ではもし機会がありましたらまた次回お会いしましょう。

(カバー画像は終戦後、呉工廠のドックに集められた未完成の小型潜水艇)


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